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4 戦争と軍人・軍属概説
渡久山朝章

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 はじめに

 〈戦争の世紀〉

 二十世紀は戦争の世紀とも言われる。世界各地において武力紛争、戦争が頻発した。それらの多くは民族、イデオロギー、宗教等の相違による紛争から、国家間の利権争いによって起こったものも多かったが、時には国家連合による戦争ともなって、戦火は広域に広がっていった。
 特にアジアにおいては、十九世紀後半に始まった欧米列強の力による植民地支配を受け、その反発から紛争が続いていたが、やがて二十世紀に入ると、我が国も列強に伍して大陸に触手を伸ばし始めた。そして外国勢力と現地政府あるいは反植民地勢力が入り乱れ、直接の対決、あるいは一方の勢力を支援という形で、それぞれが利権を求めて争ったのである。
 戦争の進展と相俟って科学技術は格段の進歩を遂げ、人力・畜力の輸送から機械化へと進み、大型で多量の兵器が投入され多数の軍事車両(装甲車・戦車等)は戦場を駆け巡り、彼我の戦闘員の莫大な殺傷を生じさせたのみならず、戦火は無辜(むこ)の住民の生命財産を奪い、山野をも荒廃させた。
 戦闘形態から見ると、小火器から重火器へと移っていった兵器は、第二次世界大戦に至っては巨艦・巨砲からロケット弾や航空機による戦闘ともなり、前線や銃後という言葉を死語化させていった。やがてミサイル時代を迎え、核兵器の出現をも見る様になり、皮肉にもその核兵器(原子爆弾)が我が国の敗戦、戦争終結の最大因ともなったのである。

 〈我が国の戦争〉

 我が国について振り返って見ると、まさに戦争に明け暮れた世紀だったと言っても過言ではなかろう。近代日本は、日清戦争(明治二十七、八年戦役)からわずか一〇年後には日露戦争(明治三十七、八年戦役)へと突入し、一九一四年(大正三)、第一次世界大戦勃発とともに連合国側について参戦し、そして一九一八年(大正七)、シベリア出兵と続いていったのである。
 一九三一年(昭和六)にはついに「満洲事変」をひき起こし、その五年後の一九三七年(昭和十二)七月七日には「支那事変」(日中戦争)となって行ったのである。
 それらはすべて外国の領域で行われたため、特に「満洲事変」以降の紛争(十五年戦争)については、諸外国から何度となく侵略行為とされて非難を浴び、干渉、撤兵要求等が幾度となく行われてきたが、軍部勢力に牛耳られた我が国は全く応ぜず、国際連盟を脱退して国際世論を敵に回してまで大陸で暴挙を振るって来たのである。
 とどのつまりはそれらのつけとして、国土における住民を巻き込んだ最大の地上戦、沖縄戦となり、沖縄県と県民が比類のない惨禍をこうむり、彼我の戦闘員も含め二〇余万という人命が失われたのである。
 思えば、琉球処分で日本に組み込まれ、廃藩置県は遅れ、徴兵制も遅れて実施された本県において地上戦が行われた皮肉は、どのように考えたら良いであろうか。

 〈戦争と村出身兵・軍属等〉

 さて、本稿では今世紀における戦争・「事変」の広がりと推移に従って、読谷山村関係軍人・軍属等のことを述べようとするものだが、日中戦争以前のことについては新聞および『官報』以外に記録が少ない。したがってここでは『官報』および新聞記事を中心に見ていきたい。

 注記

 『琉新』『沖毎』『沖日』『大朝』『大毎』『朝日』『沖新』『毎日』の略記紙名は、それぞれ『琉球新報』『沖縄毎日新聞』『沖縄日報』『大阪朝日新聞』などのことで、『読谷村史』第二巻資料編1「戦前新聞集成」に依った。また、軍隊内の階級の略記は「陸上」は陸軍上等兵、「陸兵」は陸軍兵長、「陸伍」は陸軍伍長を示し、「騎上」は騎兵上等兵、「砲上」は砲兵上等兵、「工伍」は工兵伍長、「歩一」は歩兵一等兵、「輜上」は輜重上等兵などとなる。
 海軍では「一曹」は一等兵曹、「二曹」は二等兵曹である。陸海軍双方とも「瑞八」は叙勲の略称で、勲八等瑞宝章のことである。
 『官報』は、読谷村関係資料「官報にみる読谷山」によった。

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