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5 「集団自決」
体験記

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 ○上原※※(昭和八年生)

 私の屋号は※※で、チビチリガマで「集団自決」が起きたとき、私は十二歳でした。みんな覚えています。もう、ほとんど。
 四月一日にね、米軍が上陸したわけですよ。それで、朝の九時ごろだったかな、ガマの中にいた三人が竹槍を持って外の米兵に向かって行ったんですよ「ヤーッ」って言ってね。この三人は男の人が二人で彼らは兄弟、そして女の人が一人、この女の人は看護婦で飛び出した人のどちらかの娘にあたっていたようです。彼らが外に出た時には、ガマの外はアメリカ兵でいっぱいなんですよ。それで多分、男の人が前に立っていたんでしょう、銃撃されてね。もう、至近距離ですから、ねらい撃ち。女の人は傷は受けなかったがさすがにね、女だからということだったか。それで負傷して彼らがガマに戻ってきて、「もう大変だ」という事になった。
 そして、その日の午後。チビチリガマの入口は、当時はもっと小さかったんですよ、当時十二歳の私が、這いつくばってやっと入れるぐらいでしたから。ある人がそこに布団なんかを置いてね、火を付けようとした。それで、ジラーナーカのオバアーという人とね、フシミーウージャといったか、ある一人のおばさんがね、二人で火、消したんです。「待て!」って言って。あのままつけていたら、みんな死にましたよ。
 それから翌、四月二日。半ズボンを着た白人がね、ガマの中に入って来たんですよ。武器を持たないで、本グヮー持ってね。その本には、片一方日本語、片一方英語で「日本は戦争負けました」とか「殺しませんから、出なさい」とか書かれていました。入ってきた白人がその本をみんなに見せたんですよね。前日には斬り込みに出たようなガマなのにね、そんな殺気立ったところに入ってくるなんて普通の人じゃできないですよ。自殺をしようか、子どもも自分の手で殺そうかと、そういうところにですよ。敵がですよ、武器も持たないで入ってくるというのはね。その時に私、ああ、これは牧師じゃなかろうかと思ったんです。
 しかし、この白人が持ってきた本を「ンジュナヨー」って、これ「見たらいかんよー」と、ボスみたいな役割の人が言うんです。「誰も見るな」とみんなのところをぐるりと回って、私の前にまで見回りと言うんですかね、来たんですよ。
 それでもう「トーナー、チャーンナランサ」って言ってね。もう、これは終わりだと。もう、自分達でね、自分達の始末せないかんと。そう言って、「集団自決」が始まったわけですよ。子供を殺したりね、注射したり……。
 看護婦していた人にね、私も注射をしてくれって頼んだんですよ。看護婦さんの前にずらっと並んだ行列に私も並んでね。注射は、重傷者から先に打っていました。私の番になったんですが、この看護婦さんは私に「※※ちゃん」って呼びかけて「※※ちゃん、どいておきなさい。友達と親戚が先で、そして余ったらあなたにもしてあげるさ」と言ったんです。それで私はそばにのけられて、やがて「はい、薬はもうなくなった」って、看護婦だった姉さんは自分にも薬を打って寝たんです。でも、注射したのに生き延びた人もいるんですよ。看護婦だった姉さんが、何人に打てるだけの毒薬を持っていたのかは、わからない。
 そして最後に、前の日に布団を燃やそうとした人たちが、とうとう火を付けたわけです。そしたら、モオーッとね、真っ黒い煙が来ましたよ。
 その時うちの母が「出よう」と言ったんです。「とにかく外にでよう。あんなに苦しい思いで死んだらいかん」と。それで私たちの家族が、一番最初に出ました。しかし、おじいさんはもう、中に置いて出ました。
 母が私たちを連れてガマを出たのには理由があった。実は出征していた父が「この戦は負けるから、私も、隙があったら逃げてくるからね。子供達を、一分でもいいから、長く生かしておいてくれよ」と母に言いつけてあったらしい。それで、もうみんなで死のうという時に母が父の言葉を思い出したというのだ。
 ガマの外に出たらね、もう、アメリカ兵の歓迎ですよ。「ああ、いらっしゃい」ってなものですよね。現在の、チビチリガマへおりる階段があるでしょう、そこらへんに兵隊がいっぱいいましたよ。食べ物を渡されましたが、「缶詰、これよー、食べたらいかん。毒が入っている」と大人に教えられたので、私はすぐそばの畑から、ウージを取って食べましたがね。
 それから、救出された者たちはみんな米軍の車に乗せられて、都屋に行きましたよ。そこには、一週間ぐらい居ましたかね。

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