写真で見る忠魂碑(ちゅうこんひ)は、現在、読谷村運動広場の北角、勤労者体育センターの横にあるテニスコートそばに建っています。もともと、その辺りは読谷山国民学校(読谷山尋常高等小学校)があったところで、忠魂碑は学校敷地内にあったのです。なお、最近の調査で昭和10年10月頃に建立されたことがわかりました。
戦後世代の人たちには、忠魂碑と慰霊塔を混同することもあるかも知れませんので、ここで少し説明を加えましょう。
慰霊塔や慰霊碑は、沖縄戦をはじめとする各地の戦争で亡くなったすべての人々の霊を弔(とむら)い、慰(なぐさ)め、二度とあのような惨(むご)いことは繰り返すまいとの祈りと決意をこめて建てられたものです。
ところが「忠魂碑」は、国のため、天皇陛下のために戦って死んだ軍人や軍属の「忠義」の魂を顕彰(けんしょう)するための碑なのです。そのような死者の魂を英霊(えいれい)といってほめたたえる風潮は、やがて多くの国民に戦争への道が大義(たいぎ)(天皇や国に対して果たすべき道)として叩き込まれ、多くの若者を戦場に送り、その命を散らさせ、あげくは敗戦という憂(う)き目にもあったのです。
さて、今この忠魂碑は手摺(てすり)つき台座の上に建てられていますが、碑の説明文の部分は剥(は)ぎ取られ、忠魂碑という文字はほとんどつぶされ、その字を揮毫(きごう)(書くこと)した人の名がようやく陸軍大将鈴木壮六書と読める程度です。
説明版などを壊した人は、軍国主義の忌まわしい遺物として壊したことでしょう。その気持ちは分かりますが、私たちはこうしたものを、物言わぬ証言者として残し、今後のいましめにすべきだと思います。
今、こうして戦争遺跡についてまとめ、一冊にしているのも、そのような立場からなのです。