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4 戦争と軍人・軍属概説

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 太平洋戦争(第二次世界大戦)

 一九四〇年(昭和十五)九月二十二日、日・仏印軍事協定に調印して、二十三日、日本軍は北部仏印(ベトナム)へ進駐し、東南アジア進出の足掛かりとした。
 一九四一年(昭和十六)三月、野村吉三郎駐米大使とハル国務長官が日米会談を開始した。七月二十五日、米、在米日本資産を凍結。二十六日英国・比、そして二十八日蘭印も日本資産を凍結(ABCD対日包囲陣)するが、日本軍は同月末、南部仏印にも進駐する。そして政府は在日米英資産を凍結した。
 十一月十七日、日米公式会談開始。二十六日、ハル国務長官が中国からの撤兵要求などのハル・ノートを提出。日本は二十七日、連絡会議で最終通牒と結論する。
 十二月一日、御前会議で対米英蘭との開戦を決定。八日、対米英宣戦布告し、太平洋戦争に突入。日本軍マレー半島上陸開始。ハワイ真珠湾攻撃。十二日、閣議で「大東亜戦争」との名称を決定する。
 一九四二年一月二日、フィリピン・マニラを占領。二月十五日、シンガポール占領。三月八日、ビルマ(ミャンマー)の首都ラングーン(ヤンゴン)を占領。三月九日、ジャワの蘭印軍が無条件降伏し、五月七日、フィリピンのコレヒドール島を占領し、これで日本軍は東南アジアのほぼ全域を制圧する。
 「近づく晴の社頭対面/逢へるぞお父様に/沖縄の遺児部隊決る」「男児 死没者 海軍 比嘉 ※※ 読谷山児童 ※※ 女児 死没者 上等 知花※※ 読谷山 児童 ※※」(『沖新』一九四二年(昭和十七)二月二十日)
 一九四二年(昭和十七)六月五〜七日、ミッドウェー沖海戦で日本軍は空母四・重巡一・艦載機三二二・兵員三五〇〇を失い、米軍は空母・駆逐艦各一・航空機一五〇・兵員三〇七の損害。この海戦が戦局の転機となる。
 「学校長の海軍講習」「八月廿一日から廿五日まで三泊四日づつ二回にわけ佐世保軍港で国民学校、青年学校長海軍々事講習を実施するが本県から左記十二校長が受講する。(中略)天願※※(古堅)」(『大毎』七月二十八日)
八月七日、米軍がガダルカナル島へ上陸。
 「軍人援護強化常会/中頭各村繰上開催」「中頭地方事務所では主旨の徹底を期するため十月上旬の各村の定例常会を繰上げ左記により臨時常会を開催(中略)読谷山村 二十七日 安里※※」(『沖新』九月二十一日)。
 「名誉の郷土勇士」「第三回大東亜戦争死没者並に第四十四回支那事変死没者論功行賞(中略)功七旭七 伍長 石嶺※※」(『朝日』一九四三年(昭和十八)一月十七日)。
 一九四三年(昭和十八)二月一日、日本軍ガダルカナル島を撤退、兵員一二、五〇〇・戦死者及び餓死者二四、〇〇〇。米軍の戦死一、六〇〇。
 「輝やく郷土の忠霊/四月の靖国神社臨時大祭に合祀」「海軍 上等兵 松田※※ 読谷山 上等兵 比嘉※※ 読谷山 一等兵 喜友名※※ 読谷山」(『朝日』三月二十四日)。
 「上京遺児の壮行会/知事さんから激励」「五年生遺児 大湾※※(古堅) 比嘉※※(古堅)」(『毎日』三月二十四日)。
 「忠霊論功に輝く」「今回の論功行賞で名誉の恩賞(中略) 支那事変・戦病死 賜金 當山※※ 読谷山」(『朝日』四月九日)。
 四月十八日、連合艦隊司令長官山本五十六ソロモン群島上空で戦死。
 「勲章胸に/白衣天使帰還」の記事を要約すると、真玉橋※※と具志※※の帰還にともない、両名に代つて渡具知六九六知念※※(二十九)と座喜味平良※※(二十四)が晴れのお召しを受けて出発、赤十字看護婦として御奉公することになったことを報じている(『朝日』五月十四日)。
 「軍事援護研究町村指定」「尽忠に輝く勇士の活動に応へて鉄壁の銃後陣をます強化しようと沖縄県当局では軍人援護事業運営研究指定町村を設置 △中頭郡読谷山村」(『朝日』六月二日)。
 五月二十九日、アッツ島の日本軍守備隊二、六三八人玉砕、二七人生還。十一月二十三日、マキン島の日本軍二八四人玉砕。二十五日、タラワ島の日本軍四、五〇〇人全員戦死。
 「誉れの県出身勇士」「功七旭七 伍長 松田※※読谷山 同 兵長 比嘉※※ 読谷山 與那覇※※ 読谷山 池原※※ 読谷山 功七旭八 兵長 新垣※※ 読谷山 瑞八 上兵 當山※※ 読谷山」(『朝日』七月二十二日)。
 「神鎮まる郷土の英霊」「陸軍 伍長 知花※※ 読谷山 兵長 與座※※ 読谷山 同 松田※※ 読谷山」(『朝日』九月二十六日)。
 九月二十一日、兵役法施行規則改正公布施行され、それによって第二国民兵も召集されるようになった。根こそぎ召集である。
 九月二十二日、理工科系以外の学生の徴兵猶予撤廃。
「しつかりやらう/検査場で誓ふ兄弟雛鷲」「[兄が征くならおれも] と揃つて海軍志願兵に合格した兄弟(中略)読谷山村字座喜味比嘉※※(二〇)と同※※君(一四)」(『朝日』十一月十六日)。
 十一月一日、兵役法改正公布(兵役を四十五歳まで延長)
 十二月一日、第一回出陣学徒兵入隊
 十二月二十一日「永へに暝せよ/東部軍合同葬の郷土勇士」「軍属 照屋※※ 中頭読谷山」(『朝日』十二月二十一日)。
 十二月二十四日、徴兵適齢一年引き下げを発表。
 十二月二十七日、米軍、ニューブリテン島にある南方の日本軍最大の拠点ラバウルを猛爆。
 一九四四年(昭和十九)二月六日、マーシャル群島のクェゼリン・ルオット両島の日本軍約六、八〇〇人全滅。三月八日、日本軍、ビルマ(ミャンマー)インパール作戦開始。三月三十〜三十一日、米機動部隊パラオを空襲、日本側は艦船四〇・航空機二〇三機損失・戦死者二四六人。三十一日にフィリピンへ空路退避の連合艦隊司令長官古賀峯一ら幕僚が行方不明となる。四月五日に殉職と発表。
 七月七日、サイパン島玉砕。日本軍戦没者四一、二四四人、在留邦人約一〇、〇〇〇人のほとんどが島の北端で自決する。米軍の戦死者三、四四一人、米軍は占領したこの島の基地から日本本土空襲を開始する。
 十月十日、米機動部隊からの艦載機沖縄を空襲。読谷山では北飛行場を中心に集中攻撃を受ける。八重山徴用帰りの船が久米島沖で撃沈され、村民六五人が死亡。十二日、台湾沖航空戦で日本は多くの航空機を失う。
 十月二十日、米軍レイテ島に上陸。二十四日、比島沖海戦で日本軍は戦艦「武蔵」をはじめ戦艦三・空母一・改装空母三・重巡六・軽巡四・駆逐艦一二沈没、巡洋艦四大破となり、連合艦隊は壊滅状態となる。
 十月二十五日、レイテ沖海戦に海軍神風特別攻撃隊が出撃。特攻攻撃開始。
 「本県関係/英魂永久に神鎮る靖国神社/合祀の百七柱」「読谷山▽陸兵 吉山※※ ▽陸上 知花※※ ▽陸上 當山※※ ▽陸兵 池原※※ ▽陸伍 石嶺※※」(『沖新』十一月十八日)。
 「本県関係廿二名/抜群、二百機を撃墜/殊勲甲の栄誉下地一曹」「一般殊勲者 ▽功旭八二曹山内※※ 沖縄県中頭郡読谷山村 その他 ▽旭八比嘉※※ 沖縄県中頭郡読谷山村」(『沖新』一九四五年(昭和二十)二月二十四日)。
 一九四五年(昭和二十)三月十七日、硫黄島の日本軍玉砕、生存者は二一二人。米軍の戦死・行方不明者は二四、八五七人。
 「敵沖縄攻撃愈熾烈/沖縄本島に上陸」「大本営発表(昭和二十年四月一日十五時)一、沖縄本島周辺の敵は昨三月三十一日朝其の一部を以て神山島並に前島に本四月一日朝来其の主力を以て本島南部地区に上陸を開始せり」(『朝日』四月二日)上陸軍兵力は一八二、〇〇〇人。
 四月七日、沖縄水上特攻へ出撃の戦艦「大和」米機の攻撃で沈没。
 「空挺隊沖縄に強行着陸/特別攻撃隊義烈隊/北、中飛行場爆砕/敵大混乱、戦果を拡大」「大本営発表(昭和二十年五月二十五日十六時三十分)一、陸軍大尉奥山道郎の指揮する我特別攻撃隊義烈空挺部隊は五月二十四日夜沖縄本島北及中飛行場の敵中に強行着陸し直ちに在地敵機、軍需品集積所、飛行場施設等を相次いで爆砕、敵を混乱に陥らしめ大なる戦果を収めつゝあり」(『朝日』五月二十六日)。
 六月二十三日、日本第三十二軍軍司令官牛島中将は沖縄最後の拠点となった本島南端で自刃、組織的反攻終焉。日本軍の戦死者一〇九、六二九人、民間人の死者約一〇〇、〇〇〇人。米軍戦死者は一一、五〇〇人。

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