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3 防衛隊・男子学徒隊
体験記

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 ○渡久山※※(比謝矼)の遺書
  (県立一中一条会 安里※※記)

 「昭和二十年三月二十日、米軍はついに具志頭村に艦砲射撃を開始、その砲音が首里にも轟くと学校の組織的活動は不可能に思われ郷里に避難していたところ、一中の二年生は無線通信隊に配属されたとのことで、当然参加すべきだと考え、家族も何のためらいもなく賛成し励ましてくれた。
 無線通信隊本部は繁多川の東の丘陵地の裾にあって首里の金城町と向き合っていた。簡単な入隊手続きを終えると日本陸軍の軍服一式と二等兵の階級章が与えられ、五中隊に配属された。
 五中隊を訪れると、二年二組と三組の学友が総勢二十人程いた。みんな十四、五歳の少年で、着けている軍服はだぶつき滑稽に見えたが表情は明るく、国のために頑張るんだという意気に燃えていた。
 私の所属班は外部派遣の白沢班で、同班は首里城南西の下側にある俗称「ジングンジューウスメーの墓」の自然洞窟を通信業務の拠点地として中央に通信機を据え、奥の岩盤に板を敷いて寝床を構えていた。既に大城※※、照屋※※、渡久山※※、伊波※※の諸君が入班し、勤務を開始していた。
 当班は球部隊司令部直轄の下に伊江島守備隊と交信をし、一日二回司令部に伝令を走らせ、受信書を提出するとともに送信書を受領することが主な業務であった。
 通信機はやや原始的なしろ物で、受信は電池により、発信はマグネットの手回し発電によって行った。勤務は二十四時間の二交替制。食料不足のためか非番の際は昼食を支給されなかった。吾々学徒二等兵の主な任務は発信時の発電機の手回し、司令部への伝令、飯上げ、食器洗い、上官の寝床の用意等であった。
 司令部への伝令は白昼に強行されたが、次から次へと飛んでくる敵機の機銃掃射を受けながら、三、四十米走っては樹や岩陰に身を隠し、石垣に身を寄せて横歩きし、また跳び出して走ったりしてハンタン山の司令部に辿り着くのであった。(中略)
 五月二十七日午後、敵の前線が戦車を先頭に首里に上りつつあるという情報を知らされた吾が中隊は夜間繁多川を脱出、与座岳で一応集結してから摩文仁に撤退するという命令が下された。
 撤退前に乾パンや米が配られ、また吾々学徒兵には戦死者の銃剣が配られた。負傷兵を担ぐ組も編成され、古参兵二人に渡久山君と私の四人が一組となって負傷兵の一人を担ぐよう指示された。夜の八時か九時頃、吾々は負傷兵を担架に担いで壕を出た。外は大豪雨であった。
(中略)
 時折、近くに砲弾が炸裂した。初めは申し合わせたように腰をかがめたが、疲れると砲撃を受ける度に立ち止まった。そのうち、私の足が鈍ってきた。負傷兵を放り投げて横に転がりたくなった。古参兵にはどんなに叩かれても平気だと思った。
 私が参り掛けている事に渡久山君は気付いたのであろう。「安里!頑張れ、もう直ぐだよ」何度も何度も渡久山君に励まされると倒れる訳にもいかず、私は歯を食い縛って頑張り抜いた。(中略)捕虜収容所で吾々三人が最初に出会った五中隊の学友は二組の高嶺※※君であった。彼は三組の渡久山※※君と一緒であったが、渡久山君は自決してしまったと、その経過を次のように説明して呉れた。
 『渡久山君と行動を共にしていると一人の上等兵が仲間入りした。彼は吾々二人に何度も軍人の本分について精神訓話を聞かせた。絶対に捕虜になるなと注意し、米軍が近づいたら一緒に自決しようと吾々を説得した。彼は吾々にも手りゅう弾を配って、その使い方を教えた。翌朝、物音で目をさまし、気がつくと米軍が吾々をにらんで銃を向けていた。僕は自決しようと手りゅう弾の信管を抜きかけたが、隣の渡久山君が真先に手りゅう弾を爆発させてしまった。僕はその爆風を受けてひっくり返った。暫く意識を失い、気がつくと、僕は米兵に捕まっていた。隣の渡久山君は既に息絶えていた』」。
 (県立第一中学校 養秀同窓会編『忘るるまぞなきわが学徒』の中の「学友たち戦友たち」から原文のまま転載)。
 県立第一中学校では、鉄血勤皇隊編成に際して、一年生は参加させずに親許へ帰した。その時、渡久山※※は、帰郷を前にした一年生の佐久川※※(比謝矼)に次のような遺書を託した。
  遺書
母上様
 永らく御無沙汰致し誠に済みません。お母さんもお祖母さんも、姉さんもお元気の事と推察致します。私も大元気で本分に邁進して居ります。
 首里市は空襲も艦砲射撃もまだ受けません。こちらは大丈夫です。読谷方面はどうですか。敵の艦砲射撃も空襲もだんだん激しくなる筈ですが、お母さん達はなるべく国頭へ疎開した方がよいと思ひます。お祖母さんのことは呉々もよろしくお願ひ致します。
 私も愈々球部隊の通信兵としてお役にたちますことの出来る事を身の光栄と存じ、深く感謝致してをります。
 若しもの事があったとしても、決して見苦しい死に方はしないつもりです。日本男児として男らしく死にます。
 もう時間がありませんので、くれぐれも御身をお大事に、私の事は少しも気に掛けないで下さい。
ではさやうなら。
 三月二十五日 夜九時四〇分
    二年三組 ※※
 お母様

 戦後、佐久川は石川の避難先に渡久山の遺族を訪ね、遺書を手渡した。

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