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5 上地

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概況

 上地は、読谷村のほぼ中央に位置し、座喜味、波平、高志保に三方を囲まれた小さな集落であるが、編年体の琉球の正史『球陽』巻二十二に「読谷山郡上地村」と記載されており、長い歴史をもつ古い村である。

戦時下の様子

 戦前の上地では、一五世帯が暮らしていた。馬博労(うまばくろう)をしていた※※の照屋※※と、牛乳屋を営んでいた照屋※※以外は農業を営んでいた。※※の戸主新城※※が区長を務めていた。
 昭和十八年の夏、上地に隣接する場所に読谷山北飛行場の建設工事が始まった。山内に婿入りした相庭※※は、県職員を定年後、国場組が主導していた北飛行場建設の指導員を勤めた。字民も何人かは彼の指揮のもとで働いた。また、上地には飛行場建設のために県内各地からたくさんの人夫(徴用工)が滞在するようになった。仲門小はこれらの人夫たちに家を貸していた。人夫からは家賃をとらなかったが食費はもらっていた。牛西門、城間屋にも島尻から来た人夫が宿泊していた。この頃、一番困ったのは、井戸の使用であった。上地にあった井戸は、飛行場建設関係者が優先的に使うことが決められ、字民は自由に使うことができなかった。徴用されたバシャムッチャー(馬車持ちの人達)がひっきりなしに字の井戸から水をくみ出していた。

 県外疎開

 昭和十九年の夏頃になると、読谷山村役場は村民に対して県外に疎開するように勧めたが、上地から疎開した者はいない。

 出征兵士の見送り

 昭和十九年十月十日の十・十空襲以前には、部落から出征する人があると、字全体で「出征兵士激励会」を開いた。十・十空襲前日の十月九日にも山田小(ヤマダグヮー)で字中の人が集まり山羊を潰して、出征兵士激励会を開いた。翌日が空襲だったので、その日の激励会のことを覚えている人は多い。
 出征兵士を見送る際、字民はまずアサギジョー(仲呉屋)を拝んだ。アサギジョーは上地のニードゥクマ(根屋)であり、字の年中行事の拝所でもあった。アサギジョーの次に、喜名の観音堂を拝み、そして嘉手納駅まで見送った。
 出征兵士が乗っていると思われる船が読谷沖を通る時間を見計らって、字民は波平の現在の「象の檻」がある所で、枯れ草や青葉を焚いて煙を出し見送った。「ウヌ キブシ ンジーネー ワッターンディ ウムリヨー(この煙を見たら私たちだと思いなさい)」と言いながら、おばーたちはよく泣いていた。どの船に出征兵士が乗っているかわからなかったが、とにかく船が通ると煙をあげて、手をふりながら見送った。戦後になっても字の年寄りたちは、夕飯時に家の中が煙っていると、「イッター フナウクイドゥ ソーンナー(あなた達、船送りをしているの)」とよく冗談を言った。

 日本軍の駐屯

 上地は北飛行場と隣接していたので、やがて多くの日本兵が駐屯するようになった。兵隊たちは、よく住民に「何か食べるものはないか」と言ってきた。※※の照屋※※や※※の※※は兵隊相手にモチを売っていた。物資の乏しい当時、モチはタピオカで作った。砂糖は石川・嘉手苅に行って闇で仕入れた。
 牛西門の家は日本軍の事務所として使われていた。一番座と二番座に三人の兵隊が常駐していた。兵隊のいる部屋には入ることはできなかった。※※の※※おばーは兵隊をすごく怖がり、台所と二番座の戸をいつも閉め切って、兵隊とは一切口を利かなかった。
 仲門小の家は大きかったので、将校を含む七、八人の兵隊がいた。兵隊達はフール(豚便所)を嫌がって、家の後ろに穴を掘って、その上に材木を渡して、仮の便所を作った。彼らは、食事は部隊で済ませるので、仲門小では寝泊まりだけをしていた。あいさつくらいはしたが、兵隊とはほとんど話をしなかった。しかし、当時三歳だった※※は兵隊をみると、手を頭の横につけて敬礼のまねをした。

 徴用

 ※※の山内※※は戦前、十四歳の頃から字のサジを務めていた。サジとは、字費を徴収したり、行事のときの手伝いをする役割である。日本軍にたいして食糧や衣料品などの供出物を集めたこともあった。主に芋や着物などを出していたが、照屋※※は「着物なんか、今考えると何に使ったのか不思議だ。寝間着にでもしてたのかねー」という。牛西門からは馬を供出した。
 山内※※は、山部隊の新城隊でバシャムッチャーをしていた。馬車は、防衛隊員となった座喜味の当山某のものを譲り受けたものだった。軍属というわけではなかったが、その頃のバシャムッチャーはみんな軍事関係の仕事をしていた。山内※※も山で木を切って馬車に積み、夜に豊見城まで運んでいた。それは防空壕の枠材として使う為だった。北飛行場建設の仕事もしたが、これは石を運んだり、土手を壊したりする作業であった。飛行場には、徴用人夫たちが寝泊まりする飯場が仮設されていた。その飯場に馬車で座喜味や上地の井戸から水を運ぶ仕事もあった。山内※※も飛行場建設時は飯場で寝泊まりしていた。

 十・十空襲

 十・十空襲の時読谷では、主に北飛行場が攻撃されたため、上地の住民は空襲を真近に体験することになった。
 ※※の照屋※※が夫に「ヌーガラ パタパター スンドー(何かしら、ぱたぱたしているよー)」と言うと、「ヤー ウレー 戦争ドゥヤンドー 弾ドゥヤンドー(おまえそれは戦争なんだよ、弾が飛んできているんだよ)」と言われて初めて空襲だとわかった。家族みんなで屋敷内のフクギの前に掘ってあった壕に隠れた。
 山田小では前日の十月九日の夜に出征兵士の激励会があったため、十月十日は数名で後片付けをしていた。そこへ空襲が始まった。はじめはみんな演習だと思って見ていた。しかし、飛行場に待機していた日本軍の飛行機が燃えているのを見て、本当の空襲だと気づいた。そのうち、機銃弾がどんどん飛んできた。片付けを手伝っていた山内※※はすぐ近くに弾が飛んできても、「はじめてのことなので怖さは感じなかった」と言う。薬莢(やっきょう)が落ちてくるのを見たが、「何でこんなのが落ちてくるかねー」と思いながら眺めていた。※※が仕事で通っていた飛行場内に設けられた飯場は、全て焼けてしまった。
 ※※の比嘉※※は、八重山飛行場の建設工事の人夫として徴用された。八重山から読谷に帰る船中で十・十空襲に遭い、久米島南方で遭難死亡した。

 戦火の中で

 山内小の家族は、座喜味の親戚と一緒に馬車で金武・喜瀬武原へ避難した。しかし、喜瀬武原には長くは留まらず、再び読谷山に引き返すことにし、艦砲のひどい昼間を避けて夜間移動しながら座喜味城址の後ろ(長浜の上)にある古い門中墓を開けて、その中に隠れた。一週間くらい墓の中で過ごした。墓の中で煮炊きしていたので、煙が墓中に充満するというような状況であった。
 米軍が上陸した四月一日、この墓に、前照屋、山内、仲門の人たちが一緒に避難してきた。外で火を使ったことが原因だったのか、米兵に見つかり※※の照屋※※おじーが銃で撃たれて死亡した。このとき相庭※※も撃たれたが、一命はとりとめた。
 仲山内は座喜味のフンジャー山へ避難した。山田小、仲呉屋、照屋も、座喜味のナカブクへ避難していた。上地に留まり、米軍上陸の四月一日に座喜味へ避難した人たちは、その日のうちに米軍に収容された。
 また、※※の※※おばーと※※の※※は照屋の屋敷後ろにあった上地の壕に留まり、皆と別れた。二人はその後行方不明となり、遺骨も収容できないままである。

 石川・金武に避難、その後米軍に収容される

 しだいに空襲が激しくなり上地は危険だということで、※※の平敷※※の家族は親戚を頼って、石川・嘉手苅に避難することになった。この時、平敷小、牛西門、仲門小、西仲門、仲元、城間屋、西門の家族が行動を共にした。嘉手苅では、民家のアサギ(離れ)などを借りて生活した。そこでしばらく過ごした後、石川・伊波のティラの壕に移動した。
 ※※の比嘉※※によると、石川の壕の中には、湧き水があり水には不自由しなかった。しかし、壕の中で煮炊きすることはできないので、暗くなってから外に出て食事をつくった。しばらくすると、その壕よりは金武のほうが安全だという話を聞き、金武に向かった。金武・喜瀬武原の避難小屋から、イモやトーマーミ(そら豆)を収穫するために、上地の畑まで何度も往復した。そのうちに、金武は米軍の猛攻撃を受けたので、全ての生活道具を金武に残したまま、再び石川の壕に戻った。そして二週間ほど壕の中で生活した。
 石川の壕には、上地の人たちの他に嘉手苅集落の人たちが避難していた。全部で一〇〇人くらいおり、全て一般の住民だった。壕の中には便所がないので、用をたすときは外に出ていた。それを見られたからかどうかは知らないが、手榴弾を投げ入れられたことがあった。これによって、嘉手苅の者四、五人がけがをした。そのとき、文助たちは壕の奥の方にいた。壕に毒ガスをまかれたかもしれないと思い、タオルを水に濡らして、それで鼻や口を塞いで、壕の奥でじっとしていた。
 翌日、日系アメリカ人と思われる人が一人で壕の中に入ってきて、「どうもしないから全員出てきなさい」と言った。それで、全員が壕の外に出て収容された。

 収容所での生活

 石川に避難した牛西門、西仲門、平敷小の家族は壕から出た後、米軍のトラックに乗せられて、具志川の赤道に連れて行かれた。そこで三、四日過ごしてから、具志川・川田の収容所に移された。川田収容所では、よく海から肉や野菜が流れてきた。沖にアメリカ軍の船がたくさん停泊しており、それらの船からいろんなものが捨てられ、それが海岸に流れ着いてきたのだった。比嘉※※は「川田収容所では食べ物に不自由はしなかった」と言った。
 仲門小と仲呉屋の家族は、石川の収容所へ連れて行かれた。仲門小は戦後も石川に留まった。仲呉屋は、村内で捕らえられた後、石川の収容所へ連行されたが、その後漢那収容所に移動させられた。
 山内、山内小の家族は村内で捕らえられ、その後、都屋、長浜と移動させられ、最終的に金武に移された。そこから男性のみ漢那に連れていかれた。

 上地出身の戦死・犠牲者

 上地では、太平洋戦争で次の二一名が犠牲になっている。詳細は次の通りである。

屋号  氏名   死亡年齢
牛西門 比嘉※※ 二十一
牛西門 比嘉※※ 十九
前照屋 照屋※※ 六十三
平敷小 平敷※※ 四十
西仲門 照屋※※ 八十
仲山内 山内※※ 二十四
仲山内 山内※※ 十八
仲山内 山内※※ 十八
仲呉屋 新城※※ 三十六
仲呉屋 新城※※ 三十三
仲呉屋 新城※※ 二
仲呉屋 新城※※ 七十一
城間屋 城間※※ 三十八
城間屋 城間※※ 三十九
城間屋 城間※※ 二十七
城間屋 城間※※ 六十六
山 内 相庭※※ 二十一
西 門 比嘉※※ 十九
    城間※※ 二十一
    城間※※ 十九
    山内※※ 不明
(「読谷村戦没者名簿」より)

 軍人軍属として海外へ行き、そこで死亡したのは四人である。比嘉※※は、八重山飛行場建設のために人夫として徴用され、八重山から帰る船が空爆され、久米島の南方で死亡した。その他軍人軍属等として沖縄戦に参加し、死亡したのは九人である。戦闘に直接参加していなかった一般住民の戦没者は七人である。※※の城間※※は避難先の石川で亡くなっている。※※の照屋※※は、米軍上陸の日に座喜味の避難地で米兵に射殺された。
 戦後、ようやく収容所から読谷村波平まで戻ってきた新城※※は、昭和二十二年十月二十五日に死亡している。このことについて、現在ブラジル在住の長男新城※※によると、「父は支那事変に召集され、復員後は沖縄戦でも防衛召集された。しかし体が弱かったため、家に戻され、米軍上陸の際は読谷村内にいた。その後家族とともに座喜味のナカブクの墓に避難した。米軍に収容されてからは、当時三十六歳で背も高く、色も白かったため、日本兵と疑われていた。父は金武村漢那の収容所で、妻※※、父※※、四男※※を栄養失調で亡くした。ようやく読谷に戻ってきて間もなく、父も亡くなってしまった。これは相次いで家族を亡くしたことの心労も大きかったと思う」と語る。

 収容所での三線作り

 ※※の照屋※※は、戦後三線作りを始めた。※※は戦前から三線が好きで古典音楽の愛好者であった。現在、上地出身者で三味線店を営むものが多いが、※※が先駆者であった。※※は石川収容所にいた時、当時石川三区にあった仲田三味線屋で三線の作り方を習った。収容所を出た後も家族で石川に留まり、カバヤー(テント小屋)でくらした。そこで三味線店を始めた。当時、三線作りには、胴(チーガ)に馬の皮を張り、ツーバイフォーで棹を作っていた。その後、※※の弟が三線作りを習って、石川で三味線店を始めた。また※※の義弟の城間※※、城間※※が上地で、※※の山内※※が嘉手納で三味線店を開いた。沖縄市にも照屋一門の三味線店が二店、城間一門の三味線店が二店ある。

 帰村

 終戦当時、上地の人々は石川収容所、漢那収容所、具志川の川田収容所などに収容された。昭和二十一年八月六日、波平と高志保に読谷山村民の帰村が許可された。石川やコザの収容所にいる人たちが、八月十二日に読谷山村建設隊を結成し、先発隊として読谷にやって来た。しかし比嘉※※がいた具志川・川田収容所ではそのような連絡がきていなかった。※※はコザにいた姉から知らせを受け、義兄の代わりに先発隊に加わった。その後、上地の字民は各地から読谷へ戻り始めた。読谷に帰ってきてからは食べ物に不自由した。配給はあったが、それだけでは十分ではなかった。蘇鉄の幹からデンプンをとって食べたりもした。帰村した人々が元の上地部落に帰ってくることができたのは、それから二、三年経ってからであった。
 仲門小は帰村せずに、戦後も石川に留まった。また平敷小、西仲門は具志川の川田に留まったが、現在上地に戻ってきている。(玉城毅)

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