山吹の碑・梯梧之塔 [マップ]


国道58号沿いにある「山吹の碑」

 国道58号喜名三叉路から北へ約300メートル進みますと、左手に小さな丘があり、階段がつけられています。その階段の右下の国道沿いに「山吹の碑」はあります。
 碑石の裏側には第56飛行場大隊の戦闘記録と、石碑建立の由来が刻まれています。その碑文を分かりやすい文章にしますと、おおよそ次のとおりとなります。
 「第2次世界大戦中、私たちの中隊長黒澤巌氏は第56飛行場大隊長に転任配備されて、部隊は球9173部隊と呼ばれました。
 昭和20年4月1日未明、強大なアメリカ軍が近くに上陸しますと、ただちに応戦しましたが、昼間までには兵員の半ば以上を失い、仕方なく夜間斬り込みを行って警備に当っておりました。
 明けて2日、敵の重火器(機関砲や迫撃砲)による包囲攻撃を受けました。敵味方の勢力の差はあきらかで、黒澤部隊長は負傷者や補給隊の兵隊などに脱出することを命じ、自分は残った手勢を率いて出撃し(敵中)突破口を作られましたが、午後3時ごろ、ついに部下の将兵たちとともに戦死されました。
 やがて戦火はやみ、地元喜名の住民たちは大変な戦争被害を受けて苦しい生活状態の中にありましたが、山野に散乱している(私たち将兵の)遺骨収集にあたり、洞窟に納めて慰霊碑を建て、〈梯梧の塔〉と命名して鄭重(ていちょう)に祀って下さいました。
 しかし、その地は米軍用地で立ち入り禁止地区となっており、参拝もままなりませんでした。それで昭和31年7月15日、現在の地に石碑を建立し、落成しました。その後、30年余り、供養のための香華(こうげ)は絶えることなく、ただただ感無量であります。
 ここにつつしんで石碑を建立して立派な心を顕彰し後世に伝え、あわせて当時をしのび、部隊長はじめ戦没者のご冥福を祈り、恒久平和を念願し誓うものであります。

         昭和55年5月吉日
         建立元満州第1国境守備隊第1地区隊
         砲兵第2中隊 奉賛会有志一同」

 この「山吹」という碑の名は、元日本陸軍砲兵隊員の軍服襟章(えりしょう)の色で、砲兵隊の歌に、「襟には映ゆる山吹色の…」とある砲兵カラーで、すなわち黄色のことです。
 碑文にもあるとおり、元々「山吹の碑」は、喜名区民の善意による遺骨収集作業、そして「梯梧の塔」への合祀(ごうし)から始まったものです。
 「山吹の碑」の近くにある階段を上り、小高い丘の上に達しますと、喜名区民によって建立された「梯梧之塔」があり、戦没将兵の名を刻銘した大きな塔があります。


「梯梧之塔」


「山吹の碑」