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4 戦争と軍人・軍属概説

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 日清戦争と徴兵制施行

 我が国の近代対外戦争は、前述した通り、今世紀直前の一八九四年(明治二十七)の日清戦争から始まった。
 当時、沖縄では黄色軍艦(清国の軍艦)の来援を待望する「頑固派」も少なくなかったが、首里山川出身の屋部※※は兵隊を志願し、日清戦争に従軍し伍長となって、沖縄ではじめての陸軍下士官となった(後に彼は軍曹、少尉へと昇進したが普通「屋部軍曹」と呼ばれた)。
 戦争勃発とともに師範学校等では義勇隊を組織して清国軍の来襲に備えていたというが、まだまだ「開明派」と「頑固派」はそれぞれの思惑を胸に秘めていたと言われる。
 日清戦争が我が国の勝利に終わった四年後の一八九八年(明治三十一)一月には沖縄にも徴兵制が施行されて、その体制に組み込まれていくようになり、早くも同年四月二十九日には中頭郡の「徴兵検査日及抽籖日割」が新聞に掲載され、読谷山間切は六月九日と報じられている。そして六月十七日の「徴兵雑爼」には、「中頭郡中最も進歩したる間切は読谷山間切なり」と書いている(『琉新』)。
 そして同年十一月十五日、「入営御礼 (中略) 読谷山間切現役兵総代明治三十一年十一月十三日 知花※※、比嘉※※、屋嘉部※※」とあり、一九〇一年(明治三十四)四月一日の「召集事務検閲と簡閲点呼割」では、読谷山は間切役場にて四月十一日に実施することが報じられている(『琉新』)。ちなみにこの簡閲点呼は一九四四年(昭和十九)八月まで実施されている。
 一九〇二年(明治三十五)七月七日付の『琉新』は「中頭郡徴兵検査の成績」として、「読谷山甲十七乙五十六丙三十六丁十二戊〇」と報じている。そして同年九月十一日の『前掲紙』は「中頭郡の入営人員」数を載せ「読谷山間切九」としている。そのことは甲種合格者一七名の内、九名が籖で当たったと言うことであろう。そして「中頭郡予備兵の職業別」によると、読谷山の予備役は「農四商二官吏一計七」(同年十一月十九日『琉新』)で、これらは甲種合格者の中から籖にもれた人たちである。
 同年十二月二十九日には二十四聨隊への「新兵入営」として、「読谷山間切渡慶次村 十一中隊 国吉※※」とあり、翌一九〇三年(明治三十六)一月二十九日の新聞は「中頭郡の徴兵適齢者」として「読谷山百二十名」と報じている。そして五月十三日の「中頭郡の徴兵検査」では「読谷山一円」の検査場は、北谷尋常高等小学校で五月二十九日から同三十日となっている(いずれも『前掲紙』)。

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