付 録


内部から海を写す

 読谷村は海に突き出た半島状の地形になっている。東側は海抜183mの読谷山岳を頂点に、国頭礫層からなる丘陵山地となっており、西側は127mの座喜味城跡を頂点に、石灰岩からなる台地が広がっている。石灰岩中にできた洞窟(ガマ)も、村内各地に散在している。そのガマが沖縄戦においては、住民を「鉄の暴風」から守る防空壕の役割を担い、さらに人々の共同生活の場ともなった。村内には、比謝川、長田川、長浜川が流れており、地先は珊瑚礁(リーフ)に囲まれている。
 このような地理的条件を考慮の上、日米両軍の作成した地図などをとおして日本軍の配置及びその動きを見ていく。

 

昭和19年(1944)8月上旬まで

 読谷山村への日本軍部隊配置は、昭和17年8月に渡具知電信屋へ警備兵が駐屯したことに始まる。次に、昭和18年夏頃より、大本営直轄の陸軍航空本部より技術将校が配置され、北飛行場の建設が始まる。
 昭和19年7月頃からは、第56飛行場大隊(9173部隊)など、飛行場建設関係部隊が続々と北飛行場に配置され、飛行場だけでなく、掩体壕や慰安所なども造った。同じく昭和19年7月、球部隊(独立混成第44旅団独立混成第15連隊)が村全域に駐屯し始めた。この部隊は、村内各地に陣地構築をしたが、一か月後には配置変えとなり伊江島を含む国頭方面へと移動した。

昭和19年(1944)8月中旬〜11月下旬

 球部隊と入れ替わり、昭和19年8月には北海道出身兵の多い山部隊(第24師団)が読谷山村にやってきた。山部隊は陣地構築とともに、村内の山から材木の切り出しなどを行った。同時期に、第21野戦高射砲隊司令部が大湾に置かれ、座喜味、喜名、伊良皆、楚辺と北飛行場を囲む態勢で高射砲部隊が配置された。
 昭和19年10月初め頃までには、北飛行場に、保安・輸送・通信、飛行機の整備、燃料補給などを任務とする風部隊(大刀洗航空廠那覇分廠と中央航空路部)が、小禄飛行場から移動してきた。

昭和19年(1944)12月〜昭和20(1945)1月下旬

 昭和19年11月、島尻方面に駐屯していた武部隊(第9師団)の台湾転出が決定したため、山部隊が島尻へ移動することになった。読谷山村からの山部隊転出にともない、昭和19年12月、国頭方面に移動した球部隊(独立混成第44旅団)が再び読谷山村に戻ってくることになった。師団から旅団になったということは、部隊の規模が小さくなったことを意味する。

昭和20年(1945)2月〜3月末

 昭和20年1月下旬、球部隊は再び本島南部の知念半島へと配置変えになった。具志頭村港川からの米軍上陸に備え、球部隊の主力をそこへ集結させるためであった。このため、読谷山駐屯の日本軍部隊は少なくなっていた。
 3月23日、沖縄諸島へ米軍からの激しい空襲が始まった。この日、現地召集の防衛隊や航空部隊などを寄せ集めて、特設第一連隊が編成された。そして主力は220高地(読谷山岳)を陣地にして、努めて長く米軍の進攻を北飛行場でとどめておくことを命じられた。
 3月25日、艦砲射撃が開始され、住民の多くは北部へと避難した。村内に留まっていた高射砲部隊や、風部隊などほとんどの部隊が南部へと配置変えとなった。

 

日米両軍作成の読谷山村日本軍陣地配置地図

 以下に掲載する2つの地図は、球部隊が再び読谷村に駐屯した時期の陣地配置図である。日本軍が作成した地図は、昭和19年12月18日現在の「北地区隊兵力配置陣地編成要図」(球部隊作成)である。アメリカ軍が作成した地図は、1945年(昭和20)1月22日現在の「沖縄島南部地域防衛図」である。
 昭和19年12月から昭和20年1月にかけて、読谷山村に駐屯していたのは、独立混成第十五連隊(琉部隊)、高射砲部隊、航空部隊及び海軍部隊であった。

 

〈日本軍が作成した地図〉

「北地区隊兵力配置陣地編成要図 昭和19年12月18日現迄」
『沖縄戦資料56』所収「独立混成第15連隊第二大隊 陣中日誌S19.12.1〜12.31」より複写加工


〈米軍が作成した地図〉

「沖縄島南部地域防衛図 1945年1月22日現在」
読谷村発行『平和の炎Vol.8』所収「沖縄群島」告示第53-45号より


 

*鹿砦(ろくさい)について(日本軍作成の地図)

 沖縄方面陸軍作戦主要部隊記(符)号一覧表と照合すると、海中に記された×印は鹿砦(ろくさい)(樹枝の障害物)と書かれている。本文42頁(アブトゥガマのトーチカ)に「守備軍は渡具知から残波に至るまでのリーフに、アメリカ軍の進攻を妨害するということで松の木を立ててありましたが、都屋地先にはそのような物はありませんでした」とある。敵艦船の上陸を妨げるために海中に立てた松の木が、地図中の×印の地点である。

*トーチカについて

 米軍作成地図に「ビーチ沿いの小銃掩体と機関銃陣地」と記されている海岸沿いに、上陸軍を迎え撃つトーチカのマーク()がある。トーチカとは、ロシア語で、機関銃などを置いた場所(銃砲座)をコンクリートで覆った陣地のことである。
 日本軍が作成した地図を見ると、読谷の海岸沿いに、敵の上陸を妨害する目的で、いくつかの陣地が配置されている。♂の符号は軽機関銃である。
 現在残っている海岸沿いのトーチカは、前述の都屋漁港内アブトゥガマのトーチカと楚辺吉川原海岸のトーチカ(45頁)である。また、日米両軍の地図に軽機関銃、トーチカの印のある国吉屋取(現むら咲きむら)地先、すなわち波平の中折原海岸を実地踏査したところ、砲台と銃眼跡と思われる遺構を確認できた。
(右上写真参照)

 

*戦車壕について

 日本軍の地図には、海岸から内陸部に向けて、戦車壕と記された箇所がある。戦車壕とは、上陸してきた敵戦車の進撃を妨害するために掘られた、落とし穴のようなものである。
 日本軍は、この戦車壕に戦車のキャタピラがはまり込んで動けなくなることを想定していた。しかし、米軍戦車にとっては何の妨害にもならず、小学生まで駆り出された戦車壕掘りは徒労に終った。現在、その戦車壕を確認することはできない。これは戦車壕が掘られた一帯に、戦後米軍がボーロー飛行場等の基地を建設したからである。

*高射砲陣地と北飛行場について

 旧日本軍は読谷山村の土地を強制的に接収し、広大な飛行場を建設した。米軍の地図には、詳細で正確な情報が記入されている。北飛行場の様子も滑走路から誘導路、待機場にいたるまで、詳細に記されている。北飛行場の北方面に位置する座喜味城跡に、飛行場守備の任務を帯びた高射砲部隊が配置されていた。しかし、本文(60頁)にある通り、昭和19年(1944)10月10日の大空襲の時には、この高射砲は全く役に立たなかった。
 昭和18年夏頃から20年当時、北飛行場周辺には、旧日本軍が飛行機を隠すために読谷山村民をはじめ、沖縄各地の人々を徴用して、10基の掩体壕が構築されていた(第32軍司令部南西諸島空襲詳報「沖縄北飛行場被弾状況要図」より)。1978年頃までは座喜味に7基が残っていたが、現在は3基が残っている(65頁参照)。

 

 

読谷山村に駐屯した日本軍部隊

部隊名

駐留地 備考
第二十四師団兵器部 喜名一六〇高地 昭和19年10月11日から昭和19年12月まで160高地に駐屯。第九師団が台湾に配備されたことに伴い、昭和19年12月島尻地区に移動。
第二十四師団歩兵第二十二連隊 屋良久得 昭和19年8月11日屋良久得に本部は置かれ、読谷山村南部から北谷村の警備にあたる。第九師団が台湾に配備されたことに伴い、昭和19年12月島尻地区に移動。
第二十四師団歩兵第三十二連隊 山田付近 昭和19年8月5日渡具知上陸。国頭地区配備。山田付近の警備、陣地構築にあたる。第九師団が台湾に配備されたことに伴い、昭和19年12月島尻地区に移動。
第二十四師団捜索第二十四連隊 読谷山村座喜味 昭和19年8月1日から昭和20年1月まで、読谷山村座喜味に駐屯。第九師団が台湾に配備されたことに伴い、昭和19年12月島尻地区に移動。
第二十四師団輜重兵第二十四連隊 読谷山村喜名 昭和19年8月8日から昭和19年12月10日まで読谷山村喜名付近に駐屯。第九師団が台湾に配備されたことに伴い、昭和19年12月島尻地区に移動。
第二十四師団輜重兵第二十四連隊
自動車大隊(第二大隊)
古堅国民学校

昭和19年8月中旬から昭和19年12月中旬まで古堅国民学校に駐屯。第九師団が台湾に配備されたことに伴い、昭和19年12月島尻地区に移動。

第二十四師団輜重兵第二十四連隊第五中隊 古堅国民学校 昭和19年9月3日から昭和19年9月30日まで古堅国民学校に駐屯。9月3日野国より古堅国民学校に移駐。第九師団が台湾に配備されたことに伴い、昭和19年12月島尻地区に移動。
第二十四師団防疫給水部 喜名付近 昭和19年8月7日から昭和19年12月5日まで読谷山村喜名付近に駐屯。この間、8月15日から11月30日まで臨時野戦病院を開設。第九師団が台湾に配備されたことに伴い、昭和19年12月島尻地区に移動。
第二十四師団通信隊無線小隊第六分隊 喜名一六〇高地 昭和19年8月5日渡具知港より上陸後、嘉手納農林学校に駐屯。昭和19年8月23日から昭和19年9月4日まで喜名160高地に駐屯。昭和19年9月5日安波に配属。
第二十四師団野砲兵第四十二連隊 石嶺久得 昭和19年8月初旬より石嶺久得に駐屯。第九師団が台湾に配備されたことに伴い、昭和19年12月島尻地区に移動。
第二十四師団歩兵第八十九連隊
第七中隊
読谷山北飛行場築城作業 本部は楚南にあるが、 昭和19年9月18日から昭和19年9月29日まで親志の弾薬・燃料集積所、道路構築等、読谷山北飛行場周辺の築城作業のため配備。
独立機関銃第三大隊第三中隊 読谷山村座喜味 昭和19年9月28日第三十二軍命令にて第二十四師団に配属。昭和19年10月15日より同12月初旬まで、捜索第二十四連隊に配属。座喜味において陣地構築作業に従事。
独立混成第十五連隊本部 読谷山村古堅 昭和19年7月6日嘉手納着。連隊は第四十四旅団に配属される。同7月8日から8月4日まで読谷山村古堅に駐屯。その後、国頭地区・伊江島に移動。第三十二軍編成後、読谷山村に初めて駐屯した部隊。
独立混成第十五連隊残地隊 読谷山村古堅 昭和19年7月30日から読谷山村古堅に駐屯。
独立混成第十五連隊第二大隊本部 読谷山村渡慶次 昭和19年7月6日嘉手納着。同7月11日から8月5日まで、読谷山村喜名・伊良皆・座喜味・一部波平公会堂に宿営。北飛行場周辺の守備・陣地構築・通信施設の配置等の任務にあたる。その後、今帰仁へ移動。昭和19年12月9日国頭守備より読谷山村に戻り、読谷山村座喜味一帯、渡慶次国民学校に駐屯。北飛行場守備・海上警備任務にあたる。
独立混成第十五連隊第四中隊 読谷山村渡慶次 昭和19年7月6日嘉手納着。同7月11日から8月4日まで読谷山村喜名国民学校。その後、今帰仁へ移動。昭和19年12月9日国頭守備より読谷山村に戻り、渡慶次国民学校に駐屯。一部は、都屋・楚辺・渡具知に駐屯。北飛行場守備・海上警備・防空壕の構築任務にあたる。
独立混成第十五連隊第五中隊
神谷小隊
読谷山村喜名 昭和19年7月6日嘉手納着。同7月11日から8月5日まで読谷山村喜名に駐屯。北飛行場周辺の守備・陣地構築等の任務にあたる。その後、今帰仁へ移動。
独立混成第十五連隊(第五中隊) 読谷山村渡慶次 昭和19年7月6日嘉手納着。同7月15日から8月3日まで読谷山村渡慶次に駐屯。北飛行場周辺の守備・陣地構築等の任務にあたる。その後、今帰仁へ移動。
独立混成第十五連隊第六中隊 読谷山村渡慶次 昭和19年7月6日嘉手納着。同7月11日から8月5日まで読谷山村波平公会堂。北飛行場周辺の守備・陣地構築等の任務にあたる。その後、今帰仁へ移動。昭和19年12月9日国頭守備より読谷山村に戻り、渡慶次国民学校に駐屯。一部、残波岬・宇座・国吉屋取に駐屯。北飛行場守備・海上警備・防空壕の構築任務にあたる。
独立混成第十五連隊第二機関銃中隊 読谷山村渡慶次 昭和19年7月6日嘉手納着。同7月11日から8月5日まで読谷国民学校・波平公会堂。北飛行場周辺の守備・掩体・交通壕構築任務にあたる。その後、今帰仁へ移動。昭和19年12月9日国頭守備より読谷山村に戻り、渡慶次国民学校に駐屯。北飛行場守備・海上警備・防空壕の構築任務にあたる。
独立混成第十五連隊速射砲中隊 読谷山村古堅 昭和19年7月8日から昭和19年8月4日まで読谷山村古堅に駐屯。その後国頭守備、渡久地へ移動。
独立混成第十五連隊工兵中隊 古堅国民学校 昭和19年7月8日から昭和19年8月5日まで読谷山古堅国民学校に駐屯。その後国頭守備、渡久地へ移動。
第十九航空地区隊司令部 読谷山村大湾 昭和19年12月11日から昭和20年3月まで読谷山村大湾に駐屯。読谷山北飛行場建設関係部隊を指揮。昭和20年3月23日、特設第一連隊編成にともない同連隊に配属。
第五十六飛行場大隊 読谷山村北飛行場 第十九航空地区隊司令部指揮下にて読谷山村北飛行場に駐屯。昭和20年3月23日、特設第一連隊編成にともない同連隊に配属。
第五野戦航空修理厰第一分厰 読谷山村北飛行場・伊良皆 第十九航空地区隊司令部指揮下にて読谷山村北飛行場伊良皆付近に駐屯。後に中央航空路部と一体になる。昭和20年3月下旬、第三十二軍命令により、第六十二師団の指揮下に入り、首里へ転移。
第三飛行場中隊 読谷山村北飛行場 第十九航空地区隊司令部指揮下にて昭和19年6月29日(命令)から昭和19年7月22日(命令)まで読谷山村北飛行場周辺誘導路・掩体・燃弾防護施設等構築作業に従事。
第二十一航空通信隊 読谷山村北飛行場 第十九航空地区隊司令部指揮下にて読谷山村北飛行場に駐屯。昭和20年3月20日編成。同3月下旬、第三十二軍命令により、第六十二師団の指揮下に入り、首里へ転移。
誠第一整備中隊 読谷山村北飛行場 第十九航空地区隊司令部指揮下にて読谷山村北飛行場に駐屯。昭和20年3月20日以降、第二十一航空通信隊隷下に入る。昭和20年3月23日、特設第一連隊編成にともない同連隊に配属。
第二十六対空無線隊 読谷山村北飛行場 第十九航空地区隊司令部指揮下にて昭和19年7月22日から昭和20年3月まで読谷山村北飛行場に駐屯。昭和20年3月20日以降、第二十一航空通信隊隷下に入る。同3月下旬、第三十二軍命令により、第六十二師団の指揮下に入り、首里へ転移。
中央航空路部(風一八九一八隊) 読谷山村北飛行場 昭和19年8月15日編成。昭和19年9月1日から北飛行場守備。後に第五野戦航空修理厰第一分厰と一体になる。昭和20年3月下旬、第三十二軍命令により、第六十二師団の指揮下に入り、首里へ転移。
要塞建築勤務第六中隊(球二七七四部隊) 久得山西方

昭和20年3月28日から昭和20年4月1日まで読谷山村久得山西方に駐屯。昭和20年2月19日、第十九航空地区隊の指揮下に入る。昭和20年3月23日、特設第一連隊編成にともない同連隊に配属。

要塞建築勤務第六中隊金丸隊 読谷山北飛行場 昭和19年7月4日から昭和19年7月24日まで読谷山北飛行場内の各種土木・建築作業に従事。その後、美里村へ。昭和20年2月19日、本隊とともに第十九航空地区隊の指揮下に入り、同行動。
要塞建築勤務第六中隊北飛行場五十六飛大
派遣重信班
読谷山村北飛行場

昭和19年9月27日要塞建築勤務第六中隊より第五十六飛行場大隊の指揮下に入る。昭和20年2月19日、本隊とともに第十九航空地区隊の指揮下に入り、同行動。

第二十一野戦高射砲司令部 読谷山村大湾 第九師団指揮下にて那覇泊付近に配備されていたが、第九師団台湾転用に伴い、主力は昭和19年12月6日から中・北飛行場に移転、守備にあたる。
独立高射砲第二十七大隊第三中隊 読谷山村北飛行場北側 第二十一野戦高射砲司令部指揮下にて、昭和19年6月4日から昭和20年3月26日まで読谷山村北飛行場北側(座喜味城跡)守備。
野戦高射砲第七十九大隊第一中隊 読谷山村座喜味・喜名 第二十一野戦高射砲司令部指揮下にて、昭和19年8月から昭和20年3月26日まで読谷山村北飛行場北側(座喜味)に駐屯。資料不足のため期間不明だが、大隊本部も喜名に駐屯。その後、島尻地区へ移動。
野戦高射砲第八十大隊第一中隊 読谷山村国吉屋取 第二十一野戦高射砲司令部指揮下にて、昭和20年3月3日から昭和20年3月24日まで高射砲二門をもって読谷山村国吉屋取守備。状況に応じて各地の応援として守備についていた。本部・第二・三中隊は中飛行場(嘉手納)守備。
野戦高射砲第八十一大隊 読谷山村北飛行場 第二十一野戦高射砲司令部指揮下にて、昭和19年8月20日から昭和20年3月下旬まで読谷北飛行場周辺に駐屯。連隊本部伊良皆在、第一中隊大木在、第二中隊楚辺在、第三中隊伊良皆在。
機関砲第百三大隊 読谷山村北飛行場東側 第二十一野戦高射砲司令部指揮下にて、波の上周辺海岸地区の守備。「防衛庁沖縄戦資料84、高射部隊対空戦闘詳報」内の昭和20年1月4日高射部隊配置図より、一部北飛行場東側に配置されたと思われる。資料不足のため詳しい期間は不明。
機関砲第百五大隊 読谷山村大湾・楚辺 第二十一野戦高射砲司令部指揮下にて、昭和19年8月21日から昭和20年3月23日まで、読谷山北飛行場南側、楚辺・大湾に駐屯。
海軍中村防空隊 読谷山村北飛行場北側地区 第二十一野戦高射砲司令部指揮下にて、北飛行場北側の守備にあたる。防衛庁沖縄戦資料84、高射部隊対空戦闘詳報内の高射部隊配置図に記載あり。資料不足のため詳しい期間は不明。
第三十二軍航空情報隊安武隊 二二〇高地 野戦用警戒機による、米軍機の行動や戦闘状況を偵察・那覇警戒本部への報告を任務とする。
特設水上勤務第一〇四中隊 読谷山村渡具知 軍用物資の陸揚・搭載・運搬・道路工事に従事。六百数十名の朝鮮人軍夫が作業にあたっていた。昭和19年9月1日から昭和19年9月30日まで。9月以降の資料なし。
第三十二軍防衛築城隊樋口隊 読谷山村北飛行場 昭和19年9月10日より、北飛行場周辺の掩体壕工事に従事。昭和19年末まで駐屯していたと思われるが、資料不足のため期日不明。
飛行第六十七戦隊 読谷山村北飛行場 昭和20年4月1日北飛行場配備。その前後の情報については、資料不足のため不明。
第五〇三特設警備工兵隊本部 読谷山村古堅 部隊所在表より追加
第五〇三特設警備工兵隊第一中隊 読谷山村古堅 部隊所在表より追加
第五〇三特設警備工兵隊第二中隊 読谷山村伊良皆 部隊所在表より追加
第五〇三特設警備工兵隊第三中隊 読谷山村座喜味 部隊所在表より追加
第五〇三特設警備工兵隊第四中隊 読谷山村古堅 部隊所在表より追加
海軍部隊 南西諸島航空隊 読谷山北飛行場 昭和19年8月下旬より昭和20年3月末まで読谷山村北飛読谷山北飛行場派遣隊
海軍部隊 第二百二十六設営隊 読谷山村  
特設第一連隊 二二〇高地(読谷山岳) 昭和20年3月23日以降、第十九航空地区司令官青柳時香中佐を連隊長として、第一大隊(第五十六飛行場大隊、第五百三特設警備工兵隊)、第二大隊(第四十四飛行場大隊、第五百四特設警備工兵隊、要塞建築勤務第六中隊、誠第一整備隊、県立農林学校生徒隊)をもって編成され、「主力をもって二二〇高地の既設陣地に拠って努めて長く北飛行場を制扼する」ことなどを任務とした。

参考文献:防衛庁戦史室資料『沖縄戦資料』、矢崎好夫著『海軍気象士官の手記 八月十五日の天気図 死闘沖縄ことぶき山』、具志川市史編集資料6『防衛庁資料科目録』
作成者:玉城栄祐、金城真美

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