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3 座喜味

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 概況

 座喜味は城下町として栄えた集落で今から約六〇〇年前護佐丸が恩納村山田城をここに移したといわれ、現在、国によって史跡に指定されている座喜味城跡(二〇〇一年十二月、「世界遺産」登録)がある。
 村の中央、海抜約一二〇メートルの丘の頂に築かれた城跡は、西側に東支那海が手に取るように見おろせ、また周囲も川の流れに囲まれており、今なお風光明媚な所である。
 昭和十七年頃までは、約三〇〇ぐらいの戸数があり、全体がうっ蒼と茂った木々に覆われ、実にのどかな純農村であった。そこに昭和十八年から飛行場建設が始まり、日本軍の駐屯、人馬の徴用、奉仕団の動員などによって部落全体が騒然としてきた。
 およそ二年が経過し、血の滲(にじ)むような働きによって飛行場は漸(ようや)く使用できるようになっていたが、昭和二十年四月にはそれが攻撃目標となって、熾烈な艦砲射撃の洗礼を受けた。
 戦後、旧集落に入って見ると、家屋や石垣や道路は破壊されて米軍が駐屯(現在の一班)、弾薬集積所にもなっていたので部落はその原形を留めぬまでに変貌していた。
 字民は村内での犠牲は殆どなかったが、南部方面に配属された軍人、軍属は殆ど犠牲となった。太平洋戦争までの字出身軍人軍属等の戦没者は二三五人、戦闘参加のない一般住民の戦没者は一一三人となっている(「読谷村戦没者名簿」から。戦闘参加の一般住民は軍人軍属等に含めた)。

 日本軍の駐屯

座喜味城跡の独立高射砲 第27大隊第3中隊の高射砲(渡辺憲央氏提供)
 昭和十八年四月頃から飛行場建設が開始された。球九一七三部隊(第五十六飛行場大隊)、海軍山根部隊(第二百二十六設営隊)、球高射砲隊(独立高射砲第二十七大隊第三中隊)が駐屯、飛行場近くの板針(イチャバーイ)、横田屋(ユクタヤー)には防空・食糧倉庫としての壕が掘られ、座喜味城跡・石根原(イシンニーバル)には高射砲が設置された。
 最初は学校・字事務所・民家(瓦葺きの大きい家)を兵舎、炊事場に接収しての駐屯であったが、十・十空襲後は防空壕近くの谷間に移動した。
 今、高射砲陣地は痕跡をとどめないが、飛行場は滑走路(米軍が拡張)のみを残し、米軍が落下傘降下演習に使用、その他は公共施設(役場庁舎等)、農耕(黙認耕作)に使用されている。壕は戦後枠材(琉球松)が腐ったり、薪に使用されたりして崩れ、中には入れない。半世紀を経た今日、子ども達には「昔の人が住んだ横穴住居」と言わしめている。

 戦時体制下の生活

 戦前の竈(かまど)は、ヒヌカン竈(三つの石でつくった竈)から塗り竈(土や藁で塗り固めた物)になり、昭和十三年頃には煉瓦(れんが)の改良竈に変わっていき、婦人達の台所仕事が少しは楽になり始めた。
 やがて日本は国家総動員体制となり、婦人たちも白いエプロン姿に大日本国防婦人会(後に、大日本婦人会に統合される)のたすきを掛けて銃後の守りに頑張った。具体的には、出征兵士の見送りや戦地への慰問袋の詰め作業等が続いた。大豆は炒って袋詰めにしたが、その他いろいろあった。時には、松(防空壕の支柱になるもの)の皮を剥ぐ作業にも動員された。
 昭和十七年頃から婦人達は軍事訓練や防火訓練に明け暮れた。その時の訓練係は当山※※だったが、毎日婦人達を相手に竹槍で戦う訓練をしたり、棒の先にはたきをつけて防火訓練をしていた。家庭では、火たたき(棒の先に付けたカマスをぬらして準備しておく)、防火砂(バーキにくわず芋の葉を敷いて砂を入れておく)、防火用水などを準備していた。
 灯火管制の訓練も太平洋戦争勃発後は緊迫度を増し盛んに行われた。警戒警報の時には、ランプの明かりに黒い布や厚紙をかぶせ、空襲警報には明かりを完全に消すという訓練であった。警防団は各家庭を巡回し明かりが漏れていないかチェックしていた。
 さらに部落では共同作業班(青年男女主体)を組織し、出征兵士や戦死者の家庭の農耕等の奉仕作業を手始めに、一般家庭の作業も時給六銭〜八銭ぐらいの報酬でやっていた。
 次第に、男子は出征だけでなく、徴用や防衛隊にとられ、それまで男子がやっていた仕事も女子に代わり、「食糧増産は女子青年から」を合言葉に頑張った。

 供出

 野菜・芋等は字事務所で集め、供出した。豚の供出依頼があると、字の方で隣組(九戸〜一〇戸単位)毎に輪番で割り当て、直接軍が買い取っていった。それでも下級兵たちは食物の量が少なく、民家に芋を貰いにやってきたが、上官に知られると罰されることから、こっそり隠れて食べていた。
 また、ジーファー(かんざし)・アルミ製の弁当箱や鍋・金属ボタン・金銀の時計や指輪なども供出させられた。

 出征兵士

 出征兵士の見送りは、集落はずれのヒラマーチョーと呼ばれるところで行われた。そこには大きなガジマルが枝を広げ陰を作っていた。そこに字民が集い、別離の杯を交わし、青年団や婦人会は太鼓や鉦(かね)をたたき軍歌を歌いながら盛大に嘉手納駅まで歩いて送っていった。出征後その家庭では常時日の丸を掲揚し武運長久を祈った。
 その盛大な見送りや日の丸掲揚も「支那事変」(日中戦争)頃までで、太平洋戦争勃発後は出征兵士の数がスパイに知られてしまうということで日の丸掲揚もなくなり、昭和十七、八年頃からは出征も極秘になされた。
 また、戦死者の遺骨を迎えての村葬が学校校庭の忠魂碑前で昭和十七年頃まで行われた。
 歓呼の声に送られて出征した兵士達や極秘に出征した兵士達で二度と故郷の土を踏めなかった者は多い。いま平和の守り神として「永和の塔」にまつられている。

 防衛隊

 防衛隊とは、防衛召集により編成された沖縄住民を中心とする部隊のこと。「兵役法」にもとづく防衛召集は満十七歳〜四十五歳までの男子に軍人の資格を与えて補助兵力とするもので、沖縄守備隊では二次にわたって全県から召集し飛行場建設工事や陣地構築作業に従事させた。
 防衛召集は原則として沖縄連隊区司令部司令官名の召集令状をもって執行されたのであるが、実際には正規の手続きをへることなく各部隊で恣意的な召集がおこなわれ、十七歳未満四十五歳以上の者も入隊させられ、陣地構築作業や弾薬運搬作業にあたっていた(沖縄タイムス社刊『沖縄大百科事典』より)。
 このように召集された防衛隊だから武器の供与もなく戦況悪化につれ、指揮系統を失い唯戦場を右往左往するばかりだった。字出身の防衛隊には独断で部隊を離脱して生還した者もいるが、多くは戦死した。

 徴用

 「国家総動員法」にもとづく「国民徴用令」に従って人々を徴用し、労働に従事させた。当時座喜味集落南側の読谷山国民学校には、飛行場建設のため日本軍が駐屯し、徴用人夫も全県から集り、民家に間借りしていたので部落中が慌ただしくなっていた。
 飛行場建設は急を要する工事だったが、機械動力はなく、ツルハシ、ショベル、モッコ、ザルなどの道具と人力だけで進められていた。当時の掩体壕(飛行機格納庫)が一九九九年一月現在四基残っており、旧滑走路や誘導路の一部も生活道路として使われている。
 北(読谷)飛行場は当字の南側にあるが、徴用は必ずしも近くにとは限らず、建設中の嘉手納、伊江島、八重山などの各飛行場にも徴用された。
 当時の食糧事情は極端に悪く、徴用人夫も例外ではなかった。彼らの食事は飯場で作られ、それをグループごとに分けて一緒に食べた。自前の弁当箱には芋ご飯を詰め、おつゆは中身がほとんどなく、たまに大根の葉が入っていると「ミーイッチョーン」(具が入っているね)といってそれを喜んだ。とにかくいつも食べることだけを考えていて、子供たちを笑えない状況だった。このような状況であったので、工事は遅々として進まず責任者の怒鳴り声が毎日飛んだ。

 米軍上陸

掩体壕で飛行機の残骸を調べる米兵。掩体壕は、読谷飛行場北側に現在3基残っている
 昭和二十年三月末、ヤマタイ毛から望む東シナ海は米艦船で真っ黒、沖縄全体を取り巻いているんじゃないかと思う程だった。やがて焼夷弾も投下されるようになり座喜味集落は殆ど焼けた。夜分、壕から焼け跡に飯炊きに行ったが、時には夜も空襲があり、木の茂みにかくれつつ命がけの仕事だった。
 艦砲射撃は最初セスナ機(俗称「とんぼ」)が飛んで来て攻撃目標を指示、それが飛び去ると雨あられの様な艦砲の集中攻撃があった。それでセスナ機の音の大小で艦砲の落下地点の遠近が大体わかった。音が大きいと落下地点が近いので生きた心地がしなかった。
 はげしい艦砲射撃にはどうにか堪えたが、米軍上陸確実との情報で三月末、山原に避難した家族もある。彼らは板針(イチャバーイ)の壕から出ると、攻撃跡を物語る弾痕のでこぼこ道を通っていった。避難中、米軍が上陸したとの情報があったが、山原への道はまだ逃げ遅れた避難民でいっぱいだった。
 山原に避難せず最後まで座喜味にとどまり、米軍の上陸の様子を見ていた山城※※の証言によると、日本軍はすでに北飛行場を撤退した後で戦闘はなかった。米兵達は夜になると蚊帳(かや)をつって寝ていた。
 妻が「逃げよう」と言い出したが、「逃げれば自分達の家族は犬や猫のように、それぞれ何処で殺されるかわからないから、この壕で暮らしていれば私達の家族はこの壕で死んだことがわかるから何処にも行くな」と止めた。
 米軍が上陸した翌日、午前十時頃には米兵達が壕にやってきて家族七人が捕虜になった。その他老人六人も一緒に水陸両用戦車で飛行場を横切り都屋の収容所へと送られた。その間、若いのは自分だけだったから顔もあげずに小さくなっていた(当時三十五歳)。都屋の収容所には二〇〇名ぐらい収容されていて、中には防衛隊員も混じっていた。
 収容所では日本軍の空襲があるとはいえ、さほど心配はなく食糧も十分与えられた。むしろ米兵の親切な対応が印象に残っている。
 やがて長浜・楚辺・嘉間良・石川・金武・漢那等転々と移され、山原、その他からの人達と合流しての生活となった。

 避難

 座喜味の避難指定地は辺土名で、昭和二十年二月頃から始まった。最初に避難したのは大名護小(ウフナググヮー)、島袋小(シマブクグヮー)、新屋当山(ミーヤートーヤマ)、蒲仲宗根(カマーナカジュニ)、蒲幸地(カマーコーチ)の五世帯だった。辺土名まで行くのに三日かかった。手続きを済ませ、家を割り当てられ、村から配給物資を貰っての生活が始まったが、その配給物資も長くは続かなかった。
 三月の激しい空襲があってからは、指定地辺土名の他、飛行場建設に土地を接収され既に金武や銀原の開墾地に移り住んでいた親戚や知人を頼って避難した。
 また、年寄りを抱え山原に避難できない人達は自力で掘った壕や日本軍撤退後の壕に避難していた。

 旧集落への帰住

 沖縄戦で多大な犠牲を払いつつも辛うじて戦禍をくぐり抜けた字民は、石川・コザ・前原・中川・漢那・宜野座・久志・田井等・辺土名等の収容所に収容された。そこで窮乏生活を余儀なくされながら、郷里への移住を宿願していた。
 一九四六年八月、遂に願いが叶い村への移住が許可された。読谷村として早速先遣隊を組織し、現地へ派遣して村の再建に着手した。その先遣隊の努力と村民の協力で一九四六年(昭和二十一)十一月二十日には最初の村民受け入れも開始された。
 なにしろ移住許可地域が波平と高志保の一部だけで、そこに五〇〇〇人余が移住したのだから、それはもう窮屈この上もなかった。しかし収容所に比べれば、郷里に帰ったという安堵感と希望で精神的にはゆとりがあった。
 このように各字民が雑居し逐次各字の開放、復興を待つ状況であった。字への移住も楚辺・大木に始まり、いよいよ座喜味も一九四七年(昭和二十二)八月にはその一部が開放されることになった。座喜味の旧集落は米軍の弾薬集積所になっていたため開放されず東川(トーガー)への移住だった。
 住居は標準家屋*(二・五間×二間、茅葺き)一棟に二世帯の配分だった。以後は自力で軒をおろし広くしたり、修理補強したりして住空間を広げ、台風にも備えた。
 畑(一人三〇坪)、田(一人一五坪)を割り当て耕作し食糧不足を補い、また米兵の犯罪に備えて自警団を組織するなど自衛策を講じた。
 東川(トーガー)での生活が四年余りを経た後、一九五二年(昭和二十七)には旧集落が開放され、自力で自分の宅地へと次々移住した。一九五三年十二月二十日には公民館(セメント瓦葺き平屋建て、ブロック壁、三〇坪、三〇万B円)も完成し、字行政の中心は旧部落に移り現在に至っている。

 *註記

 標準家屋の広さについては、実際に当時建築に関わった人々の聞き取りでは二間×三間という証言もある。一家族が八人以上だと丸ごと一棟、七人以下だと二世帯で一棟に入った。沖縄タイムス社刊、『沖縄大百科事典』によると、「規格家」と呼ばれ、面積は母屋五・三三坪、延べ六・六六坪となっている。(比嘉房雄)

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