風部隊と那覇分廠の陣地跡 [マップ]


コケの覆う古墓の横に、当時の壕が散在する

 風18918部隊(中央航空路部)沖縄管区と、大刀洗航空廠那覇分廠は、兄弟部隊として飛行場での保安・輸送などの任務にあたっていました。
 1943年(昭和18)頃、小禄海軍飛行場に陸軍航空保安部の那覇出張所がおかれました。それが翌年の8月には大本営直轄となり、風18918部隊(中央航空路部)沖縄管区を編成して、第5保安中隊(沖部隊中城隊)と第9勤務中隊(八重山隊)を編成しています。
 一方、那覇分廠は、大刀洗航空廠の分廠として小禄飛行場に設置されました。
 1944年(昭和19)9月、風部隊は北(読谷山)飛行場へ移動しました。那覇分廠の読谷山への移動も同じ時期だと思われます。
 北(読谷山)飛行場に来た2つの部隊は、飛行場の東端、県道(現国道58号)近くの木造瓦葺き屋根の建物を本部としていました。
 ところが十・十空襲で建物は破壊し尽くされ、その後、風部隊と那覇分廠は、伊良皆の亀地(図)橋や比謝の深迫原に既にあった三角兵舎を利用し、防空壕も増築しました。またこの付近一帯で、部隊の農業班が畑仕事をしていました。現場は軍用地内です。比謝バス停近くの農道を北東に1キロほど行きますとコンクリート造りの亀地(図)橋に達します。橋の左右に風部隊の本部が移動してきていたのです。
 比謝深迫原は、伊良皆交差点から南西にほぼ600メートル入ったところで、盆地のような地形になっています。周囲にはいくつかの大きな墓があります。
 それら2つの部隊の跡地には、部隊が使用していた壕が残っていますが、その他の遺構は全くありません。
 さて、この2つの部隊ですが、十・十空襲後、共に第32軍の指揮下に入り、10月25日、第5野戦航空廠第1分廠(誠19023部隊)となり、翌1945年(昭和20)3月末には南部へ移動しました。そして沖縄戦末期、圧倒的なアメリカ軍の攻撃にさらされ部隊は壊滅し、ほとんどの隊員が島尻戦野で戦死しました。
 その慰霊碑「風部隊之碑」は、摩文仁の「沖縄師範健児之塔」の40メートルくらいの手前、通路が曲がったところの坂上にあります。


現場確認に役立った亀地(図)橋

今も残る当時の壕


壕確認の手がかりとなった亀甲墓


比謝深迫原の古墓

墓周辺に横穴式に掘られた壕の入口

雑草に覆われた壕入口(その1)

雑草に覆われた壕入口(その2)

雑草に覆われた壕入口(その3)