読谷村史 > 「戦時記録」上巻 > 第二章 読谷山村民の戦争体験 > 第二節 各字の戦時概況(字概況)

1 喜名

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概況

喜名青年団(長浜※※氏提供)
 東は矢倉岳に連なる起伏の激しい山岳地で、その山の上からは北飛行場や米軍の上陸地点となった西海岸が一望に見おろすことができ、また、山岳地は機動力に勝る米軍に対応する戦略上の地の利もあってか、喜名周辺にはたくさんの守備軍の陣地や壕があった。
 沖縄戦前の喜名の戸数は三一七戸、人口一、三四六人であった(沖縄戦直前に字の書記をしていた又吉真栄著『ひたすら音づくり』)。その後、飛行場用地になって強制立ち退きにあったイリバル屋取の四七戸のうち数個が前原(メーバル)に移住したが、ほとんどが字外に離散しており、さらに十・十空襲で家を焼け出された人が山原あたりに移住した人もいるので、米軍が上陸した昭和二十年四月一日の戸数はおよそ二六〇戸ぐらいと思われる。

戦時下の生活

 戦争の長期化により物不足は極限状態を迎えてきた。昭和十五年頃からは日常の生活用品さえ手に入らなくなった。米も配給制となり、小麦粉(ムジナクー)もなくなり、そば屋は廃業同然だった。


 後に、ランプを灯す石油も無くなり、牛の油を皿にいれ、ぼろぎれを芯にして灯したり、トゥブシ(松やにの付いた松の木の根の部分)を燃やして明かりにするところもあった。
 煙草は配給制になって、配給日には専売店の喜友名や謝花の店の前には薄暗いうちから長蛇の列が出来ていたし、衣料も切符制になった。昭和十九年頃からは自由に買える物などほとんどなくなっていた。
 防空訓練や消火訓練、竹槍訓練も行われた。また、各家には防空壕を掘ることが義務づけられたが、住民には緊迫した様子はあまり見られなかった。

出征兵士

 昭和十一年頃から入営する兵士の見送りが、字入口の屋号大城小(ウフグシクグヮー)の家の前で多くの字民が参加して行われていた。出征の日が決まると、出征兵士はまず喜名観音堂で武運長久を祈願した。県内各地からもやってきたので、観音堂にこれら祈願者の姿が絶えることはないというほどであった。
 本土に出稼ぎに行っていた人が、帰郷して出征する際には、勤めていた会社や同僚から幟が贈られた。「祝○○○○君」と染め抜いた幟で、多い人は数流もあった。名誉ということでこの幟は家の前に立てられ、出征当日、身内の者や青年団員はこの幟を持って嘉手納駅まで見送った。
 出征兵士は国民服に脚絆を巻き、地下足袋を履いて「祝○○○○君」と書いた白いたすきをかけていた。妻は列の一番後からついて行った。兵隊に行く者が女々しい態度をとっては恥だという風潮があったからであろう。その頃は見送りしたその日に船が出るのではなく、翌日か翌々日に出港したので、その日は那覇の宿屋に泊まった。妻だけは那覇まで見送りに行った。
 出征兵士には千人針を贈った。五銭と十銭の硬貨が縫い付けられていて、五銭は死線を越える、十銭は苦戦を越えるの縁起を担いだものだった。千人針に針を通すのはだいたい隣近所を回って頼んでいたが、郵便局の前や役場前で依頼する女の人もいた。
 華やかだった見送りも戦局のひっ迫により次第に無くなっていった。出港日が知れると潜水艦にやられるとか、出征兵士の数で日本軍の兵力が敵に知られるというのが理由であった。

徴用

 北飛行場を設営していた頃の喜名は、景気が良く、人馬で賑わっていた。徴用だけでは間に合わないので国場組がたくさんの人を雇用していた。近隣の市町村はもちろん全島各地から稼ぎに来るので、喜名の民家には間借り人がたくさんいた。喜名から座喜味の学校に通ずる道のそばには労務者を収容する茅葺きの宿舎が四棟建っていた。遠くからやってくる徴用人夫用である。壁は松板を打ち付けた長屋で、もちろん電気も水道もない雑魚寝の部屋であった。
 徴用は役場から各字に割り当てがきて、区長や書記が区民名簿から人選して内申したという。
 喜名から伊江島飛行場に徴用された人が七〜八人おり、八重山の飛行場に徴用されたのも二人いる。
 農業生産要員というのがあって、一定量以上の農産物を生産できる農家はそれを供出することを条件に徴用を免除されることもあった。
 学童は、校舎が日本軍の兵舎になってからは字事務所や広場で勉強していたが、高学年の者は壕の枠に使う松材の皮をはぐ作業に何度も駆り出された。
 徴用とは別に農兵隊というのが組織されていた。十五〜十六歳ぐらいの少年達が集められ、伊良皆の東の畑で農作業をした。「農兵隊の歌」というのもあった。

供出

 喜名の書記をしていた又吉※※のところには、各部隊から経理を担当する将校がきて、諸物資調達の要求が毎日のようにあったという。供出したものは、野菜(カンダバー、フーチバーなど)、屋根を葺く茅、縄、ジーグ(カマスのようなもの)などだった。のこぎりや炊事に使う鍋なども借りに来たがこれらの物には借用証を取っていた。
 また、軍では炊事から出る残飯で飼育するというので生きた仔豚の要求があり、又吉※※と使丁だった松田※※と二人で届けたことがあった。当時の松田※※区長は昭和二十年には防衛召集されていたので書記と使丁が供出関係を担当した。松田※※は防衛召集される(昭和二十年三月六日)まで三か月間使丁をして供出に関わった。
 字事務所が軍の食糧倉庫になってからは書記の又吉※※宅で事務を行い、字の書類は又吉家の防空壕に入れてあった。
 供出物は軍が取りにきたり、直接持っていくこともあった。

防衛隊・軍属など

 全面的な防衛召集が始まったのは昭和二十年の一月だったが、それ以前から軍属で炊事や雑役で働いている少年たちも多かった。このような少年たちは兵隊と同じような軍服を着ていた。この少年達の中には、兵隊が南部に移動したとき軍と共に行動した者もいる。
 「兵役法」にもとづく防衛召集は満十七歳以上であったが、喜名では昭和四年生まれ(十六歳)まで防衛召集をうけている。戦後、そのことを申し立てたが、なかなか信じて貰えなかった。
 喜名※※や照屋※※は防衛召集適齢だったが、川から鰻や蟹を採って球九一七三部隊に納めていたので召集を免れていた。しかし、それも一時期のことで照屋※※は後に防衛隊に入隊している。
 十七〜十八歳の少女たちが軍属になったのもいた。金城※※、松田※※、比嘉※※、石嶺※※などで、彼女らは軍の炊事などにいたが、中には兵隊が南部に移動したとき兵隊と共に行き、看護業務にも当たった人がいる。

日本軍の駐屯・陣地など

 喜名周辺に日本軍が駐屯したのは昭和十九年の六月頃からであった。喜名周辺の山はどこに行っても日本軍がいた。部隊名は、山部隊、球部隊、石部隊、山根部隊(海軍)、巌部隊(海軍)、風部隊、誠部隊などがあり、それらの支隊である中村隊、小堀隊、藤井隊などたくさんの部隊が駐屯した。
 字内は、畑だったところが敷き均され、陣地が構築されたり、山の斜面などには沢山の壕が掘られ、日一日と戦時色が濃くなってきた。喜名メーバルには高射砲陣地が築かれ、観音堂の西隣・ナカバル・イリバルの金城小の近く・ウスクドーの下・東のサーターヤーの東隣には高射機関砲の陣地が築かれていた。高射機関砲というのは一つの台座から二つの砲身が突き出ている対空用の機関砲である。五、六基ぐらいの砲台で一つの陣地を構成していたが、その陣地が喜名地内だけでも五箇所あった。そのため、大量の弾薬も運び込まれ、いつの間にか民家の庭が弾薬置き場に変わっていた。イリチナー・三男チナー・牛山内・安里※※宅には高射砲の弾が庭いっぱいに積まれていた。さらに、喜名と伊良皆の中間あたりの県道東側に崎浜小・宮平・喜友名の墓があったが、中にあった厨子甕を外に出して、弾薬が入れられていた。
 座喜味にあった読谷山国民学校の敷地は飛行場用地に接収されたため、現在の喜名小学校敷地に移り、赤瓦葺きの立派な校舎が完成していた。しかし、出来上がりを待つかのように兵舎として接収された。
 部隊の配置は、泉川(イジュンジャー)の川沿いの山には石部隊、風部隊、山根部隊、巌部隊、シルジューには誠部隊、現在のオキハムあたりから尾頓川にかけての山には球部隊、クシマ(オキハム工場の向かいの山)には山部隊などが壕を掘って駐屯していた。
 このように多数の兵隊がいたが、住民は「友軍の兵隊さん」といって親近感を抱いていた。兵隊もよく民家を訪れ、親しくつきあう兵士も多かった。

慰安所

 喜名には、謝花・東ノロ殿内(アガリヌンドゥンチ)・仲大屋(ナカウフヤ)・後仲門・それに闘牛場の中の三角兵舎の五か所に慰安所があった。十・十空襲前のことである。そのうち、大通りの謝花には四人の朝鮮人慰安婦がいて、休日になると昼から兵隊が列を作って並び、村の人は目を背けるほどであった。この五か所の慰安所のうち、東ノロ殿内、仲大屋、後仲門にいる慰安婦は日本人だったと言われているが、確かなことは分からない。

十・十空襲

 昭和十九年(一九四四)十月十日、アメリカの機動部隊の空母から発進した艦載機が南西諸島を襲った。沖縄戦の火蓋を切る最初の空襲であった。日本軍の兵隊さえ友軍の演習と思っていたほどで、まさに何が何だか分からないうちに爆弾の雨の中にいたというような奇襲であった。
 午前七時頃、突然ゴーゴーという飛行機の爆音が朝の静けさを破った。東の空を昇る太陽を背に編隊が姿を現した。頭上で飛行機から離れる爆弾が幾つも読谷飛行場に落ちていき、炸裂音が響いた。住民も兵隊も演習と思っていたので、馬場前(ババメー)池の近くにある田場、内間、宮平の屋敷囲いの石垣の上には住民や兵隊が鈴なりに群がって見物していた。その後、本物の空襲と分かり、あわてて避難した。幸い敵の第一波の攻撃目標が飛行場の施設であったため、ムラ内での建造物被害は少なかった。しかし、この攻撃でも目標をはずれた爆弾が現在の公民館の西隣に落ち、高山のおばあさんが爆風で即死し、その他に大城のおばあさんも亡くなった。
 午前九時二十分頃から第二波の攻撃が始まり、喜名の集落にも攻撃をかけてきた。比嘉※※は爆弾が近くに落ちて、入っていた壕の入口を土砂でふさがれ生き埋めになった。その時の体験を次のように話している。
「私たちは父母、祖父母兄弟など七人が屋敷内に掘った壕に入っていた。直ぐ隣のアガリヌンドゥンチは日本軍の慰安所になっていたので、日本兵の姿を標的にしたのか壕の直ぐ近くに爆弾が落ちた。壕は、飛び散った土砂で埋まり七人が生き埋めになった。幸い近くの壕に五人の兵隊がいた。鍛冶職で壕の枠に使うカスガイなどを作る仕事をしていたが、日頃から良く付き合っていたので、その兵隊が空襲の合間にやってきてスコップで空気の通り口を開いてくれた。兵隊は『いま空襲が激しく救出できないから辛抱するように』といい、救出されたのは空襲が終わった夕刻前だった」。
 空襲は断続的に九時間にも及んだ。この空襲で読谷飛行場にあった格納庫、倉庫、那覇分廠などの建物が焼失し、日本軍の陣地は跡形もないほどに破壊されていた。
 喜名では、民家の庭に保管されていた砲弾が攻撃を受けて引火し、間断なく炸裂する音が地を揺るがし、その凄まじさはまるで地獄のようであった。この空襲で喜名大通りの郵便局から道ぞいの家並み四〇余戸が焼けている。焼け跡の中に豚舎の跡を偲ばせるフールの石囲いや井戸の石柱だけが物悲しく残り、黒焦げになった豚や馬や山羊の死骸が転がり硝煙がくすぶっていた。

住民の避難

 十・十空襲で守備軍の陣地は跡形もないほどに破壊されていた。これらの陣地は復旧されることもなく、残骸が放たれたまま部隊は南部への移動を始めていた。
 昭和二十年一月二十一日、二十二日の両日に亘って南西諸島は再び猛爆にさらされた。十・十空襲を上回る空襲であった。この空襲を機に、村の人々は東の山の中の避難小屋での避難生活に入った。
 二月頃からは字内からもやんばるへ避難する人が出始めた。喜名は東に山岳地があるのでやんばる避難を渋る人が多かったが、この空襲を機に、にわかに慌ただしくなった。特に大通り、イリバルなどの人々はそれぞれのつてを頼ってほとんどが字外に避難している。戦争前の三一七戸のうち、字内で米軍に保護されたのが一三〇戸ぐらいの人々で、残りの約一八〇戸の人々は字外に避難したことになる。
 昭和二十年一月頃から、県道は北部へ避難する人々でごった返していた。読谷村の避難指定地は国頭村の奥間、浜、比地等であった。喜名から字外へ避難したのは一八〇戸程の人々だが、米軍の上陸直前に国頭に避難した人々は特に惨めであった。彼らは土壇場になって追われるように逃げたので僅かな食料を頭に乗せ、昼は敵の攻撃を恐れて山にこもり、夜は夜通し歩き続けて四日間もかかってやっと避難地に着いたという状態であった。年寄りも子供たちも疲れはててたどり着いたが、間もなく米軍は辺土名に進攻してきた。そのため、さらに山の奥へと人々は避難せざるを得なかった。
 山の中での避難生活は飢餓地獄であった。メイモ(ミーンム・掘り残されて、かずらの芽が出ている芋)をとりに行って撃たれ、死傷するということもあった。それでも危険を冒して取りに行く以外に方法はなく、米兵のすきを突いては里に降り食料を漁った。それも長くは続かず、すぐに取り尽くされた。避難民の中には、「ここにいれば餓死しかない。南に行けば弾にあって死ぬ。しかしどうせ死ぬのなら自分の村に行って死にたい」との思いから山道を南に向かって行った人々もいた。そうした人々の中から、お年寄りや小さな子供達が死んでいった。生き延びた人々も長い山中での生活でやせ細り、餓死寸前の状態で米軍に保護された。
 なお、喜名では本土疎開者や学童疎開者はいない。

米軍上陸と住民保護

 昭和二十年(一九四五)四月一日、米軍は北谷・読谷海岸から上陸し、その日のうちに喜名の集落に入ってきた。翌二日、球九一七三部隊がいた壕が米軍の包囲攻撃を受け、黒沢少佐以下約五〇〇人の兵が全滅した(『喜名誌』「球九一七三部隊の壊滅」、三五六頁参照)。彼らは米軍に占領される前に飛行場を爆破し、敵の北・中飛行場の使用を妨害せよとの任務を帯びていたため、この地域に残っていた。また、他に小堀中隊(一五○人程)と米軍との激しい戦闘もあり、両軍が撃ち合う音が壕の中にいる住民にも聞こえたという。
 残っていた一三〇戸ほどの人々は、心細くなり避難小屋を出て日本軍が放棄した壕に次々に逃げ込み、寄り添うように隠れていた。次に保護された三人の証言を記述する。
 「カーバタサンヤの近くの壕にいました。後玉城、玉城小、牛山内、マッチー玉城など、それに楚辺の人もたくさん入っていました。四月三日ころでしょうかね、松田※※(糸満から来た人)と西蒲玉城のおじーが『早く出ないと壕を爆破すると言っているから出なさい』と言うので壕を出ました」(話者 玉城※※)。
 「喜名のナガサクの壕にいました。空襲だけならそこでも何とかしのげたでしょうが、『敵が上陸して来るぞ』というのでスルルンチヂーというクールー岳の近くの日本軍の壕に入っていました。そこには字の人がたくさん入っていて、後から入った私たちは壕の入口の方にいました。そこに先に保護されて住民を迎えに来た比嘉※※さんが、『米軍は民間人には危害を加えないから出なさい』と言うので壕を出て保護されました」(話者 安里※※)。
 「約五〇戸程の人々が倉岳(クールー岳)の中腹に壕を掘って避難していました。しかし、壕の入口が西の海に面していたので壕から出たり入ったりするのが敵の艦船から見えるのではと心配になって、二〇戸程の人がソンガーグーフの日本軍が掘った壕に移った。この壕は奥行きが一〇〇メートル程もあった。息子は十四歳だったが米兵に見つかり、その息子が米兵とともに壕にきて、それで壕から出ました」(話者 玉城※※)。
 この様に保護された壕はそれぞれ違うが、ほとんどの人々が保護されている。
 この喜名周辺で住民の保護に当たっていた米兵の中に、ウエハラ※※という日系二世兵がいた。彼は長田の出身で、喜名にも親戚がいた。住民が避難している壕を見つけたとの情報が入ると、彼はすぐに車を飛ばして保護にあたったという。喜名の住民に犠牲者が少なく、多くの人々が保護されたのには、彼の力が大きかった。
 しかし、全員が保護されたわけではなかった。崎浜※※が一家四人で壕に入っているところを手榴弾を投げ込まれ三人が死亡。※※一家は夫婦と子供一人が、さらに当山※※夫婦と幼児が犠牲になっている。

字民が収容された主な収容所

 地元に残っていて収容された人々は、最初は読谷山村役場の構内とアガリヌンドゥンチの家に集められた。当時郵便局長をしていた金城※※は日本兵の疑いをかけられ何度も尋問を受けていた。
 日本兵や防衛隊員ではないかと疑われた者は、家族から引き離され都屋の収容所に連れて行かれた。都屋に連れて行かれた者でも兵隊でないことが分かり、身内の者が引き取りにいくと家族の元に帰ることができた。
米軍から食糧の配給を受ける喜名の住民(1945年4月上旬)
 自分の家が残っている人は自宅に帰っても良いということになり、数日間はそこで暮らせた。その後、全員がトラックに乗せられ金武の学校に移された。金武に一か月ぐらい居て、その後中川や漢那に移された。石川に収容された人もいる。
 やんばるなどで保護された人々は、それぞれ最寄りの収容所に収容された。収容所では自由に外に出ることが許されなかった。そのため、親子や夫婦でも別々に保護されるとその生死すら確認する手だてがなく、二年ほどもばらばらにいたところもある。喜名の人々の収容先は次の一二箇所の収容所であった。石川・胡差・前原・中川・漢那・宜野座・久志・瀬嵩・羽地・辺土名・本部・首里。

復興へ

 他村での収容所生活から波平、高志保地域に帰住し、その後喜名に戻ることが出来たのは昭和二十二年十二月であった。米軍上陸直後には残っていた家も、日本軍の夜襲を恐れて米軍が焼き払い、一軒の家も残っていなかった。かろうじて観音堂と読谷山村役場跡と馬場前池は元の形をとどめていた。廃虚となったとはいえ、やっと自分の村に帰れたことで、これで転々としてきた収容所生活が終わったという喜びは大きかった。気を取り戻して復興に取り組んだ。
 食うものもなく、住居は米軍の廃材やテントの切れっぱしで建てた茅葺きで、窮乏生活に耐えながらも、学校の校舎を建て、事務所や配給所を建てた。あの頃の村人の村再建にかけるエネルギーは物凄いものがあった。区民が一丸となって再興に力を結集した時代であった。

慰霊塔について

 喜名周辺の遺骨収集は青年会(当時の会長は平良※※)が主体となって、昭和二十三年(一九四八)五月に行われた。収集した遺骨は川で洗ったが、あまりにその量が多く、川の水が白く濁ったほどだった。遺骨のほかに印鑑等の遺品もたくさんあった。
 喜名には、喜名出身の戦没者を祀るため一九五九年五月二十五日に建立した「さくらの塔」(一九九二年五月三十日再建)がある。そのほかに、喜名周辺で戦没した兵の霊をまつった「梯梧の塔」(一九五六年七月十五日建立。一九九二年五月三十日再建)、球九一七三部隊の生存者によって建てられた「山吹の碑」(昭和五十五年五月建立)がある。(宮平良秀)

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