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3 防衛隊・男子学徒隊
体験記

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 ○野波※※ 昭和二年生 字※※

 徴用等

 私は昭和十七年(一九四二)三月、読谷山国民学校の高等科を卒業しました。その頃、日常の生活物資は乏しくなりはじめ、配給制になった物もありましたが、それでも戦争はよその国でのできごとにしか思えませんでした。
 昭和十八年(一九四三)、北飛行場(読谷山飛行場)の建設が始まりますと、戦争ということが身近に感じられるようになり、やがてその建設工事に従事するようになりました。
 そうこうする内に昭和十九年(一九四四)九月頃、海軍山根部隊から父へ徴用令が入りました。私は父に代わって豊見城村座波の部隊に同字の比嘉※※さんと一緒に行きました。父の代わりではあっても若い人の方が良いと思ったのでしょう、別に咎めることはありませんでした。任務は主に小禄の海軍飛行場の滑走路等の整備作業でした。
 十月十日の空襲で家のことが心配になり、夜に入ってから宿舎を抜け出し、読谷山のわが家に帰りましたが、幸い家族は家とともに無事でした。
 やがて無断外泊が脱走ととられることを心配して、翌早朝、隊へ帰りますと「貴様らのような精神と態度では戦は勝てない」と怒鳴られ、一列に並べられて海軍精神注入棒(俗称バッター)を食らわされました。この苦い思いを残した徴用は一か月程で終わりました。
 その頃になると、沖縄各地で守備軍の陣地構築が急ピッチで進められ、米軍のB17やB24が頻繁に飛んでくるようになりました。そして年明けとともに艦載機による空襲が相次ぐようになって来ました。

 防衛召集

 三月六日、ついに防衛召集が入りました。読谷からの最後の召集ではなかったでしょうか。
 夕方から歩いて繁多川在の部隊に向かいましたが、かねて手配されていたのでしょう、途中北谷辺りで握り飯の給養を受けました。
 真和志村安里辺りから上がり、繁多川の高射砲司令部に着いた時は午前三時を回っていました。読谷山からの召集兵は二〇名でしたが、間もなく各部隊に分散配属されて、私の班には読谷山からの召集兵は五、六人になりました。中隊長は簑毛中尉で、班長は高志保出身の比嘉上等兵でした。
 この部隊での防衛隊員の任務は、入隊した翌日から昼は高射砲陣地の退避壕掘りで、夜は南風原の小高い丘の麓の貯蔵所から高射砲弾運びが主でありました。部隊には一台のトラックがあり、それに高射砲弾を積み込んで運ぶのですが、艦砲弾が落ちる中、しかも降りしきる雨でぬかるみとなった道路を、時には全員でトラックを押したりするような運搬作業で、それこそ辛い大変なことでした。
 防衛隊員にも小銃一丁と弾三〇発、それに手榴弾二個が支給されていましたから、全くのボーヒータイ(棒兵隊)ではなかったのです。ところがその銃の手入れと厳しい点検には大層気をつかいましたので、厄介物を預かったようなものでした。
 米軍の艦砲射撃はますます激しくなり、一時識名園近くに移りましたが、六月十五日頃、那覇近くまで米軍が進攻して来ましたので、急遽、真壁村真栄平の自然壕に移動しました。そこには地方人(民間人)が二〇人程いましたが、中隊長が、戦況や部隊の作戦の都合等を話して納得してもらい、洞窟を明け渡してもらいました。また墓を砲弾庫として使うため骨壷を外に移す際にも中隊長簑毛中尉が丁重に拝んでから運び出しました。
 六月中旬、東風平村八重瀬岳を米軍が進攻占領して、迫撃砲陣地を構えたとの情報が入りました。私と他の防衛隊員一人は池田伍長の指揮によって「その迫撃砲陣地を破壊せよ」との命令を受けて、菊の御紋章がついた恩賜の煙草を一本下賜されました。命令では「陣地の入り口に爆雷を投げ込んで逃げて来い」ということでしたが、そう簡単にできるわけがありません。
 煙草は、恐らく天皇陛下の為に死ぬ前の餞(はなむけ)ということであったのでしょう。しかし間もなく命令は変更されて八重瀬岳攻撃は取りやめとなり、死なずに済みました。
 その直後、司令官(中佐)と副官、それに軍医は戦況報告か何かで摩文仁の軍司令部へ出掛け、後の指揮は簑毛中尉が取ることになりました。
 六月二十日、米軍はついに隣り集落の新垣にまで迫り、真栄平の私たちの陣地では朝四時に戦闘配置につきました。
 そしてついに簑毛中尉の指揮で米軍と交戦しましたが、圧倒的優勢な米軍の銃砲火に押しまくられ、多数の兵士たちが命を失いました。私は残った人たちとともにじりじりと洞窟に下がって行きましたが、しばらく様子を見てから一人ひとり間をおいて脱出しました。同字の※※(屋号)の古堅※※は洞窟の中までは一緒でしたが、その後再び会うことはありませんでした。
 簑毛中尉も戦死して部隊は壊滅状態になってしまいましたので、支給されていた武器は落ち延びた先で捨てました。

 投降

 摩文仁へ来て、兵隊たちの敵中突破・国頭行きの話を聞いて、同郷の阿波根※※や上間某とともに突破を試み、誤って敵陣近くまで入り込んでしまいました。照明弾に照らされて銃撃されたのですが、すかさず畑の畦に伏せ、しばらく様子を見てから海岸へ落ち延びました。阿波根と上間はあのとき撃たれて死んだのだと思います。
 波打ち際には多数の死体が浮かんでいましたが、そこと背後の断崖との間の岩陰には多くの人々がひしめいていました。
 敵前から逃げて来てホッと人心地つくと、急に空腹を覚えました。新品の靴下に入れて持ってきた米を炊いていると、痩せ細った子供たちが欲しそうにのぞき込んできました。余りにも不憫(ふびん)に思われましたので飯盒ごと子供たちの母親に上げ、自分は波打ち際に寄ってきた魚を食べて飢えをしのぎました。
 こうして島の果てまで追い詰められ、国頭突破もかなわず、進退窮まってとうとう米軍に投降しました。

 捕虜収容所・その他

 間もなく佐敷村屋比久の収容所に送られ、そこで軍人・軍属と一般住民(非戦闘員)とに分けられ、軍人・軍属は金武村の屋嘉収容所に送られるということになりました。
 尋問係の米軍日系二世兵士は「嘘をついて疑わしい者は佐敷村の新里へ送る」と言っていましたが、私も疑わしい者と思われたのか、新里に送られました。
 新里では国頭へ避難した住民たちを迎えるための家屋造りをしたり、与那原の米軍兵舎の庭掃除などをしてしばらく過ごし、玉城の収容所を経て、金武村漢那に収容されていた家族の下に帰ることが出来ました。
 やがて読谷山村への帰村許可とともに先発隊員として村に乗り込み、帰村村民を迎え入れるための住宅建築作業に当たりました。
 平成六年十月三十日、あの惨い戦場で尊い生命を落とした戦友たちに哀悼の誠を捧げるため、遺族とともに真栄平の自然洞窟を訪れ、石碑を建立しました。

聞き取り 平成十一年(一九九九)十月二十四日
 於 野波※※宅
参考 「沖縄戦五〇周年に向けての手記」
   NHK沖縄へ提出 野波※※記
   「戦災実態調査・都屋編」読谷村史編集室

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