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4 戦争と軍人・軍属概説
体験記

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 ○コタバル敵前上陸
   池原※※ 大正十年生

 太平洋戦争の火ぶたは、真珠湾で切って落とされたと、大方の人は思っている。ところが英領マレー半島に敵前上陸した侘美支隊の第二揚陸団長は、シンゴラ沖より軍機電報をもって参謀総長あてに「八日一時三〇分コタバル東岸ニ上陸成功ス」と報じたと言われている(侘美浩著『コタバル敵前上陸』)。
 そうなると、真珠湾攻撃よりも先立つこと数時間ということになる。防衛庁戦史室の方は「色々な資料により慎重に検討した結果、一応「〇二一五(午前二時一五分)」ということにして公刊戦史の方にまとめたという(前掲書)。これを取って見ても、コタバル上陸は真珠湾よりも数時間早いということになる。
 ちなみに、開戦の第一報を見てみると、次のようになっている。「(大本営陸海軍部発表一二月八日午前一〇時)帝国陸海軍は本八日未明西太平洋上において米英と戦闘状態に入れり」
 西太平洋とは、どこをさしているのだろうか。ハワイ真珠湾が西太平洋にあるはずは無い。ハワイは地図上では誰の目にも明らかな通り、東太平洋上なのである。そうなると、この大本営発表は、マレー半島コタバル上陸作戦のことをさしていると思われる。

 コタバル沖合で

 巨大な船体がズシーンと揺さぶられると、船室内の兵も装具も玩具を放り散らかされたように、それぞれの場所から横へ投げ出された。混乱した中で起き上がろうとすると、続けざまに二回、三回とまた大振動が起こる。
 池原一等兵は這うようにして上甲板への通路を進み、便所入り口の把手につかまった時、ガガーンという大音響とともに床にたたきつけられた。「うーむ」とうなっている目の前は真っ暗闇だった。電灯が消えてしまったのである。
 「全員上甲板へ上がれ!」と怒鳴る声に、今しがた叩きつけられた腰の痛みも忘れ、暗い中で立ち上がると、兵士たちの奔流に巻き込まれ、運ばれて階段を上がっていた。
 甲板上は兵たちでごった返し、それをかき分けるように乗組員と船舶工兵たちはわめきながら船尾へと急いでいる。船尾は黒煙に包まれ、それが風の煽りで左右に這う度に、その中から紅蓮(ぐれん)の炎が舌をなめ回す。
 甲板上を見回す間もなく、魔鳥のような黒い機影は一機二機三機と低空で飛来し、本船目指して突っ込むかと見る間に、旋回して急上昇していく。と同時に舷側(げんそく)に近いところで巨大な水柱が立ち上り、船が激しいローリングを起こした。甲板に伏せている背に海水のスコールが降る。続いてきた飛行機の機銃掃射は、身辺をかすめて船橋の鉄板に当たり、火花を発して不気味な響きを立てて弾き飛ぶ。
 船からは広角砲や高射機関砲で応戦している。敵機の接近とともに、曳光弾を交えて砲身が焼けよとばかりに撃ちまくる。すさまじい発射音や爆発音は、飛行機の爆音や急上昇のうなりと交じり、鼓膜を叩き、脳天をかき回す。
 煙と海水の飛沫は容赦なく甲板上を襲い、風の煽りで舞い立った船尾の炎は、そのたびに甲板上の修羅場を赤々と照らす。
 池原一等兵は甲板の片隅で、いよいよ今日が最後の日かと縮み上がっていた。
 今、彼らが乗っている船は淡路山丸という一万トン余の大型輸送船で、沖縄出身兵たちはアワリサン丸(哀れしない丸)ということで、その船名の縁起をかつぎ、喜び勇んで乗り込んだものだった。しかし今は、船名を沖縄方言になぞらえて言って見ても、どうにもならないことを思い知らされているのである。
 ここは英領マレー半島コタバルの沖合、時は昭和十六年一二月八日、午前一時を少し回ったばかりである。
 帝国陸軍軍人が、と思う心とは裏腹に、池原一等兵の体はひとりでに震える。息を潜めてジーッとしていると歯の根が合わない。三、四時間前の静けさが、こうも変わろうとは夢想だにしなかった。その三、四時間前からのことが脈絡なく彼の頭の中に浮かんでは消えた。

 上陸前のおののき

 三、四時間前、それは十二月七日午後十時か、十一時だったはずである。波のうねりは高かったが、敵前上陸を前にしては船酔いどころの騒ぎではなかった。
 遥か遠く月明りの下、黒々と眠っているのはマレー半島だ。電灯がチカチカ光っているところはサバク海岸か、あるいはコタバル飛行場かも知れない。ジョンブル(イギリス人)の奴ら、きっと飲み明かすつもりかも知れないと思うと、一戦も交えたことのない相手への敵愾心がムラムラと湧き上がって来るのを覚えた。
 いよいよ十二月八日午前一時少し前、第一次上陸部隊の舟艇移乗が行われる頃となって風が強くなり、波はそのうねりを一層高めて来た。
 「出発準備完了!」の報告を耳にすると、支隊長侘美少将は直ちに鈴木高級副官に命じ、発進を号令せしめた。
 池原一等兵がその時対岸に目をやると、いつの間にか電灯の光は消え、黒々とした陸地だけしかなかった。「これは敵さんに気づかれたかな」と不安の入り混じった思いで見ている間にも、舟艇群は青標灯を檣頭(しょうとう)に掲げ、四縦陣となり、発動機の音も勇ましく、荒海の中を一斉にサバク海岸に向かって行った。
 やがて二十分もたったと思われる頃、黒々と見える対岸上空に照明弾が二発撃ち上げられた。と見る間に、波打ち際あたりで火花が散り始め、引き続いて砲声が轟いてきた。
 これは明らかに敵の砲火だ。上陸軍の武装は小型火器だけなのだ。対岸の戦闘を目にしていながら、船上では手も足も出ず、やきもきするばかりであった。
 一時間以内に第一次上陸部隊を運んだ舟艇群は帰って来る。その時こそ第二次上陸部隊として敵地に上がるのだと思うと、武者震いして、勇躍した血が胸を高鳴らせた。
 「それにしても遅い」「無電さえも届かない…」。不安な表情を見せ始めた兵たちの間を通り、池原一等兵が出番を控えて船室にくつろいだその時、突然大揺れを食らい、投げ出され、先述の修羅場を現出したのである。

 上陸戦闘

 「第六中隊、舟艇に移乗!」空襲に怯えてばかりもおれなかった。砲声と飛行機のうなりが交錯する中で、大隊長中村※※中尉の鋭い声が甲板上に響きわたると、池原一等兵の軍人精神は呼び覚まされた。千磨必死の訓練の成果は、こういう時にあらわれるのかも知れない。
 いよいよ敵前上陸だ。
 第一陣を運んだ舟艇は帰ってきていたのだ。それにしても数が少ない。けれども今は舟の数を確かめたり、それを気にしている余裕はないのである。
 縄梯子を降りていると艇長の声が波間から聞こえて来る。「上陸成功、ただし敵の抵抗が激しく海岸に釘付け」と聞こえた。
 上陸時間のことも報告しているようであるが、時間なんて、このような際、どうでも良いことだ、と思った。
 後日、諸情報をもとに、第一次上陸部隊の上陸作戦の状況を総合すると、次のようであったという。
 作戦途中、敵弾を受けて多くの艇は大破、転覆あるいは沈んだものも多く、一時は波打ち際で混乱状態を呈していたという。したがって兵の揚陸を果たした艇でも指揮艇の所在がつかめず、すべて単独判断で帰ってきたのである。
 上陸部隊にしても、敵の激しい迎撃で砂浜を一歩も進めず、その上無線機は海水に濡れて発信は不可能だったというのである。
 さて、池原一等兵ら第二次上陸部隊の兵士たちは、第一次上陸部隊那須連隊長以下の安否を気にしながらも移乗を終えた。
 敵機が繰り返し襲う中での行動であるので、それこそ命懸けの行動なのだが、先発隊の運命が自分たちのそれにも繋がることを思えば、敵機襲撃の恐怖の中にありながらも、対岸の様子も気にせずにはいられなかった。
 大隊長中村中尉の艇を先頭に、五、六隻の艇はうねる波の間をついて対岸へ向かった。支隊長侘美少将も陣頭指揮を取るべく、この一陣と行動をともにした。
 発進五、六分後、思わず振り返ると、今しがた離れたばかりの淡路山丸は、甲板一面で大火災を起こし、闇の海上を真っ赤に照らしている。池原一等兵は、その船から脱出した僥倖(ぎょうこう)を思うと同時に、乗組員及び船舶工兵たちを残して去って来たという後ろめたい気持ちにも襲われた。
 僚船綾戸丸および佐倉丸は無事で、その巨体を暗い波間に浮かべている。それらの船からの第二次上陸部隊は発進したであろうか、そのような思いが頭をかすめる。
 艇は一四、五メートルの強風に悩まされ、高い波浪に弄ばれながらも上陸地点目指して一路進んで行く。
 砂浜に達するやいなや、激しい銃撃が襲いかかってきた。水際から直ちに匍匐(ほふく)前進に移り、砂上を虫けらみたいに進むと、やがて砂上に散在する黒い影が目に入ってきた。第一次上陸部隊の兵たちである。
 前方の黒い椰子林の陰から狙い撃ちされ、全く釘付けの状態である。少しでも体をもたげると、たちまち機関銃弾が雨あられのように飛んでくる。時々頭上をかすめて砲弾がヒューンと飛んで来て水際や海中で炸裂する。
 では、先に上陸した第一次の上陸部隊はどのような経路と経過をたどっていたであろうか。ここでは落合軍医の手記をもとに、その後をたどってみよう。
 サバク海岸はコタバル飛行場に最も近く、予想した通り敵は堅固な陣地を布いて待っていた。
 上陸地点五〇〇メートルに達すると、敵の砲門はにわかに火を吐き、激しく撃ち込んで来た。その熾烈な砲火のため、上陸部隊は予定より進路を右に変えざるを得なかった。その結果、数井大隊と松岡大隊は入り混じり、一時は大混乱に陥った。
 数井大隊長の艇は海岸近くで転覆し、将兵も大波をかぶりながら上陸したが、大隊長は間もなく負傷し、代理の中隊長も立て続けに受傷するという悲惨な状態になった。
 松岡大隊では、一隻のダイハツ(舟艇)が迫撃砲弾を受けて転覆し、一隻は大波のため海岸に打ち上げられた。そのような状態で、上陸はしたものの、水際で撃ちまくられ、一時は相当な混乱状態で苦戦を強いられたのである。
 第一次上陸部隊を率いた那須連隊長は、軍旗を奉じて上陸はしたものの、一次上陸部隊の様相を確認するや、佐藤参謀に命じて数井大隊の指揮を取らせた。
 それでも汀線からあまり遠くない砂丘から先は全く進めず、膠着(こうちゃく)状態となった。この状況から脱しようと、砂丘の死角に入りながら入り江の向こうに渡ろうとした一隊は、潮流に流されて海の中に押しやられた。
 こうして一次隊はその勢力を二分され、死傷者が続出して惨憺(さんたん)たる状態になっていったのである。
 さて、池原一等兵らの第二次上陸部隊は、支隊長侘美少将や中村大隊長の指揮の下、淡路山丸を離れたが、予備隊長国武中尉は爆弾で戦死し、その他にも多くの死傷者を出した。
 上陸地点五〇〇メートルのところで展開した舟艇群は、右が支隊長、左は中村大隊長の指揮で上陸を敢行した。
 上陸と同時に、椰子林の中の闇は一斉に火花を吹き始めた。それは正面からだけでなく、斜め左前方からも釣瓶撃ちされ、その上に砲弾も混じっていたのである。
 こうして同海岸は銃砲弾の掃射地帯となり、左正面の中村大隊長(陸士三五期)は上陸と同時に戦死した。
 支隊長の乗ったダイハツの艇長が「達者」(上陸の暗号)と叫ぶと、護衛小隊長と支隊長、和田次級副官は海に飛び込んだ。将兵も続けて飛び込んだが、海底に脚が届かず、ブクブクと水中に沈み、ようやく岸にはい上がる有り様であった。
 こうして上陸部隊がそろったところで、各隊はそれぞれ正面で血路を開き、ついに椰子林へ突入した。
 椰子林に入ると敵弾弾着の数は極端に少なくなった。敵軍の大勢は、我が軍の前線突破と同時に算を乱して(無秩序に散らばって)退却していったのである。

 上陸作戦の経緯

 池原※※一等兵(大正十年生)、十九歳で陸軍に現役志願し、昭和十四年久留米歩兵第四八連隊へ入営、第六中隊第二小隊の擲弾分隊員であった。
 昭和十六年十一月までは南支広東地方警備の任に当たっていたが、それまで激しい訓練が日夜続けられた。主として上陸戦闘・ジャングル戦・舟艇移乗・折り畳み舟の運送と組み立て・水上浮遊等であった。それは当然、悪化している米英との間で、万一のことが起こった場合のためのものであることは想像はついていた。そして遺言・遺髪・遺爪の整理があった頃からは、いよいよの感を強くしたのである。
 十一月末になると、急に乗船命令が出て、乗船は海南島三亜港に向かった。海南島では再び総合演習があり、十二月三日、支隊長から次の作戦実施命令が出された。

 歩二三旅作命甲第二号
 侘美支隊命令一二月三日一二〇〇於淡路山丸
一、
敵情別冊情報記録ノ如シ「軍主力ハ「シンゴラ」「ターベ」「パタニ」方面ニ急襲上陸シ一挙「ペクタ」河左岸ノ線ニ進出ス第七戦隊・第三水雷戦隊ノ一部ハ支隊ノ作戦ニ協力ス
二、
支隊ハX日未明「コタバル」方面ニ急襲上陸シ「コタバル」南側地区ニ進出シ以後ノ作戦ノ準備ヲセントス
三、
諸隊ハ別冊上陸計画ニ基キ行動スベシ
四、
支隊ノ合言葉ヲ左ノ如く定ム
 「谷」「水」
五、
予ハ淡路山丸ニ在リX日未明上陸部隊ト共ニ上陸シ先ズ「サバク」三叉路付近ニ位置ス
 
支隊長 侘美少将

 十二月四日は朝から日本晴れ、海は静かであった。午前六時三十分、護衛艦隊旗艦川内及び一〇数隻の駆逐艦は、先頭・後尾・両側を航行して護衛に任じ、輸送船団はその中を二列縦隊となって一隻又一隻と七〇〇メートル程の距離を隔てて進発した。両縦列間隔は一〇〇〇メートル位で、併行して航行した。
 その威風堂々たる光景に、池原一等兵たちは狂喜した。これだけの戦力で向かえば米英何するものぞ、と心は躍った。
 ところが十二月七日午前十時、支隊の淡路山丸・綾戸丸・佐倉丸の三隻は軍主力の艦艇と交信をし、左に分進して別の方向へ向かった。
 遠ざかる大船団を目のあたりにして、池原一等兵たちの驚きはやがて不安に変わった。一万トン級の巨船とはいえ、たった三隻、それに護衛はちっぽけな水雷艇ではないか。実は先程の命令は、池原一等兵たち下級の者には全く知らされてなかったのである。
 こうして、この支隊は太平洋戦争開戦劈頭(へきとう)の第一陣を受け持つ上陸軍となったのである。
 (本稿は松田※※氏の話と侘美浩著『コタバル敵前上陸』を参考に著者が記述した。)

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