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3 防衛隊・男子学徒隊
体験記

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 ○比嘉※※ 大正五年生 字※※

 楚辺駐屯の部隊

 楚辺の大きい家には兵隊が駐屯していました。私の家はイーガーの近くでしたので、毎日午後五時頃になると北飛行場の航空隊整備兵がイーガーに来て水を汲み、ドラム缶に沸かして浴びていました。
 私の家(屋号後上門)にも一〇人位の機関砲隊の兵隊がいました。アガリムイ(屋号)には炊事場があり、食事係の二人の兵隊たちは毎日三食の飯上げに行っていました。
 アカヌクー(赤犬子の祠)の上には高射砲隊と機関砲隊の陣地がありましたが、私の家にいた兵隊たちは十・十空襲以後は陣地に移って行きました。

 防衛召集

 私は昭和二十年二月二十三日頃、石部隊に防衛隊員として召集されました。読谷山からは楚辺・波平・喜名等四〇人以上が召集されましたが、そのうち馬車引きは二〇人位だったと思います。その人たちが石川・登川・普天間の各詰所に配置されました。
 その頃の防衛隊の主な仕事は丸太運搬でした。山原の防衛隊が切り出した丸太を、石川の詰所に召集された人たちが山原から石川まで運び、後はリレー式に登川の詰所の防衛隊員が普天間へ運搬し、普天間の隊員たちによって島尻へと搬送されたのです。丸太は洞窟陣地等の坑木として使用されていました。
 私は登川の詰所に配置されていましたが、毎朝七時頃石川に向けて出かけ、石川で約八〇〇キロくらい馬車に積んで、普天間まで運びました。登川に帰り着くのは大体午後四時頃でした。
 この作業は三月二十七、八日の空襲の時まで続きましたが、空襲がある日は夜間に行われました。米軍上陸直前、浦添の石部隊本部に集結し、丸太運搬は終わりました。

 弾薬運搬

 その後は前線部隊に配属されましたが、夜になると、浦添から宜野湾まで弾薬運びに従事しました。宜野湾の南上原や西原辺りの畑の畦や山の下には弾薬がたくさん積まれていました。そこから嘉数高台の前線まで運ぶのですが、朝帰って来ると壕の中に寝て、夜になると出動ということの繰り返しでした。
 弾薬を運んだ帰りには、負傷兵を馬車まで交互に負ぶって行き、馬車に乗せて首里の陸軍病院まで運ぶこともありました。
 ある時、千原からずっと下の棚原辺りまで、三人で一人の負傷兵を運んだのですが、負傷兵は体が大きくて運ぶのが大変でした。担架がないので巻脚絆を負い紐にして負ぶって行きました。その大柄な負傷兵は北海道出身ということでしたが、だいぶ弱り果て、話しかけても返事はしませんでした。病院までは運んだのですが恐らく助からなかったと思います。
 砲弾運搬時には、監視のため銃をもった兵隊がついてくるのですが、最後尾になると前線へは届けず、途中でこっそり置いてくることもありました。けれどもそのようなことをしたり、負傷兵を置き去りにするのではないかと監視の兵隊は絶えず厳しい目を向けていました。
 とかく激しい労働の毎日でしたが、食事は一日一回、それも握り飯一個しか貰えませんでした。
 前線からの帰りは、あちこちに日本軍が埋めた地雷があり、それを踏まないように歩くのは大変でした。また辺りは一面死体だらけで、腐って膨れあがり、うじがいっぱいたかっていました。
 昼は砲撃が激しく出歩けません。したがって行動は夜間だけでしたので、暗いのにも慣れていましたが、あちらこちらに砲弾の弾痕があり、落ちないように歩くのに大変気を使いました。時々照明弾が上がり、辺りを昼のように照らしました。それは日本軍の動静を探るためのものだったのでしょう。はじめの内は大変恐れましたが、慣れるに従い私たちはその明かりを利用して行動しました。

 所属部隊全滅

 嘉数は激戦地でした。浦添では馬乗り攻撃されて多くはそこで亡くなりました。私はアメリカ兵の包囲網をくぐり抜け、逃げ回ってようやく助かりましたが、一緒だった楚辺の人の多くは死んでしまいました。波平の人は全員戦死というような状態になってしまいました。私たちの班長は波平出身の与儀※※だったと記憶していますが、彼は糸満辺りで亡くなったと思います。馬や馬車は浦添でとっくに無くなっていました。
 私の所属していた石部隊は全滅しましたので、山部隊か球部隊かはっきり覚えていませんが、そこに配属されました。

 南部撤退

 配属替えされた頃からは戦況は日に日に悪くなり、どんどん島尻に下がって行きました。
 弾薬庫は中頭に多く、島尻には余り無かったので、弾薬運びはありませんでした。
 昼は壕に隠れ、夜はあちらこちらの畑から芋を取って来て、飯盒で炊いて食べましたが、そのような物でも一日に一回でもありつければ良い方でした。新しく配属された部隊は五〇人位の機関砲隊でしたが、私たちは元々部隊が違うということで、食事の面倒まではみてもらえませんでした。
 この機関砲隊も肝心の機関砲を失い、前線へ出動することはできなくなっていました。それで防衛隊員は部隊と一緒に行動しても良いし、別行動を取ってもよいという状態になっていました。

 喜屋武岬

 そのような状況の中、六月二十二日にその部隊も解散になりました。
 喜屋武岬から東へ行くと港川へ出るので、そこを突破しようとしたのですが、アメリカ兵の機関銃で狙われ進めませんので、喜屋武岬にとって返しました。突破しようとして多くの人々が撃たれて死んでいました。
 喜屋武岬には兵隊や一般住民がたくさんいて、まるで網に囲い込まれた鼠のように追い詰められうごめいていました。多くの人たちが手榴弾自決していきました。

 捕虜

日本軍屋嘉捕虜収容所跡の碑
 上陸用舟艇からアメリカ兵が「出て来い、出て来い」と呼びかけてきました。海岸に追い詰められている内に、楚辺の人が寄って来て六人になりました。このまま留まって死ぬか、それとも出て行くかということを相談しました。
 中には正規の兵隊もいて手榴弾を持っており、どちらにしても死ぬのだったら突破できる所まで行って死のうということになりました。
 結局、最後はどうしようもなく、アメリカ兵が銃を構えているところに、手を上げて出て行きました。
 アメリカ兵が手振りで服を脱ぐように指示したので、防衛隊の軍服を脱ぎました。褌はシラミが湧いていたのでとっくに捨てていましたので服を脱いだら、本当に丸裸になりました。幸い一緒にいた楚辺の人から三角巾をもらい、それを褌代わりにしました。
 夕方、車に乗せられ小禄飛行場に連れて行かれました。車に乗せられた多くの人たちと一緒に殺されるなら、もうどうにでもなれと思っていたところ、小禄ではアメリカ軍の携帯口糧と服が支給されました。シャワーを浴びている時、支給されたばかりのPW服を盗まれましたが、池原※※さんが代わりの物を持って来てくれました。
 それから取り調べがあり、一泊後、嘉手納の中飛行場に送られ二泊し、それから屋嘉に送られ、一週間後にハワイに送られました。

(同人はその後ハワイの捕虜収容所に一年半、さらにサイパンの収容所に半年抑留されているが、その分は割愛した。)
 参考=「楚辺合同調査報告書」

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