読谷村の戦跡

 

○ 読谷山村と沖縄戦

太平洋戦争

 1941年(昭和16)12月8日、日本軍のマレー半島(現マレーシア)のコタバル上陸(東京時間12月8日午前2時頃)とハワイの真珠湾奇襲攻撃(東京時間12月8日午前3時20分頃)によって太平洋戦争が始まりました。戦争が始まると日本軍は大変な勢いで進撃(しんげき)を続け、1942年(昭和17)の前半までにはマレー半島とシンガポール・フィリピン・インドネシア・ビスマルク諸島に至る東南アジアや南太平洋のほとんど全地域を占領しました。
 しかし、1942年(昭和17)の夏頃から戦局は逆転しました。連合軍は本格的な反撃に出て、ミッドウェー海戦・ガダルカナル島攻防戦などで、日本軍はアメリカ・イギリス(オーストラリア)軍に押しまくられ、ソロモン諸島・ニューギニア方面から進撃してくる連合軍のために次々と重要な地域を奪われていったのです。
 1943年(昭和18)から1944年(昭和19)にかけて、日本の委任統治 地*であった南洋群島のマーシャル諸島・トラック諸島があいついで連合軍の手に落ち、帝国の「絶対国防圏」といわれた中にあったマリアナ諸島のサイパン・テニアンまでも奪われてしまったのです。南洋群島に移住していた約7万人の沖縄県出身者も日本軍と運命をともにしました。とくにサイパン島においては6千人以上の県出身者が犠牲になり、県民に衝撃を与えました。

 *委任統治:グアム島(米領)を除く南洋群島はドイツ領であったが、第一次世界大戦後、ヴェルサイユ条約(1919年 [大正8])その他の規定によって、国際連盟のC式委任統治地となった。日本はその委任統治受任国となってグアム島以外の南洋群島を25年間支配することになった。

 

沖縄にせまるアメリカ軍

 1944年の秋にはマッカーサーのひきいるアメリカ軍は、フィリピンにせまり、いよいよ次は沖縄かとの話が、一般庶民の間でもささやかれるようになりました。
 そのような矢先の1944年(昭和19)10月10日、アメリカ機動部隊の艦載機(かんさいき)は南西諸島に大規模な空襲をおこないました。「十・十空襲」と呼ばれるものです。その時のアメリカの第38機動部隊は、航空母艦9隻・戦艦6隻・軽航空母艦8隻・巡洋艦17隻・駆逐艦64隻等からなる大部隊だったということです。

 

第38機動部隊(十・十空襲)全容

  正規空母 軽空母 艦載機 戦艦 重巡洋艦 軽巡洋艦 駆逐艦
第1戦隊 2 2 245   6 1 21
第2戦隊 3 2 338 2   4 18
第3戦隊 2 2 252 4   4 14
第4戦隊 2 2 239   1 1 11
9 8 1074 6 7 10 64

 午前6時40分から始まった空襲は午後4時すぎまで続き、南西諸島全域(奄美大島・徳之島・沖縄諸島・宮古島・石垣島・大東島など)で延べ1,356機の艦載機が空襲をくり返したのです。
 目標は飛行場・軍事基地・港湾施設などだったはずですが、農山村・漁村も無差別に攻撃しました。特に那覇は市街地の90パーセントが焼き尽くされるという大きな被害を受けました。読谷でも96人が死亡しましたが、その内64人は久米島沖で攻撃された船舶の沈没による犠牲者でした。この空襲による日本側の死傷者は民間人をふくめて約1,500人にのぼりました。

 

沖縄守備軍(第32軍)の配備

 十・十空襲後もアメリカ軍による空襲はひんぱんに行われたことからアメリカ軍が沖縄に攻めてくることは、間違いない情勢となってきました。
 南西諸島を防衛する西部軍指揮の第32軍が編制されたのは1944年(昭和19)3月でしたが、実戦部隊が沖縄に展開されたのはサイパン島がアメリカ軍の手に落ちる直前の6月ごろだったのです。
 ではここで、1944年(昭和19)10月ごろまでに南西諸島に配備された守備軍のようすを見てみましょう。

沖縄本島 ○第9師団(武部隊) 関東軍から編制
 北陸出身の兵士たちが主体。
 「満州」(中国東北部)から移駐
 1944年(昭和19)12月から翌年1月にかけて
 台湾へ移る
○第24師団(山部隊) 関東軍から編制
 北海道・東北出身の兵士たちが主体。
 「満州」(中国東北部)から移駐
○第62師団(石部隊) 中国北部で編制
 近畿・北陸出身兵士たちが主体。
○独立混成第44旅団
○海軍沖縄方面根拠地隊
宮 古 島 ○第28師団(豊部隊)
○独立混成第59旅団
○独立混成第60旅団
八 重 山 ○独立混成第45旅団
奄美諸島 ○独立混成第64旅団

 このほか、海軍陸戦隊・海軍海上特攻隊・陸軍海上挺身隊(特攻隊)・船舶工兵隊(暁部隊)・遊撃隊(護郷隊)などが配備されていました。
 沖縄戦直前の1945年(昭和20)3月、沖縄本島に配備されていた正規軍の総兵力は約86,400人で、そのうち歩兵が約38,000人、海軍の陸戦隊が約1万人で、あとは砲兵や工兵、その他の兵科でした。
 沖縄守備軍(第32軍)全体を球部隊といいましたが、特に第32軍司令部直属の部隊も球部隊といいました。

 

沖縄は本土の防波堤

 天皇の軍隊をまとめひきいる最高の機関である大本営は、1945年(昭和20)1月20日、「帝国陸海軍作戦計画大綱」を決定しました。
 この計画では、「皇土特ニ帝国本土ヲ確保スル」ことを作戦の目的としました。沖縄や硫黄島は「本土」ではなく、本土を守るための前線で、それはちょうど城の本陣を守るための出先砦(とりで)のような位置付けでした。ですから沖縄守備軍(第32軍)の任務は、沖縄を守り抜くことではなく、アメリカ軍を沖縄に引きつけておいて本土への攻撃を遅らせる「防波堤」の役目だったのです。
 大本営は、この作戦によって本土決戦を準備し、天皇制を守り抜こうとしたのです。「時間かせぎ持久戦」とか「捨て石作戦」という言葉は、沖縄戦における日本軍の作戦をピタリ言い表したものです。
 沖縄守備軍は、大本営の方針を受けて、県民に対して「軍官民共生共死」ということを強調しました。

 

根こそぎ動員

 沖縄での地上戦が始まる前から、まわりの空も海もすっかりアメリカ軍に押さえられてしまって、武器弾薬や食糧の補給はできない状態となってしまいました。
 守備軍(第32軍)は、現地のあらゆる人的・物的資源を戦力化して自給することになりました。すなわち、軍司令官のいう「一木一草トイヘトモ、コレヲ戦力化スヘシ」という方針でした。
 そのような方針のもとに、飛行場建設や陣地構築の作業が強行され、徴用(ちょうよう)ということで、働くことができるほとんどの男女が動員されました。それでも足りず、国民学校(現在の小学校)の児童たちまで作業にかりだされたのです。
 航空基地として、伊江島・読谷山(北飛行場)・嘉手納(中飛行場)・浦添(南飛行場)・首里・小禄(現在の那覇空港)の飛行場が造られ、宮古や八重山でも飛行場建設は進められました。
 また、各地に駐屯している部隊の陣地構築(じんちこうちく)も大掛かりなものが多く、洞窟陣地・洞窟倉庫・砲台・飛行機の掩体壕・トーチカ造りなどが急ピッチで進められ、食料や資材は軍に供出させられ、荷馬車はほとんど徴用されました。
 こうして農家の老若男女が軍隊の仕事に動員されたため、民間では戦に備えての食料を確保することは難しくなり、戦場になった時の飢餓地獄(きがじごく)の原因にもなったのです。
 第32軍はまた、「兵役法」にもとづいて兵籍にあるものを徹底的に召集(しょうしゅう)しました。
 普通、徴兵検査(ちょうへいけんさ)では体格などによって、甲・乙・丙・丁の四種に区分しました。甲種合格者は2年から3年間、九州の連隊本部に「入営」し、軍隊教育を受けるきまりになっていました。それを「現役兵」といいました。
 現役兵は、2〜3年の教育期間を終えると、「満期除隊」となりますが、それでも兵役免除ではなく、40歳までは「在郷軍人」として「兵籍簿」に登録され、戦時には「いつでも、どこに住んでいても」動員に応じることになっていました。
 在郷軍人に再び入隊を申し付けることを「召集」といい、召集は「召集令状(赤紙)」で行いました。
 徴兵検査で丙種や丁種になった人は、兵役に適しない「第二国民兵」といって、現役は免除されていました。しかし太平洋戦争が起こって間もなく、丙種も召集されるようになっていました。
 さて、第32軍は兵力を補うために、1944年(昭和19)10月から「防衛召集」を2回にわたって実施しました。それが、いわゆる「防衛隊(員)」です。
 防衛隊(員)は、「兵役法」でいう現役兵や召集兵とは異なり、「陸軍防衛召集規則」(昭和17年9月制定)にもとづいて召集された男子です。
 沖縄連隊区司令部では、1944年(昭和19)の夏、各市町村の兵事係を集めて、兵籍簿に登録されていない「第二国民兵」を兵籍に編入して名簿を作り、「待命令状」を交付しました。これによって「根こそぎ動員態勢」を整えたのです。
 さらに、1944年(昭和19)10月には、「兵役法施行規則」と「陸軍防衛召集規則」が改正され、17歳から45歳の男子はすべて「召集の対象」となりました。戦後、琉球政府援護課がまとめた資料によると、防衛召集の総計は25,000人以上にのぼります。
 防衛召集が17歳から45歳までというのは法の上での建前で、沖縄が戦場になってからは、15歳以下の生徒や60歳以上の老人まで動員され、絶え間なく続く砲爆撃(ほうばくげき)の中で、陣地構築や砲弾運び、あるいは雑役として使われ、命を落とした人も少なくありません。
 守備軍の兵力は、防衛召集によってもなお不十分でした。そのため、県下の中等学校(中学校・実業学校・師範学校)や女学校の生徒は学徒隊(がくとたい)として、また各市町村の青年学校生徒や青年団の男女も動員され、それぞれ鉄血勤皇隊(てっけつきんのうたい)・護郷隊(ごきょうたい)・義勇隊(ぎゆうたい)・特志看護隊・救護隊という名で戦場に投入されていったのです。
 学徒隊は2,300人余が動員され、1,200人以上が戦死しています。彼らは現在の学齢でいうと中学校1年生から高校生くらいの少年少女たちでした。

 

県外疎開

 1944年(昭和19)7月、政府は閣議決定(かくぎけってい)*にもとづいて、南西諸島から約10万人の老幼婦女子と学童を南九州と台湾へ疎開させる計画を立てました。政府の疎開計画は「足手まといになる老人と子どもを戦闘地域から移し、食糧を確保する」ということが目的でした。

  *閣議決定:内閣総理大臣が主宰し、すべての大臣等が出席して開く会議を閣議という。そこで決定すること。

 県外疎開は、1944年(昭和19)7月から始まり、沖縄戦直前の1945年3月まで実施され、南九州へ約6万5千人、台湾へは約1万人でした。
 読谷山村からの学童集団疎開は1944年8月、古堅国民学校の児童46名(引率教員1、世話人2)が、宮崎県西諸県郡加久藤村(かくとうそん)(現在のえびの市)へ疎開し、なれない気候風土の中で厳しい生活を強いられました。
 県外への一般疎開は第1陣として、楚辺の約50人をはじめとして、比謝矼・大湾・伊良皆が各11人で、瀬名波10人、宇座9人と続き、さらに高志保6人、そして渡具知その他が3人となっています。疎開先は宮崎県へ71人、大分県が15人、熊本県へは13人などとなっています。大阪府へ疎開した6人は縁故(えんこ)呼び寄せでした。
 県外疎開が始まって間もなく、アメリカ軍の大型機(B24やB29)がたびたび沖縄上空から地上を偵察(ていさつ)しており、近海では潜水艦が日本の艦船を狙(ねら)って盛んに活動しておりました。ですから県外への疎開は、アメリカ軍の潜水艦と飛行機の待ち受ける危険な海に乗り出すことにも繋(つな)がりかねないことにもなっていたのです。
 読谷山村からの県外疎開第2陣は、楚辺からの一般疎開者約60人に、比謝矼・大湾・波平などの人たち約40人が加わり、約100人となっていました。
 その人たちは8月21日、対馬丸に乗船し、長崎(佐世保港)へ向かいました。ところが翌22日、鹿児島県十島村(としまむら)悪石島近くでアメリカ軍潜水艦の魚雷(ぎょらい)攻撃を受け、10分くらいで沈んでしまったのです。
 1,661人の乗船者のうち助けられた人はわずかに177人で、実に1,484人の尊い人命が失われたのです。その犠牲者のうち、読谷山村民は学童18人を含めて90人にも上りました。
 その他に湖南丸の遭難もあり、逆に本土から沖縄に向かった台中丸や嘉義丸の遭難事件もありますが、くわしいことはまだ調査中です。

 

十・十空襲

 1944年(昭和19)10月10日の早朝、突如(とつじょ)、アメリカ軍の艦載機が沖縄各地を襲いました。全く予期しないことで、一般県民はもちろん、軍の大部分の人さえ空襲とは知らず、我が軍の演習とばかりに見ていました。やがて爆弾で施設などが吹っ飛ぶのを見てやっと空襲だと知り、慌(あわ)てて避難するというありさまでした。
 読谷山村の中央平野部に位置する北飛行場は、真っ先に攻撃を受け、飛行場内の格納庫や倉庫、それに大刀洗航空廠那覇分廠(たちあらいこうくうしょうなはぶんしょう)の諸施設は跡形もないほど破壊し尽くされました。
 空襲による被害は飛行場周辺の集落にも及びました。特に喜名は民家の庭に保管されていた砲弾に焼夷弾(しょういだん)が落とされ、間断なく炸裂(さくれつ)する砲弾は地を揺らし、天にとどろくようなごう音を上げるさまは、まるで地獄を思わせるものでした。この空襲で喜名は郵便局前通りの家並み40戸余りが焼け、大通りは焼け野が原になってしまいました。
 十・十空襲による読谷山の村民の死亡者は25人となっています。ただしこれは「平和の礎」に刻銘された分だけです。他に、八重山徴用帰りの船が久米島沖で撃沈され、村民65人が死亡しています。
 また、この空襲によって那覇市は全焼し、焼け出された人の波はその晩からやんばるへと向かい、村内では比謝矼から喜名に至る県道にあふれていました。

 

県内疎開・避難

 1945年(昭和20)2月7日、着任たった1週間目の島田叡知事の所に第32軍司令部の長参謀長が来て、次のようなことを通達しました。
(1)住民の食糧を早急に6か月分確保してもらいたい。
(2)既定方針による老幼婦女子の北部山岳地帯への緊急避難を早急に開始してもらいたい。
 しかし、県や市町村、それに新聞などの働きかけがあっても、北部への疎開はなかなか進みませんでした。それについては、家庭には家庭の都合があり、疎開先での生活、分けても長期滞在に及ぶと思われる間の食糧問題などがあったからです。長参謀長が言うような、「早急に6か月分の食糧確保」など思いもよらないことだったのです。
 そのような中で、疎開の実施が打ち出されたのは2月15日からでしたが、結局、沖縄戦が始まるまでに指定地に疎開出来たのは約3万人に過ぎなかったと言われています。
 島田知事から疎開命令が下されたので、読谷山村ではただちに国頭村奥間に仮村役場を設け、役場職員を派遣し、同地を中心に浜・比地・桃原・辺土名・伊地・与那などを指定地として疎開者受け入れ態勢をととのえました。それらの地域への一時民泊、そして避難小屋造りでは国頭村民の大きな協力・奉仕があったことは、今なお感謝の気持ちで語り継がれています。
 それでも多くの村民は、家屋財産への執着(しゅうちゃく)、墳墓(ふんぼ)の地への愛着、疎開先での生活不安などを懸念(けねん)して、村内に留まり、自分の掘った壕や自然洞窟などにひそんでいました。
 3月23日から続いた空襲は、25日になると一段と激しさを増し、夕方になると現地軍から「非戦闘員は食糧を持って海岸線から1キロ以上離れた所に避難せよ」との命令が下り、警防団員を通して伝えられると、あわてて国頭方面を目指して避難し始めました。それでもまだ各字の洞窟などに隠れている人も多かったと言います。

 

読谷山はアメリカ軍の上陸地

 1945年(昭和20)4月1日、アメリカ軍は比謝川河口を中心として南北10キロ余の海岸から上陸してきました。それはあきらかに北飛行場(読谷)と中飛行場(嘉手納)攻略を目指したものでした。
 アメリカ軍は1,400〜1,500隻の艦船と183,000人の兵員で上陸を行い、ほとんど無抵抗のうちに上陸し、その日のうちに2つの飛行場は占領されてしまいました。
 当初、読谷山村には山部隊が配備されていました。ところが武部隊の台湾転出にともない沖縄本島南部の守備が手薄になり、そこへ山部隊が配備変えとなりました。山部隊は汗水を流し、苦労を重ねて築いた陣地・砲座などを捨てて南部への移動をはじめ、それがアメリカ軍の上陸直前まで続いたのです。ですから読谷山や嘉手納方面の守備の主力軍はいなくて、わずかばかりの兵力しか残っていなかったのです。アメリカ上陸軍は、空家に入ってきたようなものだったのでしょう。
 さて、読谷山村の上陸地点は渡具知・楚辺・都屋から宇座など村内西海岸でした。アメリカ軍はそれらの地域に兵站基地(へいたんきち)やボーロー飛行場と、捕虜収容所、難民収容所、病院などの後方施設を設けました。それらの施設は戦闘が終わっても長く使われ、読谷山村の住民移動(帰村)が遅れた原因にもなりました。
 4月2日、アメリカ軍は恩納村の仲泊と美里村石川の線で沖縄島を南北に分断し、5日頃には宜野湾以北の中部一帯を制圧しました。
 日本軍の本格的反撃は、中城村津覇・宜野湾村我如古・大謝名を結ぶ線あたりで始まり、嘉数高地の攻防戦が最も激しい戦闘でした。しかし、アメリカ軍は、「シュガーローフ」(現那覇新都心部地域)での攻防戦が最も激しかったとしています。
 この地域を圧倒的物量で押しまくったアメリカ軍は、やがて軍司令部のある首里をめざします。
 アメリカ軍が首里に迫ると、守備軍司令部は摩文仁村の摩文仁岳にまで下がり、指揮系統も乱れ始めた残存部隊に対して細々と戦闘指揮を行います。
 首里が落ちると、勢いを得たアメリカ軍は空爆と艦砲射撃(かんぽうしゃげき)の援護の下、南部平野へと進撃を開始します。そこには中部戦線で敗退した残存兵と、急遽(きゅうきょ)配備変えになり寄るべき陣地も少なく体制建て直しもままならない山部隊しかおりません。ですからアメリカ軍の進撃を阻むことは出来ません。
 1945年(昭和20)6月23日、軍司令官と参謀長は、残存将兵に最後の総攻撃を命じて自分たちは穴の中で自害しました。こうして日本軍の組織的抵抗は終わったとされています。後に、この日を沖縄県では「慰霊の日」としてさだめ、戦没者の霊を弔い、反戦を誓い恒久平和を祈る日としています。


◯読谷村の戦跡

戦争の世紀

 戦争、それは国家・民族・集団相互の大量殺人・大量破壊行為です。歴史書によりますと古代から戦争はありましたが、近代になって戦車・航空機・潜水艦・毒ガス・核兵器などの近代兵器が登場して、破壊力・殺傷力(さっしょうりょく)は恐るべき勢いで増え続けて来ました。
 第1次世界大戦、第2次世界大戦と2度にわたる大戦争は、まさにそのような恐ろしい兵器の発達とともに大規模化し、国境を越えて拡大し、その惨禍(さんか)は戦勝国・敗戦国を問わず、直接・間接に生きとし生けるものすべてを不幸に陥れました。
 さらに限定地域における紛争は、あいも変わらず頻発して、国際的な緊張をもたらし続けて来ました。そういうことで20世紀は、まさに戦争の世紀であったと言えましょう。

 

日本国内の戦跡

 日本は第2次世界大戦で、ドイツ・イタリアと組んで枢軸国(すうじくこく)*を結成し、イギリスやアメリカ・オランダ・中国の連合国側と戦い、敗戦の憂(う)き目を見ました。

  *枢軸国:第2次大戦前から戦時中にかけて、連合国に対立し、日本・ドイツ・イタリア3国およびその同盟国相互間に結ばれた友好・協同の関係。1936年10月のローマ・ベルリン枢軸の呼称に始まる。

 その発端と言うべきものは、1931年(昭和6)9月の「満州事変」で、やがて日中戦争へと広がっていきました。1941年(昭和16)12月には太平洋戦争と拡大していき、1945年(昭和20)8月15日、日本の敗戦で長い日本の戦争はようやく終結しました。
 この一連の戦争を「15年戦争」とも呼んでいますが、それだけ長い戦争をしてきたのですから、そのような戦争を伝える跡、すなわち戦跡は、日本全国あちらこちらに数え切れないほど残っています。
 ここで言う戦跡とは、戦争遺跡を略して言った言葉で、「近代日本の15年戦争とそれを成し遂げる上の道のりで、戦闘や事件の加害・被害・反戦抵抗に関する国の内外で形作られ、現在に残された構造物・遺構や跡地のこと」ということになりましょう。
 近代アジア太平洋戦争に関する日本の国内遺跡だけでも数万、いや数十万を超えると推定されています。

 

戦跡の種類

 ここでは伊藤厚史という人が書いて1994年に追補したものを参考にして紹介したいと思います。
 戦争遺跡はそれらの構造物・遺構・跡地が果たした役割から、次の8種類に区別されるとしています。

政治・行政関係
 陸軍省・海軍省など中央官庁、大本営、師団司令部、連隊本部など(以下略)

軍事・防衛関係
 要塞・高射砲陣地、陸海軍飛行場、洞窟陣地、退避壕、掩体壕(えんたいごう)など(以下略)

生産関係
 軍需工場等、経済統制を受けた工場、鉱山など(以下略)

戦闘地・戦場
 沖縄諸島、硫黄島など戦闘が行なわれた地域・地点(以下略)

居住地関係   外国人強制連行労働者居住地、防空壕、捕虜収容所など

埋葬関係
 陸軍墓地、海軍墓地、捕虜墓地、忠魂碑など

交通関係
 軍用鉄軌道、軍用道路など

その他 
 戦争にかかわる学校、学童疎開所、奉安殿、二宮金次郎像、慰安所、航空機墜落跡など

※(以上は第4回沖縄県立埋蔵文化財センター文化講座『戦争遺跡詳細分布調査の概要』より)

 

読谷村内の戦跡

 前述の「戦跡の種類」から考えて、読谷村関係の戦争遺跡(戦跡)は、の各項にあたるものが多いと思われます。それには傍線を付してあります。
 ところが、それらの内、全く形を失ったものもあり、それらは「戦跡地めぐり」として取り上げるには余り適当ではないと思われたので、いくらか形をとどめているものを中心に取り上げました。例外として実測調査され記録に残った物件や写真が残っているものも若干入れてあります。
 形をとどめている遺跡にしても、長年風雨にさらされ、また開発などによって壊れ(壊され)ていくものがほとんどです。物言わぬ戦争の証言者として、それらの保存・活用が望まれます。
 戦争の風化が言われている今日、戦争体験者(語り部)も年々少なくなっていきます。私たちは身近にあるこれらの戦争遺跡を通して戦争を追体験し、語り継ぎ、二度とあのような悲惨な戦争を起こさせないように心に誓い、行動に移したいものです。

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