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4 戦争と軍人・軍属概説

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 日露戦争と本村(出身兵)

 二十世紀初頭の一九〇三年(明治三十六)、朝鮮・満州の支配をめぐって日本とロシアが対立し、その後数次にわたってロシアと交渉したが妥協点に達せず、ついに一九〇四年(明治三十七)二月八日、日本側の仁川沖、旅順港奇襲作戦が始まり、十日に宣戦布告した。
 日露戦争勃発とともに、読谷山からも出征するようになり、一九〇五年(明治三十八)一月七日には「戦死者の遺髪到着」として「沙河の大会戦に於て名誉の戦死を為したる(中略)読谷山間切出身の玉城※※」の遺骨到着を報じている。その悲報に接したわずか六日後の十三日、「読谷山間切の祝捷会」として「去六日旅順陥落祝捷会を役場前の馬場に開催せり」とある(『前掲紙』)。
 同年四月十八日付けの『官報』には「沖縄県中頭郡読谷山間切楚辺村百九十二番戸 比嘉※※故陸軍歩兵上等兵比嘉※※明治三十七八年戦役ノ功ニ依リ特ニ金五百弐拾円ヲ賜フ」とある。
 こうして銃後では戦勝に酔っている時でも、戦死者は続く。同年四月二十三日の『琉新』には「奉天附近戦死本県出身士卒」とあり「中頭郡読谷山間切波平村 上等兵 比嘉※※」と出ている。そして六月七日、「戦死者遺族への下賜金」では「中頭郡読谷山間切渡慶次村九十八番地故陸軍歩兵上等兵玉城※※氏」とある(『琉新』)。
 さらに同月十三日報道の「戦死者葬儀」では、「中頭郡読谷山間切波平村の出身故陸軍歩兵予備上等兵比嘉※※氏の葬儀は来る十六日に(中略)執行の筈なり」とされている(『琉新』)。
 また六月二十三日付け『官報』の「叙任及辞令」には「沖縄県中頭郡読谷山間切字牧原二十七番地 大城※※故陸軍歩兵上等兵大城※※明治三十七八年戦役ノ功ニ依リ特ニ金五百弐拾円ヲ賜フ」とあり、同じく『官報』(第六六一〇号 明治三十八年七月十三日)には「沖縄県中頭郡読谷山間切波平村二十一番地 比嘉※※故陸軍歩兵上等兵比嘉※※明治三十七八年戦役ノ功ニ依リ特ニ金五百弐拾円ヲ賜フ」と載っている。
 そして同年七月十七日『琉新』には「戦死軍人の叙勲」として「昨年首山壁及遼陽の激戦に於て名誉の戦死を遂げたる忠勇なる軍人諸氏に対し今度叙勲あり」として、「中頭郡読谷山間切渡慶次歩兵伍長 喜屋武※※」へ「叙功七級勲八等授金鵄勲章白色桐葉章」が授与されたことを報じている。
 『渡慶次の歩み』には日露戦争の戦死者として「陸上国吉※※・同玉城※※・陸兵長喜屋武※※」の名が見えるが、喜屋武の階級兵長というのは伍長の誤りだろう。
 喜屋武のことについては『官報』第六六七〇号の「戦地其他死亡者」では、「三十七年八月三十日清国盛京省マエトウンニ於テ戦死」とし、「沖縄県中頭郡読谷山間切渡慶次村四十四番戸士族 陸軍歩兵伍長 喜屋武※※」となっている。
 『官報』の「戦地其他死亡者」はさらに続く。(第六六七九号 明治38・10・2)には「三十七年九月三十日清国盛京省鞍山店兵站病院ニ於テ銃創ニ因リ死亡 沖縄県中頭郡読谷山間切渡慶次村百五十三番戸士族 陸軍歩兵上等兵 国吉※※」とあり、『渡慶次の歩み』にある国吉※※の名は国吉※※の誤りではないかと思われる。また(第六六九一号 明治38・10・16)によると、「三十七年十月十九日清国盛京省本渓湖定立病院ニ於テ銃創ニ因リ死亡 沖縄県中頭郡読谷山間切二十七番地平民 陸軍歩兵一等卒 大城※※」とあり、(第六七〇二号 明治38・10・30)では「三十七年十月十五日清国盛京省拉木屯ニ於テ戦死 沖縄県中頭郡読谷山間切渡慶次村九十八番地平民 陸軍歩兵上等兵 玉城※※」と書かれている。
 一九〇六年(明治三十九)三月十七日の『琉新』は「本県軍人の特志」として「歩兵第四十五連隊第六中隊本県出身の軍人に於ては本紙の記事に依り今回本県に日露戦捷記念碑設立の挙あるを知り(中略)給料の内より幾部分宛を出資し(中略)寄附」とあり「その姓名は(中略)中頭郡読谷山間切波平村 大城※※」の名を挙げている。このことは先にも見た「戦捷祝賀会」や「軍人の叙勲」、「戦死者遺族への下賜金」等々とも相俟って、国民が「富国強兵」策に組み入れられていく道程の一端を示すものであり、そのような報道が多いことはまた、新聞もその面へ国民を駆り立てる役割を果たしているのである。
 同年四月六日の「帰郷の凱旋軍人」という『琉新』記事で、読谷山は「現役二三 予後備役一五 廃兵六」となっていて、四四名もの多数の軍人が凱旋して居り、それからするとさらに多人数の本間切出身兵士が従軍していたかが推測できよう。この記事ではまた補充兵として「中城二七 美里四」という数字もあり、大変な召集の員数であったことをうかがわせるものがある。
 『官報』(第六八〇九号 明治39・3・14)の「戦地其他死亡者」には「三十八年三月二日清国盛京省干家窪子勝山ニ於テ戦死(中略)沖縄県中頭郡読谷山間切波平村二十八番地内第一号平民 陸軍歩兵上等兵 比嘉※※」という記があり、(第六八四四号 明治39・4・26)には「三十八年三月二十一日清国盛京省下石橋子定立病院ニ於テ銃創ニ因リ死亡 沖縄県中頭郡読谷山間切波平村二十一番地平民 陸軍歩兵上等兵 比嘉※※」とある。
 同年五月四日の『琉新』「凱旋兵と木杯」では「熊本(ママ)二十三連隊第三大隊に所属し日露戦役に於て戦死又は凱旋帰郷せる左記(中略)記念盃を送付」として「中頭郡読谷山間切波平村故上等兵上原※※、同村上等兵上地※※」とある。
 六月三日、「記念写真の配布」の見出しで「第六師団鹿児島第四十五連隊第四中隊に於ては三十七八年日露戦役に従事して凱旋せる同隊所属の軍人諸氏に記念として金鵄勲章形に製せる磁石一個と凱旋の際中隊一同を撮影せる写真一枚宛を」郵送したとして「中頭郡瀬名波村山内※※ 中頭郡読谷山間切高志保村大城※※」の名が見える(『前掲紙』)。
 七月四日には、「勲章下賜」として「勲八等白色桐葉章」が「読谷山 歩兵上等兵 比嘉※※ 読谷山 同 上原※※」との記事が見える。また同月十五日には「読谷山間切出身元陸軍歩兵大城※※に対し此程功七級金鵄勲章並に年金百円及勲八等白色桐葉章を下賜」とあり、続いて九月六日の「十四連隊の行賞」では勲章の現品配布者の中に「叙勲旭八 賜金額二〇〇」として「読谷山間切伊良皆村一二二 一等卒 伊波※※、読谷山間切楚辺村二三四 一等卒上地※※、同座喜味村一三二 一等卒 當間※※」とあるが、この人たちは戦死者と思われる。
 十月二十三日には「廃兵へ御下賜の金品」という見出しで「フランネルシャツ一着に添へ御菓子料として御下賜」として「読谷山間切楚辺村 一等卒 名城※※、同間切宇座村 上等兵 山内※※」の名が見えるが、御菓子料の金額は書かれていない。ちなみに廃兵とは戦争で負傷し、障害者となった兵士のことである。
 十一月二十三日には「恩給証書」として「読谷山間切楚辺村上地※※氏は免除恩給年額四十五円、増加恩給年額金廿円給与」とあり、十二月七日の「恩給金下賜」では「読谷山間切出身元陸軍歩兵一等卒新垣※※は免除恩給金五十円増加恩給二十三円の下賜」となっている。
 一九〇七年(明治四十)七月十三日付の『琉新』は「点呼人員」を記しているが「読谷山 帰休一 予備五七 後備一五 補充兵五〇」としている。
 一九〇九年(明治四十二)八月三十一日付『沖毎』は「明治四十二年度沖縄警備隊区徴兵検査成績に就て(続)」という見出しで「野島中佐の談話」を載せているが、「本県下に於ける徴兵忌避の念は未だ衰微の傾向を見ずと云ふて宜しい」として、その中で「読谷山村壮丁にして眼病作為の嫌疑者二名あり」としている。
 同年十月二十七日、「丁数杖贈与」の見出し記事では「第六師団より丁字杖を贈与されたる廃兵」として「読谷山字宇座山内※※」の名を記している。見出しの「丁数杖」というのは「丁字杖」の誤植だと思われる。「丁字杖」とはT字形の杖のことである。
 一九一〇年(明治四十三)八月三日付『琉新』記事では「教育召集 中頭郡古堅尋常小学校に於ては去月廿七日午前一時より第一回卒業生教育召集を開催せり」とある。その召集は村内各学校でも実施されたと思われる。こうした上意下達の召集訓練にもかかわらず、日露戦争時の戦死者のこともあってか、当時の一般の人々は、兵隊に取られると大和に連れて行かれて戦争に出されると、大変危惧し、軍隊について「鉄砲カタミティ、フヤ(靴)クマチ、親ヌ不孝ヤ ナランガヤー(鉄砲を担いで靴を履かせ、親不孝にはならないのかな)」との戯れ言も交わされたという。
 一九一一年(明治四十四)十月十日の『琉新』には「四十四年度徴兵検査成績に就て(続)」との記事があり、その中の「沖縄県徴兵忌避事件自三十一年至四十三年受刑者村別表」には「読谷山村 二」とある。また、同年十一月九日の「中頭郡移民数」の記事中に各村ごとの移民数を載せているが、彼らは「布哇(ハワイ)よりの呼寄せ移民なり」ともあり、ハワイ移民は安全な徴兵忌避法だったとも言われている。

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