チビチリガマ [マップ]


チビチリガマ外観
右が修復された「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」

  県道6号線を読谷村立診療所方面から西北に進みますと、やがて波平・大当(ウフドウ)集落のはずれで二股に分かれた所に至ります。左手へ直進するのが渡慶次〜波平線です。そこをしばらく進むと、赤瓦葺きの波平地内公衆用便所があり、農道を隔てた窪地にチビチリガマの洞窟が口を開いています。
 この洞窟こそは、アメリカ軍の沖縄本島上陸の翌日1945年(昭和20)4月2日、鬼畜(きちく)と教えられたアメリカ兵の残虐な仕打ちを恐れて、肉親相互が殺しあうという凄惨(せいさん)な地獄絵図を現出したといわれる「集団自決」が行なわれた所なのです。
 証言によりますと、
 「アメリカ軍上陸直後に、壕の中から男女3人が竹やりを持って出て行き、男2人が壕の前でバタッと倒れた。すると壕内の住民は絶望感でパニックに陥り、集団死が始まる」とあります。
 別の証言者によりますと、
 「火を燃やして窒息死を図ったり、毒薬注射をして死にいたらしめ、注射液が尽きると、鎌や包丁などの刃物で肉親相互が殺し合うという惨劇(さんげき)が繰り広げられた」ということです。
 こうして、この洞窟への避難者約140人の内、無辜(むこ)の住民83人が非業(ひごう)の最期(さいご)を遂げたということです。
 後に人々は犠牲者の死を悼み、永久平和を祈念して「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」を建立しました。

ガマ内部のようす *内部撮影は1990年頃のもの。
1995年4月以降は、チビチリガマ内部へ入ることは
遺族会の意思により禁止されています。

あちらこちらに散らばっていた
遺骨が収集された

壷、一升瓶などが人々の
生活の跡を物語る

散乱した遺骨やお椀の後ろにある
錆びた鎌の刃

当時避難した人が使っていたものか、
やかんが…。そして小さな遺骨

 しかし、ここの悲劇はあの集団死だけに留まりません。海邦国体ソフトボール会場での「日の丸焼き捨て事件」に対して、「平和の像」破壊という報復行為がなされて、「死者は再び殺された」と、遺族に悲しい思いを強いました。その後、1995年4月、像は再建され、石碑も建立されました。

イングェーガマ


フェンスの中の茂みがイングェーガマ

 チビチリガマから50メートルほど南に行ったところにフェンスで囲まれたところがあります。その中のコンクリートの建造物は、長浜ダムからの灌漑配水用(かんがいはいすいよう)のポンプ施設で、雑木が茂ったあたりがイングェーガマの上部です。
 米軍上陸当日、このガマに避難していた人々は、米兵の「コロサナイ、デテキナサイ」という求めに応じてガマを出て収容されました。その中の一人が、チビチリガマの入り口まで行き、チビチリガマに避難中の人々にもガマを出るよう呼びかけたという話もあります。
 「イングェー」という名称の由来は、昔何日も雨が降らず、人々が水がなくて困っている時に、イヌが水浴びをして出てきたのでこのガマが見つかり、イヌの井戸すなわち「インガー」から「イングェー」へと変化したと伝えられています。