掩体壕 [マップ]


二つの掩体壕が並ぶ

 北飛行場(読谷山飛行場)建設は、太平洋戦争の戦局でアメリカ軍を主とする連合軍が日本軍に反撃し始めた1943年(昭和18)夏、日本陸軍航空本部によって計画され実施に移されました。
 実際の建設業務は、日本陸軍航空本部と國場組の契約により、國場組が球9173部隊の指揮・監督の下で進められました。
 当時、設営工事管理責任者の地位にあった國場幸吉の話では、おおよそ次のとおりとなっています。
 「読谷山飛行場の工事予算は2千3百万円でした。予算規模だけから言っても、沖縄では歴史上かつてない桁外(けたはず)れで、面積も東洋一といわれ、73万坪で、2千メートルの滑走路が東西と南北に2線が敷設され、飛行場の周辺には戦闘機の誘導路がはりめぐらされ、その誘導路は地下掘り込みのコンクリート格納庫に通じていました」(『読谷村誌』より引用、ただし文体は口語文に書き直した)。
 國場幸吉の話では「掩体壕(えんたいごう)」という言葉はなくて「コンクリート格納庫」となっています。コンクリート造りの格納庫なら、「掩体壕」に他なりません。それに類するような他の構造物はないからです。
 國場幸吉は「コンクリート格納庫」は地下掘り込みと言っていますが、「掩体壕」は掘り込み施設ではありません。地上に造られた分厚いコンクリート造りで、入口はカマボコの切り口みたいに口を開いていますが、奥のほうに徐々にしぼりこまれた構造になっています。
 構築工事に参加した人の話によりますと、当時は仮枠などはなく、まず空きドラム缶を積み、土をかぶせて形を整え、その上に紙を敷いてコンクリートを流したということです。もちろん鉄筋なども使用されなかったということです。
 そのような構造ですから、風化が激しく、今後どのように保存していくかが課題です。1978年頃に作成された資料では7基あると記されていますが、2003年1月末現在3基が現存しています。


米軍上陸後は米軍が使用した

昭和50年代初め頃撮影のもの

1978年頃の掩体壕に関する資料