嘉手納野球場前を通り、久得橋を渡ると公園駐車場があります。そこから比謝川沿いに農道を下っていきますと岩肌にくぼみがみえる一帯があります。その下に、農林隊構築壕があります。
戦前、嘉手納には沖縄県立農林学校がありました。卒業生の回顧録に「みんなきちんとした制服を着け、白いゲートルで颯爽とした、その姿はどの顔も賢そうで頼もしく、子供心にも憧れの的であった」とあるように、学校に近い読谷山村からも、入学試験に合格した少年たちが多数通学していました。
しかし、あこがれの学校生活も戦争の影が色濃くなり、勉学どころではなく、座喜味城跡の高射砲陣地の構築、楚辺から波平に至る海岸沿いの戦車壕掘り、ウマカジー(北谷平安山)の海軍砲陣地の構築、防空壕掘り、軍事教練等であけくれるようになりました。
1945年(昭和20)3月26日、鉄血勤皇隊農林隊が編成され、学徒130名(本隊110名、斬込隊20名)が動員されました。第19航空地区司令部に入隊した本隊110名は、比謝川沿いに構築した牧原の壕に配置されました。この壕の前には長屋作りの慰安所がありましたが、3月29日にこの長屋が空爆を受け、その爆風の砲火を浴びた学徒が一人戦死してしまいました。これが農林生の最初の犠牲者となったのです。沖縄戦による農林生の戦死者は124人(学徒隊23・入隊64・その他37)にのぼります。(参考資料「沖縄戦の全学徒たち」展『報告書』ひめゆり平和祈念資料館)