楚辺捕虜収容所跡 [マップ]


中央部に捕虜収容所が見える(赤線で囲んだ部分)
(1945年12月10日米軍撮影航空写真から)

  アメリカ軍が沖縄本島に上陸して後に設置した日本兵捕虜収容施設の一つが、楚辺捕虜収容所です。楚辺捕虜収容所とは言っても、それはアメリカ軍がつけた名であって、実際には高志保集落の西外れにあったのです。
 アメリカ軍は沖縄本島上陸作戦後、各地に投降してきた日本兵の収容所を作りました。1945年(昭和20)9月頃の楚辺捕虜収容所には、屋嘉捕虜収容所から送られてきた日本の将兵捕虜たちが収容されており、楚辺捕虜収容所はあたかも屋嘉の第二支所のようになっていました。
 屋嘉捕虜収容所からは、1945年(昭和20)6月から7月にかけて沖縄出身捕虜約3千人をハワイへ送りましたが、12月以降、約8千人の日本兵捕虜が宮古島等から移されて来ると、その収容能力は限界に達しました。
 それで各地に収容所を設けて分散収容することになり、それまであった屋嘉、牧港、楚辺の他に、新たに奥武山、小禄、普天間、嘉手納の収容所が設けられました。
 その内、屋嘉、牧港、楚辺には沖縄本島で捕虜になった者が多く、その他の収容所は宮古から送られてきた捕虜が大半を占めていました。
 ちなみに、1946年4月の時点で、各捕虜収容所とその収容人員を見ると、次のとおりとなっています。

 
本部(ほんぶ)・屋嘉 287人
牧港 3,531人
楚辺 2,075人
奥武山 1,560人
小禄 1,459人
普天間 718人
嘉手納 2,874人
入院等 187人
合計 12,691人


 さて、楚辺捕虜収容所は、周囲は高さ約2メートルの有刺鉄線で囲まれており、中には約25名収容の一辺6メートルのテントが80ほど並んでおりました。さらにその中には収容所からの脱走者を入れておく金網もありました。
 娯楽施設としては野球場、土俵、演芸場などがあり、収容所対抗の野球、相撲のリーグ戦が行われるなど、スポーツが盛んで、他に楚辺南十字星楽団を結成して演奏会が催されたりしました。さらに毎週2、3回の映写会、そして収容所内の壁新聞「皆様の新聞」の発行等々、文化活動も活発でした。
 ところが、1946年(昭和21)4月21日に、内地送還とその他の処遇問題で、2日間にわたるサボタージュ(共同怠業)戦術を行い、その罰としてすべての私物は焼却処分され、以後2週間、娯楽に関することは一切禁止されたと言われます。
 1946年(昭和21)10月3日、日本兵の復員が始まり、楚辺収容所から266名、10月17日には第二次復員として670名が日本本土へ帰って行きました。そして待機組は嘉手納収容所に移され、楚辺収容所は10月8日に閉鎖されました。
 戦後、読谷山村民が村内への移住が許可されると、読谷山村建設隊はこの収容所跡から資材を集め、それを帰還する村民のための住宅建設に使ったと言われています。
 今ではこの収容所跡地はすっかり農地などに変わっていて、昔をしのぶよすがはここに載せた航空写真しかありません。高志保の年配の方々の中には今でもその跡地を「PW跡」と呼んでいるということです。

楚辺捕虜収容所

「楚邊演藝場」(横書)舞台前で野球の応援をする捕虜たち

捕虜専用風呂場の入り口には
ゲイシャガールの絵があった

捕虜の野球チーム「楚辺ジャイアンツ」

楚辺収容所長 マック大尉

野球場のほかに
米兵専用のテニスコートもあった