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5 「集団自決」
体験記

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 ○知花※※(大正八年生)

写真中央樹木の根元に、かつての壕入口を塞いだ石積みが残っている
 三月二十六日に、私たちはチビチリガマに避難した。とにかくすごい空襲と艦砲射撃で、それまで隠れていた自分たちの壕では安全ではないと思って、チビチリガマへ避難したわけ。当時、行動を共にしていた家族は私と姑、姑の母親と長男に長女の五人だった。私は昼間は壕に隠れて、夕方になると朝・昼・夜の三食分の食事を用意するために部落へ戻っていた。
 四月一日に米軍に壕を囲まれて、ある男女が「日本男児じゃないか、竹槍を持て」と言って外に出たわけよ。一二、三名は出たはずよ。その中の二人、婿兄弟だったけど、この人たちが米軍に攻撃されて、怪我したもんだから、すぐ引き返して来たわけよ。それからはもう、誰も動かん、外にも出ない。二日まで、みんな壕でじっとしていたね。
 朝の八時半頃、壕の中に南洋帰りの人がいたんだけど、その人が壕の中で火を燃やしたら煙りで窒息できるから、そうしようと言った。それでも、その時は、はっきりそう決まったと言うより、みんなあやふやに話し合っていたんだが、このときにアメリカーが壕の中に入ってきた。アメリカーが四名、一人は通訳がついていたんだが、「着物もたくさんある、食べ物もたくさんある、出てこい、出てこい」と書いてある紙を私たちに見せた。それをみんなで回して見たけど、「これは嘘かもしらん、アメリカー達が言うのは、嘘かも知らんから、それではいかん」とみんな疑って、そのまま出る人はいない、中で隠れていたさ。
 私たち家族は、アメリカーが入ってきたときに、そのうちの一人がアメ玉を手にして、自分が食べて見せてから、わたしたちに配りよったもんだから「じゃ、死ぬなら自分たちもアメリカーのもの一個ずつでも食べてからに死んだほうがましじゃないか」と家族で話し合って、子どもの分は私が預かった。だけどうちの姉が、子どもたちにもアメ玉を渡して「同じ死ぬならもうアメリカーの物も食べてから死んだ方がましだから、一つずつみんな食べなさい」と言った。それで、みんなで食べたんだけど「貰って食べるのは、アメリカーと一緒だから」と言ってみんな私たちをガイガイと騒いだ。でも私たちは家族に「これは、同じ死ぬ事なんだから、食べて死んだ方がいいから、どうもないよ、食べなさい」と言って食べさせた。
 そうこうしているうちに近くでは、※※さんがお母さんに「敵にやられるよりか、お母さんの手で殺して下さい、殺して下さい」と膝まづきして願うんだよね。※※さんは体格も良くて美人でね。この母親も「そうか、敵にはさせないで自分でやろう」と言ってさ、近くにいた看護婦が、「右の首を切っては駄目ですよ。左の首、きれいに奥まで通すことが出来たら…」と母親に教えてね。あくまでも自分でやると母親が言うたもんだから、私たちも止める間もなかった。※※さんは、もう膝まづきしてじっと座って、やられたわけよ。もう血がスーッと跳んで、私たちは返り血を浴びた。※※さんの次に、母親は目の見えない※※さんの兄弟に馬乗りになってドンドンドンドン包丁で突いた。「長男だから、自分の手で殺す」と言って。その時にまたアメリカーがふたり入ってきて、すぐ、目の見えない長男の足を捕まえて、そのまま壕から引っ張ってチャー出ししたようです。外に出したこの長男は、重い怪我じゃなくて、軽い怪我ですましたもんだから。
 そういう中で、「火を燃やしたら窒息できる」と前に言っていた南洋帰りの人が、入口から一五メートルぐらい奥に入った所で、布団を山積みにして火を付けた。私たちはかなり奥に居たから前方から煙りがどんどん流れてきた。また、すぐ近くでは看護婦だった人が「注射しても死ねるから」と、親戚に注射をドンナイしていた。注射を待つ人が長い列になってさー。注射した後で水を飲んだらポックリ死ねるから、とそういう話がまわってきていた。この看護婦のおばさんにあたる人が、一番に注射を打たれた。このおばさんは水飲んだらころっと死んで、「あらあんなにも早く死なれる人もいるね、羨ましいね」って思ったよ。でも看護婦は、親戚だけにしか注射を打たない。「薬があんまり無いから親戚だけだよ、親戚だけだよ」と言ったもんだから、誰もよその人が手を伸ばすわけにいかんから。それに親戚でも全部が全部、打てなかったんじゃないかね。
 もうその時には煙りはどんどんくるし、火をつけてから一〇分か一五分ぐらい経っていたと思うが、みんなが何をしているのか、全然わからん。もうガイガイガイして大騒ぎだから。とにかく、ほとんどの人がもう死ぬ希望ね。この火が燃えている場所よりも前方にいた人しか、外にすぐは出てないから。火が燃えている所から奥にいる人は「死ぬ」それしか考えられない。「もう死んだ方がまし、アメリカーにやられたら、強かんされるか、耳、鼻、みんな切られてしまうから、自分で『自決』した方がいい」とね、これ以外にこの時はなんも考えられなかったよ。
 私は六か月になる長女を抱っこしていた。「出たい人は出なさいよう!うちなんかは出るよう!」って、誰かが大声で呼びかけたから、私たちも出ようと決めた。混乱の中、私が長女を抱いたまま、手を伸ばして近くの人を掴まえたら、その人がすーっと立って歩くもんだから、私も引きずられるように歩きだすことになった。私は後ろにいる姑に、「※※を連れていますか、手をつなでいますか」と聞いたら、「つないでいるよ」って声が返ってきた。「じゃ、外に出るから一緒に出てよ」と言って、姑の手を掴まえて、東に歩いているのか西に歩いているのか、真っ暗だから何もわからない、ただ前の人の背中を捉まえて、夢中に歩いていた。そのときまでは姑と長男は私といっしょにくっついて歩いていた。火を燃やしている所にさしかかったとき、そこに倒れている人の腹か背中を私が踏んづけてしまって、すーと足を滑らせたもんだから、その時に姑は私から手が外れたわけ。
 火を燃やしている所を通り抜けたら、すこし明かりが見えてきた。「あー向こうで明かりが見える。こっちはガマの入口かも知らん」って思ってかがんで、体を滑り込ませたら、やっぱり壕の入口になっていた。出てみるとアメリカーがいっぱいいるさあーね、すぐ近くに七、八人ぐらいいたよ。
 抱っこしていた生後六か月の長女は、壕内の煙で窒息グヮして、顔がどす黒く変色していた。このアメリカーたちは私に「おっぱい強く搾れ、強く搾れ」と言って子供に飲ませろと言うけど、搾っても出ないわけさぁね、栄養失調でしょう。そうしていると、ひとりのアメリカーがキビを持っていたみたいで、それを切って三本位の束にして、石の上に置いて短刀でつついて柔らかくすると、赤ちゃんの口の上でぎゅっと絞って汁を入れたわけよ。口の中がキビの汁で一杯になったから、長女は「ゴウ」と息を吹き返した。顔色も良くなってきたもんだから、「あーもう大丈夫だ」と思って、今度は姑と長男を連れ出しに行こうと思った。アメリカーに「電灯一つ貸して」という仕草をしたら、貸してくれたので、ガマに入ってみたんだけどあまりに暗くて一つでは駄目。だから戻って一つ貸してとお願いして二本持って壕に入ったが、あんまりにも煙りが強くて中に進む事もできない、見ることもできない。この時「もし、このまま私が戻れなくなったら、壕の外に出したあの長女はどうなるのか」と思って、もう心配でしょうがなくて、「仕方がない。出した子供を助けよう」と。それしか考えられなかったよ。ほかにはなんも考えないさ、ポカーンとしてよ、出した子供を守るのに必死だよ。「考えていても仕方がない。引き返そう」と引き返してきたわけ。
 私が一番最後に外に出た。もう私の後ろから誰も来ない。
 十一時ぐらいに壕を出たんだと思うけどね、その後、チョコレートやらチーズなんかをもらって、水も飲んで、腹ごしらえしてから、夕方に戦車に乗るように言われて、暗くもなるしみんな乗った。だけど浜に向かって走るから「もう海に連れて行って捨てる、海に投げ捨てるんだなぁ」とみんな心配したさー。でもそうじゃない、都屋に収容所が在ったわけさ。そこは人がいっぱいしていたよ。
 都屋の収容所には三日間いて、それから渡慶次、漢那、金武にみんな移動して行った。

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