旧古堅国民学校校門とデイゴ [マップ]


復元された旧校門と右横の記念碑

 字古堅在比謝川ガスからNTT社一帯は、戦前の古堅国民学校の校地でした。ところが戦後、校地は民間に分譲され、わずかな一画しか残っていません。
 今では戦前からの大きなデイゴの木がそびえ、旧古堅校関係者の「古堅尋常高等小学校・古堅国民学校・古堅青年学校校門跡整備期成会」によって校門門柱と一帯が整備されています。狭い一画ですので、門柱の位置や向きは戦前のとおりとはいきませんでした。
 古堅国民学校(小学校)には1944年(昭和19)7月8日から8月5日まで独立混成第15連隊工兵隊(球7836部隊)が駐屯し、引き続いて9月2日から12月10日までは第24師団輜重兵(しちょうへい)*第24連隊第5中隊と医務関係部隊(山3483部隊)の本部となっていました。
*輜重兵:軍需品の輸送・補給にあたる兵。
 軍隊に接収された後の同校では、民家や字事務所などで分散授業をしたり、中には青空教室での授業ということも余儀なくされました。
 学校に駐屯していた軍隊は、アメリカ軍の沖縄本島上陸直前、再編され主として島尻方面へ配備変えされました。
 軍隊が去った後の同校の校地・校舎等は、1945年(昭和20)3月末の上陸空襲でことごとく破壊し尽くされ、校門門柱も爆弾破片や銃弾等による損傷を受けましたが、門柱はさらに戦中・戦後にかけて押し倒され、角の部分の損傷が特にひどかったのは、ブルドーザーなどで引きずり回されたからではなかったかと言われています。
 事実、この門柱は元あった場所から道路をへだてた所に移され、さらに古堅南小学校の校庭に運ばれ、そして現在地へと三角移動をさせられているのです。戦災だけでなく、戦後も苦難の道をたどって来たわけです。
 一方、校門前にあったデイゴの木は、門柱同様大変な戦禍を被(こうむ)ったと思われますが、不死鳥のようによみがえり、戦前より一回りも大きく生長して、その偉容を見せています。
 このデイゴは、古堅校のシンボルとしてかつての栄光の歴史を伝えており、卒業生にとっては心のより所であり、語り草ともなっています。


昭和13年作成の学校要覧より

古堅国民学校平面図・配置図