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5 「集団自決」
体験記

 ○比嘉※※(大正一一年生)

 昭和二十年当時、私は二十六歳で、夫と姑と、そして三人の子どもがいました。五歳の長女を先頭に、三歳の長男、一歳の次女と、小さい子どもを抱えて壕と家を行き来する不安な生活が続いていた一月、夫に召集令状がきました。それで、残される私たちは、姑が娘たちのことも気にかけていたこともあって、波平に嫁いでいた夫の姉妹のもとにお世話になることになりました。
 波平に嫁いだ夫の姉妹は三人いて、長女はチビチリガマに、あとの二人はシムクガマに避難していました。私たちがお世話になることになったのは、シムクガマに避難している義姉のところでした。夫がガマへ移る前の日に豚を潰してくれたので、私は油味噌や油粕を作って、ガマに持ってくことができたんです。夫は私たちをシムクガマに連れて行って「元気にね」と言うと出征していきました。
 私は夜になると食料を探しに外へ出るのですが、芋畑をあっちこっち掘ってみても出てくるのは、親指ぐらいの小さな芋しかありませんでした。艦砲射撃が激しくなってガマに帰れずに、墓に隠れて一晩を過ごしたこともありました。みんな山羊などの家畜は置き去りにして部落から避難しているので、日本兵が勝手に潰して食べているのを目撃することもありました。
 しばらくすると、姑がチビチリガマへ行こうと言い出したんです。そこに長女が避難していたので気になったんでしょう。シムクガマの二人の義姉が「行かないほうがいいよ」と止めるのも聞かずに、シムクガマを出て行ってしまったので、私は子どもたちを連れてとにかくもう必死で姑を追いました。
 チビチリガマはシムクガマとは違ってとても狭く、そして真っ暗でした。私たちは後から来たし、部落外の人間でもあったので、壕の入口に居場所を得ました。小さな子どもたちを連れていたので、非常に肩身の狭い思いをしました。天井部分からは水がちょんちょん垂れて、あまりに真っ暗なのでそばに座っている人の顔も見えないぐらいです。こうした場所にいるため「もう死ぬんじゃないかな」と弱気になりました。
 食事は、みんな夜に部落に戻って、家で炊いてから壕に持ってきて食べていました。私は義姉の上原※※と一緒に、上原の家で家族の食事を作りました。上原家はガマから近かったので、毎日作りに出ました。
 波平のサーターヤー(製糖場)に軍隊の糧秣として保管してあった米が、空襲で焼けて、波平の人々はその焼けた米をジューシーにして食べていました。
 米軍の上陸前夜、日本兵たちがチビチリガマの上で軍歌を歌っていたんです。私たちは入口にいるので、壕の中からちょっと出て少し見たんですが、たくさんいたように思います。大きな声で軍歌を歌って、ヤケになっているように見えました。でも朝になるとシーンとして、何処に行ったのかいなくなっていました。「あの兵隊どこに行ったのか」とみんな言っていました。
 その朝が四月一日で、アメリカ軍が上陸した日です。「アメリカ兵が来ている!」とガマの中は大騒ぎになって、どこかのお父さん達が包丁や竹やりを持って外に飛び出しました。この人たちはアメリカ兵に手榴弾を投げられて、そのうち二人が死んだようです。それでみんなワーワー大騒ぎになったわけです。それからが大変で、真っ暗な壕の中で「アメリカーに殺されるより、自分で死んだほうがいい」と言い出す人が出て…私たちもそう思いました。生き残ったら大変、アメリカーに殺される!と。当時のことを思い出すだけで、胸が痛くなります。
 やがてアメリカ兵が壕の中に現われて、紙に「殺しはしない」みたいなことを書いて懐中電灯で照らして見せたようです。私は全然見てないんですけど、見た人が「殺しはしないと書いてあるよ、この紙見てごらん」と言ったんです。でもみんな恐怖でワサワサーしてほとんど誰もこの人の話を聞かないんです。
 私より、三つか四つぐらい年上の看護婦がいて、この人が毒薬の注射をもっていたので、姑が義姉の※※に「注射グヮはないかね。早く、申し込んで来なさい」と看護婦さんの所へ聞きに行かせました。私たちは部落の人間ではないので、入口から奥へは行けないのです。私たちがそうしている間にも周りから色んな声が聞こえてきて、「殺さないってよー」と言う人もいるし、「死んだほうがいい」といっている人もいました。やがて「包丁マーンカイアガー!鎌マーンカイアガー!(包丁は何処にあるか、鎌は何処にあるか)」という声が聞こえてきました。どこかのお父さんが自分の家族を殺すと言っているのです!真っ暗な中で殺しあっているような叫び声が聞こえ、包丁で刺されたのでしょうか「お母さんよー、お母さんよー」とどこかの娘さんがわめいていました。みんなどんどん死んでいく様子が真っ暗な中でもわかるのです。
 「注射打ってちょうだい」と看護婦さんにお願いに行った義姉が、帰ってきました。いよいよ私たちは、自分たちだけ生き残ったら大変だと思いました。
 そしたら誰かが布団に火を付けて、燃やし始めたんです。皆「おほおほ」と咳き込んでいました。私は煙を吸わないようにと、娘のおしっこを手ぬぐいに浸して、家族の口に当てました。一歳だった娘はお腹を空かせていて、お乳とまちがえたんでしょうね、チューチュー吸っていました。
 私たちの近くにいたおばさんが、火を消してさっと外に出ていきました。義姉さんがそれを見て「私たちも出よう、はやく子どもをおんぶして」と私に言ったんですよ。でも、周りは地獄のような有様で、どんどん人が自決していく叫び声が聞こえるから、私も興奮していて「アメリカーにいたずらされるより、死んだほうがいい」と義姉さんに反対したんです。でも義姉さんは「出て行けば、どうにかなる。ティーダウガリカラ(太陽を見てから)死んでもいいんじゃないか。早く子供をおんぶして!」と私を叱り付けるように言うので、私も、どうせ死ぬならこんな真っ暗な所じゃなくて、太陽の下で死にたいと思い、そこからみんなで外に出たのです。
 外に出てみると、白人やら黒人やら、見たこともないアメリカーで怖かったですけど、私たちに銃を向けるでもなく、「おいで、おいで」と手招きして私の娘に菓子を渡したんです。私は毒だと思って娘の手に握られた菓子を捨てたんですが、アメリカーはすぐに拾ってそれを食べて見せたのです。大丈夫なんだと分かって、家族で菓子をもらって食べました。私たちがそうしている間にも、ガマの中から負傷者たちが助け出されていました。血を流している人、首吊りの跡なのか首に紐を結んだままの人たちです。しかし壕の中に火がまわって「もう助けられない」と途中から救助も打ち切られました。やがて私たちはトラックに乗せられて都屋の海岸に連れていかれました。「海に捨てるつもりだね」と思いましたが海岸にはたくさんの人が集められていました。それから都屋にあった収容所に移されました。四、五日ぐらいは都屋にいたんでしょうか。この間、都屋の収容所で亡くなる人は、近くに穴を掘って埋められていました。
 それからトラックで長浜に連れていかれました。そこに二、三日いたあと、大きなトラックで石川の収容所に移されました。
 石川の収容所から読谷に帰村し、波平で暫く暮らす間に、長男の※※が栄養失調で亡くなりました。戦争を生きのびたというのに。あの頃までは食べ物があんまりなかったからです。

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