破壊できなかった橋−比謝橋− [マップ]


戦後、米軍がいち早く鉄橋を造り
物資の輸送に供した

 比謝橋は古来、国頭と中頭を結ぶ「西街道」の要地にあり、『重修庇謝橋碑記』には、
 「北山の人民、国都(首里)に事ある者は必ずこの川(比謝川)に寄りて過ぐ(中略)ゆえに往昔の人ここに杠(木の橋)を設け、もって南北の往来に通ず」とあります(原文は漢文)。つまり、「北山(国頭)の人が首里に行くには比謝川を通って行きますので、昔の人はここに木の橋を架けて南北の往き来が出来るようにしました」ということなのです。
 人々の行き交いの便利のために架けられた橋ですが、そうとばかりも言えないこともあるようです。
 「恨む比謝橋や情け無いぬ人の/我身渡さと思て架けておきやら」
 この橋さえなければ、遊女売りされる私でも行かずに済むものを、と詠んだのはあまねく知られた吉屋チルーの嘆きです。
 1609年(慶長14)には薩摩の琉球侵略に当たって、その軍隊はこの橋を通っていっています。橋の利便性は戦にも当てはまり、軍隊の進撃を容易ならしめている例でしょう。
 「歴史は繰り返す」とも言われますが、1945年(昭和20)4月1日、楚辺・渡具知に上陸したアメリカ軍もこの橋を渡って南進しています。
 アメリカ軍の沖縄本島上陸を前にして、守備軍は敵の進撃を阻止するため、この橋に爆雷(ばくらい)を仕掛けて破壊しようとしましたが、橋の路面上に穴が開いただけで、橋本体はびくともしませんでした。写真で見るように、アメリカ軍が架けた鉄橋とともに、彼らの兵站(へいたん)*の動脈となり活躍していることは、何たる皮肉でしょうか。
*兵站:作戦軍のために、後方にあって車両・軍需品の前送・補給・修理、後方連絡線の確保などに任ずること。
 アメリカ軍の進撃を前にして、あっけなく爆破し尽くされた「榮橋」という近代工法の鉄筋コンクリート橋に比べ、昔の人の偉さ、石の強さを思い知らされます。


戦前の風情ある比謝橋 ― 行き交う人々と手漕ぎ舟