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1 戦時下の公務員の職務遂行

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 教員

 戦前の学校教育における職階は、校長・首席訓導(教頭)・訓導(教諭)と呼ばれ、その他に代用教員や給仕がいた。読谷山村出身の教員数は六二人(海外在住三人含む。戦災実態調査票の集計による)であった。
 昭和十六年には、国民学校令が公布されて校名も小学校から国民学校にかわり、初等科六年と高等科二年の課程となる。登下校の際は奉安殿(御真影と教育勅語が収められている)に敬礼し、各教室には大麻(伊勢神宮などから授与された神符)が祀られていて、特に大詔奉戴日には礼拝を行い、神道思想の鼓吹(こすい)が行われていた。
 昭和十七年、名護国民学校に勤務していた字座喜味出身の比嘉※※によれば、帰りには途中の神社や御嶽(ウタキ)等を参拝して、徴兵検査に合格する事を祈ったという。また、兵隊になるために毎日運動場を五〇周ほど走ったり、名護から家までを歩いて帰るという日本男子としての自己訓練も課したという。
比嘉※※氏の「国民学校教員免許状」
 昭和十八年(一九四三)六月、政府は「学徒戦時動員体制確立要綱」を決定し、翌七月には全国女子学徒の動員方針を決めた。沖縄でも男女中等学校生は、軍の陣地構築や勤労奉仕作業に動員されるようになり、正規の学習環境は急速に崩壊していった。まさに「校門は営門に通ずる」という尽忠報国の教育となり、学校は軍事教育・軍事訓練の場となる。
 字渡具知出身の中村※※によると、教員の服装は、男子は国民服にゲートルを巻き、頭髪は五分刈、女子はモンペ着用となる。教育内容も、音楽では階名唱(ドレミ唱)から音名唱(ハニホ唱)と変わり、音感教育として聴音教育が重視された。修身では、授業を始める前に教育勅語を奉唱したり、家庭科では防空頭巾やモンペ作りが主な内容となった。また、敵性語の使用が禁止されて、バレーボールが排球に、バスケットが籠球に変わるなど、軍事一色になったという。
 昭和十九年になると「一億一心火の玉だ」の標語のもとに、学校でも団体訓練が重視され、朝会時には宮城(きゅうじょう)(皇居)遥拝や君が代斉唱、そして学校唱歌より軍歌「出征兵士を送る歌」や「兵隊さんよありがとう」等が歌われるようになった。学校外では、各字少年分団が組織され、「健民錬成耐寒訓練」として冬の乾布摩擦も行われた。
 当時の教員の姿勢を昭和十九年二月十一日付毎日新聞の記事では次のように記してある。「我等皇国民練成の重責にある者深く戦局の重大性を認識し身命を賭(と)して教育報国に挺身し、常に率先垂範して陣頭指揮を行ひもつて国防力の増強に邁進(まいしん)せざるべからず、この決戦の年にあたり特に左記事項の強調実践を期しその決意を闡明(せんめい)す。

 教育非常措置の国策に即応し陸海軍志願兵の急速増強、軍需生産、食糧増産、軍人援護、報国貯蓄など戦力育成の教育道に邁進する
 大舛精神運動の趣旨により軍神大舛大尉の尽忠報国の精神を青少年の魂に生かし、県民の生活に滲透(しんとう)具現せしめる
 戦時下青少年教育の使命に基づき、その設備資材の欠乏を克服して創意工夫により勝ち抜く教育の徹底を期す」(前掲『読谷村史』、三九五〜三九六頁)。
 こうした姿勢を具体的に示すかのように「輸送力強化にヨイコ達も一役」と名護から県庁までの木炭の輸送を、十二区に分けて地域の国民学校の児童でリレー式で運搬した様子が、昭和十九年十二月二十六日付『朝日新聞』で紹介されている。それによると運搬量は「車力を利用するもの(一台十俵)児童の背負ふもの(二人で二俵)」で「教育上支障なき限り曉天または夜間を利用するも可」とあり、終夜を通して運搬作業が行われることになったことを報じている。ちなみに読谷山校の分担は、読谷山校(当時喜名)から屋良校までであった(前掲書、三九六頁参照)。
 昭和十九年九月に与那城から赴任してきた渡具知出身の石嶺※※(旧姓※※)は「ほんとに軍国主義の教育をやってきたので、当時は教科書の通り、一度も戦争に負けた事がない国で、負けようとすると神風が吹くとか、何の疑いもなく信じて教えていた。…今考えると、私も戦争協力者だった」と当時を振り返っている。
 北飛行場建設が始まると、読谷山国民学校は軍に接収され、同校は喜名分教場敷地に移された。波平・上地・座喜味(都屋含む)・喜名・伊良皆・親志・長田の一部の大きな校区を占めていたので、各字ごとでの分散授業の形態となる。そんな児童達の様子を沖縄新報(昭和十九年十二月二十六日)で、「お山も野良も僕達の学校だとばかり読谷山国民学校ではお山の樹蔭に坐を組んで高らかな朗読もこだまして露天教授を行つている」(前掲書、四〇七頁)と書いている。
 前出の石嶺※※によると、勤務の状態は渡具知から毎朝徒歩で喜名まで行き、職員朝会後は都屋の民家で一〇人の生徒に手作りの黒板を使っての複式授業を行っていたという。印象に残った授業の内容として同人には、「海ゆかば」を歌ったり、その説明をしたりしている授業を傍らで聞いていた山部隊の北海道出身の一兵士から「みんな生きたいんですよ。死に際にはお母さんと叫ぶんですよ」とさらに、「これからは、この教材の指導は止めて下さい」と言われ、教科書通りに教えていたことを詫びたというエピソードもある。同じように、体育の時間に竹槍訓練を指導しているときも、同校の喜友名※※先生から「銃火器を持っているアメリカ兵に本当に竹槍で向かっても仕方がないよ。私なら逃げるよ」と、冗談とも本気とも受け取れるアドバイスを受けて、竹槍訓練を全うしながらも最後は「いざと言うときは逃げなさい」と言うようになっていたと、笑うに笑えない皇民化教育の逸話に教育者の苦悩が見えてくる。
 同じ頃、古堅国民学校は陸軍病院となった。全校舎が診療室や病棟になり、授業はムラヤーや民家、大きな木の下などで行われた。上級生は、陣地構築や防空壕掘りに駆り出された。夏には、県外への学童疎開が始まった。また、楚辺や比謝矼から多くの家族が熊本・宮崎・大分の各県に疎開し、対馬丸事件に遭遇した人々もでた。
 十・十空襲後は、空襲警報が発令されたら登校しなくてもよいことになっていた。
 昭和二十年一月からは、空襲警報や警戒警報が頻繁に発令され、防空壕通いが多くなり、授業どころではなくなった。三月二十三日の国民学校の卒業式も空襲のため大混乱に陥り、中止となった。
 太平洋戦争期、大政翼賛会は学校教育に大きく関わった。沖縄県支部(昭和十六年十二月発足)の下に各郡支部が置かれ、県民の皇民化教育に積極的に尽力したのである。その内容は日頃の生活様式から言動に至るまで規制するもので、成人に対すると同じように児童生徒にも「高度国防国家体制の樹立に努む」ことを求めた。
 したがって、前述のように教員という立場での職務遂行とはいえ、こうした社会的背景から「皇国ノ道ニ則リ皇民ヲ練成スル」の教育目標がすべてであった。沖縄では、明治の廃藩置県以来、皇民化教育が推進され、特に戦前から戦時中にかけての教育は、皇民化教育一点張りであった。そのため小学校では、軍隊組織をまねて学校全体を大隊(長は児童)、学年を中隊、学級を小隊として、子ども達を「忠良なる臣民」に仕立て上げることに懸命になっていたのである。戦況が著しく悪化するなかでも、避難命令が下りるまではこうした教育を遂行したことになる。
 当時、宇久田国民学校の校長であった字渡具知出身の大湾※※は、御真影御奉遷の指令を受けて、首席訓導とともに羽地村の稲嶺国民学校の奉安殿に、天皇皇后両陛下の御真影を御奉遷したという記録も残っている。
 比謝出身の仲村渠※※(二十一歳)や伊佐※※(二十歳)のように、教員でありながら昭和十九年に徴兵検査を受け、幹部候補生や歩兵として山部隊に現地入隊し、戦死した者もいる。

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