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4 戦争と軍人・軍属概説

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 第一次世界大戦とシベリア出兵

 下って一九一二年(大正元)九月十六日には、「読谷山軍人の遥拝式」で「去十三日同村在郷軍人分会は午后六時を以て百余名村役場内遥拝式場に参集」(『琉新』)とあり、事あるごとに宮城遥拝し、天皇と国家への忠誠の誓いを新たにしたことと思われる。
 十九世紀後半に始まった列強の植民地分割は一九〇〇年頃ほぼ終了し、新たに列強間に帝国主義戦争勃発の危機が生じた。特に独・伊・オーストリアの三国同盟と英・仏・露三国通商の二大陣営の対立が国際関係の軸となり、やがてバルカン地域の民族解放運動を巡って相互の対立が激化し、そこが大戦の火種となった。一九一四年(大正三)、オーストリア皇太子夫妻がサラエボで暗殺されたのをきっかけに、オーストリアがセルビアに宣戦布告する。それにロシアが応じ、ドイツは八月一日ロシアに、三日フランスに宣戦。四日英国がドイツに宣戦と、八月末までにイタリアを除く全同盟国・通商国が交戦状態に入った。
 八月二十三日、日本は日英同盟に従ってドイツに宣戦布告し参戦すると、ドイツ租借地膠州(コウシュウ)湾を襲い、青島(チンタオ)を占領し、済南に進出して山東鉄道と鉱山を接収した。
 青島陥落に際して同年十一月十一日の『沖毎』は「比謝矼通信」で次のように報じている。
 「読谷山村古堅校学区内に於ては青島陥落の報に接するや区内一般頓(とみ)に活気を呈し古堅小学校及比謝矼等に緑門を作り生徒は正午より国旗行列花行列を挙行して学区内を一周し点灯時に至るや各字旗頭を先頭に提灯仮装行列を古堅校より繰り出し古堅、渡具知、楚辺、大木原、比謝、大湾、牧原各字に至り万歳を三唱し午后十時退散せり」。
 一方、海軍南遣支隊はドイツ領南洋群島を占領し、トラック島に司令部を置いて軍政を敷いた。同群島は後に日本の委任統治地となり、内南洋とも呼ばれた。
 日本は戦時景気とも相俟って、戦後の疲弊した敗戦国や戦時出費がかさみ経済不振に陥った国々を尻目に、米・英に次ぐ世界三大軍事強国にのし上がった。
 一九一五年(大正四年)十月十九日付けの『琉新』は「今度入営すべき現役兵の那覇集合地に於ける身体検査」で「読谷山は第三日(廿日)」としている。この身体検査は入営前の疾病を未然に発見し早期治療を行うという富国強兵策の一環で、一九一六年(大正五)の「入営兵検査成績」では、読谷山村の部では花柳病はいないがその他の疾病二となっている(十一月二十九日『琉新』)。
 一九一七年(大正六)の「中頭の徴兵適齢者」によると中頭郡全体では一六五二人で、うち読谷山は一五六人となっている(一月二十五日『琉新』)。同年二月二十三日『琉新』の「無線電話」欄によると「本県壮丁の成績は全国でびりから数へて一番と来て居るさうだが、△県内でも一番悪い所は中頭郡の読谷山、具志川それから宜野湾、浦添である」となっている。
 同年五月二十五日の『琉新』は「中頭壮丁検査」として「無学者調べ」を掲載しているが、「検査人員一千五百八十四人中、無学者二百八十人ありたる由」として、「読谷山一四九人中、無学者一九人、一一(ママ)・七五%(大正五年度)一五七人中、無学者二〇人、一二・七四%(大正六年度)」としている。
 第一次世界大戦最中の一九一七年(大正六)十一月、ロシアで社会主義革命が起こり、一九一八年(大正七)三月、ドイツとの間で単独講和条約を結んだ。そして同年八月、連合国はアメリカの提唱でチェコスロバキア軍捕虜救済を名目にシベリア出兵を決定した。しかしそれは全く名目上のことで、実際には日米英仏によるロシア革命への干渉戦争であった。
 その時の出兵総数は二万五千人で、そのうち日本軍は一万二千人の約束であったが、日本は約束を無視して七万二千人を派遣し、東部シベリアを制圧した。しかしパルチザンの激しい抵抗と連合国人民の干渉反対運動を受け、干渉軍の戦意は低下し、干渉は失敗に終わった。
 この出兵には郷土出身兵士も派遣軍に加えられており、宇座誌『残波の里』の「戦争による犠牲者」欄で「石嶺※※ 第一次大戦 シベリア」とあるのはシベリア出兵時の戦死であろう。
 『官報』(第二〇五七号 大正8・6・13)の「戦地其他死亡者」によると、「本年二月二十五日ユフタ附近ニ於テ戦死(中略)沖縄県中頭郡読谷山村字瀬名波千五百九十五番地 歩兵第七十二聯隊陸軍歩兵上等兵 屋良※※」とあるが、戦死したユフタという地名が不明で、いかなる戦闘であったか、知る手掛かりは得られていない。

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