1944年(昭和19)頃から、アメリカ軍の大型機(コンソリデテッドB24やボーイングB29)が高高度で沖縄上空に現れるようになりました。銀色に輝く小さな機影が、時に一筋の真っ白い飛行雲を引いてゆうゆうと飛んでいく姿は、めずらしさに怖いことも忘れて見ほうけていました。
その頃になると、県当局の指導もあって、読谷山村内の各字でも空襲を予想して、各家庭で庭や岩陰などに防空壕を掘り始めました。
庭先に掘るとは言っても、大きさやその構造は知れています。まず庭の一角に3、4人がしゃがめるぐらいの横溝を掘り、その上に材木などを架け渡し、さらにその上に畳やむしろを敷いて土をかぶせるという造りで、一方に出入口を開けたものでした。
やがて10月10日の空襲(十・十空襲)体験や見聞から、そのような庭先の防空壕では、空襲に耐えることが出来ないことを知りました。また県当局も横穴式防空壕にするよう呼びかけて来るようになりました。
自力で横穴式防空壕を掘るのは大変なことです。そこで人々は天然の洞窟に目を向け、そこに手を加えたりして共同の避難壕にしました。
長浜集落から残波岬にかけての海岸線は、隆起珊瑚礁(りゅうきさんごしょう)の段丘が海にせり出しています。段丘(だんきゅう)の下、波打ち際近くにはいくつかの海食(かいしょく)洞窟があります。それらの洞窟が共同避難所となった洞窟群です。
瀬名波・川平集落から長浜集落に向かう県道6号線坂道の中間あたりの左手に、コンクリートを流し、簡易舗装された道がつけられています。その道をたどり下がって行くと瀬名波ガーに達します。
その泉近くに、先に述べた規模の異なるガマがあり、それぞれ名前はあるでしょうが、便宜上「瀬名波ガー周辺の洞窟群」としました。
さて、明けて1945年(昭和20)は、正月早々から空襲が始まり、瀬名波や長浜の人々はここの洞窟群を避難所にしました。やがて3月も末になりますと空襲はいよいよ激しくなり、艦砲射撃(かんぽうしゃげき)も加わるようになりました。その頃になると、瀬名波や長浜の人々だけでなく、村内の他字の人々も避難していたということです。
ここの洞窟は頑丈(がんじょう)な岩盤(がんばん)に守られているので避難していて心強く、おまけに瀬名波ガーからの飲料水も得やすかったことから、格好の避難場所となっていました。