ウフガマとカンジャーヤーガマ [マップ]


集落内にあるカンジャーヤーガマ

 長浜の字民は、1945年(昭和20)3月末、アメリカ軍の上陸前空襲の時、「ウフガマ」と「カンジャーヤーガマ」の2つの洞窟に避難して、国頭へ避難した人よりも集落に留まった人の方が多かったということです。
 「ウフガマ」は、大きな洞窟という沖縄方言名をもった天然洞窟で、長浜集落の東はずれに建っている大きな邸宅(ていたく)のすぐ下にあります。
 かつて長浜では村アシビ*を催すためには区民の承諾(しょうだく)を得なければなりませんでした。村アシビの上演が許可されると、この洞窟に集まり中年の人たちからアシビ頭(村アシビの指導者)を各班から2人ずつ(計8人)を選出し、芸能の配役(ジーヌークバイ)と地謡が決められました。
  *村アシビ:五穀豊穣や豊年を祈願するため、拝所前の広場などで行われるもので、村芝居や伝統の民俗舞踊などを披露した。
 そのような由緒あるガマですから、避難場所として選ばれるのは当然のことでしょう。そこに避難した人々は全員無事に戦争をしのぎました。
 一方、カンジャーヤーガマ(鍛冶屋洞窟)に避難した人々は米軍の仕打ちを恐れて、なかなか投降勧告(とうこうかんこく)に応じないで、ガス弾を投げ込まれ、亡くなった人もおります。証言によりますと、
 「アメリカ軍の沖縄本島上陸の日、1945年(昭和20)4月1日、ガマの前でアメリカ兵が〈カマーン、デテコイ、コロシマセン、デテキナサイ〉と言っているのを聞いて、カマー(蒲)と名前を呼んでいると思いました。とても恐かったが、ウフンミ(大嶺)のお爺さんを先頭に出て行きました。ウフンミのお爺さんは〈ワンカラ ンジラヒー ワラビンチャー(俺から出ようなあ、子供たち)〉と言って先に出て行ったのです。お爺さんの後を追って出てみると、鉄砲を担いだアメリカ兵たちが前からも後からも付いて来て、屋号ナガジョー(長門)の家の前に集められました。波平・上地・都屋・宇加地の人たちもいました。その後、アメリカ軍の将校が、〈タベモノアル、キモノアル、シンパイナイ、イエアルヒト、ジブンノイエニ、カエリナサイ〉と言って、集まった人数を確認すると、家に帰してくれました。
 2つのガマから収容された人たちは、日本軍が撤退した後の喜名や座喜味の日本軍壕に食料などを取りに行きました」。


ウフガマの外観


ウフガマ出入口を内側から写す


ウフガマ 内部から出入口を写す