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第四節 県外疎開
宮城傳

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 はじめに

 昭和十六年十二月八日未明、日本海軍機動部隊の真珠湾攻撃で始まった太平洋戦争(日本側は「大東亜戦争」と公称した)は、真珠湾奇襲の成功、同日敢行されたマレー半島上陸、タイ進駐の強行、十二日にはグアム島及び香港を占領し、明けて十七年一月にはマニラを強襲、更に兵を進めてビルマに侵攻した。鎧袖(がいしゅう)一触、破竹の進撃を続けた。日本は、戦端を開いて僅か半年で西太平洋を席巻し、大小多くの島嶼を支配した。
 昭和十七年六月、日本軍は米合衆国ハワイ島の玄関口に当るミッドウェー島攻略を敢行した。しかし、米軍の抵抗は激しく、ミッドウェー海戦で手痛い敗北を喫した。この戦闘で、日本海軍は世界に誇る連合艦隊虎の子の空母四隻を含む多数の艦艇を失い大敗した。この敗北を境に、日本は破局へと向かう。アジアを、欧米の植民地支配に代わって日本が支配する(日本は「大東亜共栄圏の樹立」という標語を掲げた)という夢は、僅かに半年で挫折した。
 米軍(連合軍)は、爾後(じご)、圧倒的に優勢な物量に物を言わせ、周到万端準備を整えて、大機動部隊を擁し、一大反撃に転じた。日本軍は、昭和十八年二月、ガダルカナル島を撤退、五月にはアッツ島守備軍玉砕、追って十一月にはマキン、タラワ島の守備軍が悲憤の涙をのんで全滅、明けて昭和十九年二月、マーシャル群島のクエゼリン、ルオット両島も奪取されてしまった。
 この様に、ひたひたと迫り来る米軍の熾烈な反攻に備えて、昭和十九年三月、沖縄諸島にも兵力が配備されることになり、渡辺正夫中将を司令官に任命して第三十二軍が新設された。
 昭和十九年六月、米軍は、日本が最後の防衛線として絶対の自信を誇っていたマリアナ群島に侵攻を開始し、主島サイパン島に上陸した。日本軍は、乾坤一擲(けんこんいってき)死守したが、激闘三旬日の末七月七日に陥落した。この戦闘で、日本守備隊及び住民約四万四千人が玉砕した。犠牲者の中に、多数の沖縄県民移住者が含まれていた。こうして、戦局は坂道を転げ落ちるように悪化をたどり、戦火は刻々としかも、確実に沖縄島に迫っていた。
 サイパン島が陥落した昭和十九年七月七日、東条内閣は緊急閣議を開き、「一般疎開促進を図る外、特に、国民学校初等科児童の疎開を強度に促進する」ことを閣議決定した。同日深夜、沖縄県知事宛に、文部省から二通の電文が相前後して届いた。前者は「鹿児島県の奄美大島と徳之島、沖縄県の沖縄島、八重山島、宮古島から、老幼婦女子を直に島外に引き揚げさせよ」とあり、後者は、「沖縄県の三島から、本土へ八万人、台湾へ二万人、合計一〇万人を七月中に引き揚げさせよ」で、両者とも極秘緊急電文であった。「疎開させよ」は、要請ではなく命令に近かった。この電文を受けて、沖縄県は、「県外へ疎開させる為の機関」の設置を急いだ。沖縄県全島を総括する組織として、まず、特別援護室を設け、警察部を所管とし、県の内政部からも役人を配置し、室長には内政部の課長を当てた。地方での疎開業務は、特別援護室の管轄総理の下に各警察署が担当し、市町村長を督励し、学童疎開については、教学課視学に兼任させた。そして、疎開地における受入業務の遂行のために、福岡県博多に「業務事務局」を新設した。さらに、「南西諸島引揚援護局」を鹿児島港と佐世保港(長崎県)に設置し、加えて、疎開者を受け入れる九州三県、すなわち宮崎県・熊本県・大分県には、それぞれ担当者を配置した。
 疎開業務は、当初遅々として進まなかった。沖縄県は、日本国の最南端、遠く洋上に連なる島々から成り、当時は、鹿児島までの旅程が、船で二日から三日かかった。昭和十九年になると米国潜水艦の雷撃を回避するために、島伝いに、しかも、迂回もしくはジグザグ航行を余儀なくされていた。従って、片道一週間というのも「常識」となっていた。「気候、風土、習慣が違う」、「墳墓の地を離れたくない」、「老幼婦女子だけ(十七歳から四十五歳までの男子は、疎開を禁止)では、心もとない」等々の県民の心情も、疎開する上での大きな隘路となっていた。昭和十八年の末頃には、軍部にコネがあって戦局が不利なことを知悉していた本土から来た県庁高官や寄留商人は、家族を引揚げさせ始めていた。
 昭和十九年八月、第三十二軍司令官渡辺正夫中将が病気退官し、牛島満中将が司令官に就任した。相前後して沖縄守備軍は続々と増強された。
 この頃の戦局は、日本にとって絶望的段階を迎えており、米軍の沖縄上陸は必至の状況となっていた。この状況下で、県民の県外疎開は奨励ではなく国家からの至上命令となっていた。昭和十九年七月中旬、県庁の役人や警察署の職員の家族が疎開第一陣として出発した。これは、県民への垂範もしくは啓蒙の意味が強かったという。一方で、学童集団疎開も急務であった。昭和十九年七月十九日、県内政部長名で、八重山・宮古の支庁長、首里・那覇の市長及び国頭・中頭・島尻三郡国民学校長宛に、「学童集団疎開の準備に関する件」続いて「沖縄県学童集団疎開準備要項」が通牒された。前者は学童集団疎開の必要を説く通達で、「国土防衛態勢確立の為(以下省略)」「少国民(学童)の教育運営に遺憾なきが為(以下省略)」「県内食糧事情の調節を図らむが為(以下省略)」等々が主な内容で、後者には、対象者についての取り決め等が次のように詳述されていた。「対象は、国民学校初等科三年生から六年生まで(以下省略)」「児童四十名に付き、教員一名の割で(以下省略)」「児童二十名に付、世話人一人を置く(以下省略)」「学童の食費、輸送費等は、当県に於いて負担する(以下省略)」等々であった。
 昭和十九年七月十八日、サイパン島玉砕の責任を負って、東条首相が辞任し東条内閣は瓦解した。
 サイパン島を占領した米軍は、飛行場を整備補強し、連日、B29の大編隊を組んで日本本土の主要都市や各地の軍需工場を空爆した。
 昭和十九年の夏、沖縄島では守備軍が十数万に膨れあがり、町や村々の至るところで軍服姿が犇(ひし)めき合っていた。港には、軍需物資が露天のままで山積みされ、道路では昼夜を問わず、大小の軍車輌が土埃を巻きあげながら疾走していた。国民学校や中学校の校舎を含めて公共の建造物は、営舎として接収され、多くの一般住民の家屋も軍人の宿舎に提供させられた。
 この様に沖縄島をすっぽり包み込んだ「鉄の暴風」襲来の予兆は、県民に未曾有の混乱をもたらしたが、只々、右往左往させられていた善良で朴直な県民も、流石(さすが)に米軍の沖縄侵攻が目睫(もくしょう)の間に迫っていることだけは、確実に感じとっていた。
 学童集団疎開は、県庁→市町村→学校→部落会→隣保班を通して、必死の奨励に努めた結果、昭和十九年八月十六日、ようやく、第一回学童集団疎開者一三一名を鹿児島港に向け送り出すことが出来た。
 一方で、文部省は関係する各県に、疎開に関する「必要、最小限度」の通牒を出した。「沖縄県下生徒児童の転学に関する件」「沖縄県集団引揚児童に関する件」「引揚児童の経費等国庫補助について」等々である。
 市町村や学校等関係者の忍耐強い奨励で、第一陣を送り出して後、学童集団疎開者は一般疎開者を含めて順調なすべり出しを見せた。疎開者を乗せた船舶は船団を組み、護衛艦を伴って鹿児島や長崎へ向け次々に出航した。
 昭和十九年八月二十二日深夜、疎開船「対馬丸」が悪石島西方六、七浬(カイリ)の洋上で、米国潜水艦「ボーフィン号」の攻撃を受け、魚雷三発が命中して沈没するという遭難事故が発生した。対馬丸は、僚船二隻(暁空丸、和浦丸)と共に、軍艦二隻の護衛の下に、一六六一名の疎開者等を乗船させて、長崎に向けて航行中であった。この事故による県民の遭難者は、一四八四名におよび、頑是無(がんぜな)い学童も七六七名が尊い命を失った。遭難学童の慰霊碑「小桜の塔」は、当初那覇市護国寺境内にあったが、後に若狭の旭ヶ丘公園内に移設された。「小桜の塔」は、悪石島海岸から、遺族の手でひとつびとつ拾い集められた霊石の納められた台座の上に、寂然(せきぜん)と鎮座している。
 日本軍部は、厳しい緘口令(かんこうれい)を敷き対馬丸遭難の事実隠蔽に腐心した。しかし、この前代未聞の悲劇は数日を経ずに遺族に伝わり、旬日を待たず県民の仄聞(そくぶん)するところとなった。対馬丸遭難事故以後、一般疎開希望者の間で辞退する者が続出し、疎開業務が頓挫した。出発日に疎開者が集まらず、空のままで出航する船もあったという。しかし、学童集団疎開は計画通り続行された。それは、国策という至上命令であったことと、「全県民が玉砕しても、子孫を後世に残したい」という極限状態に追いつめられた県民の「藁にもすがりたい」心情が、「魔の海」の恐怖を抑え、生存の確率がより高いと思われた「疎開」という手段を選択させ、血を吐く思いで多くの県民が「掌中の珠」を手離したのであった。
 昭和十九年十月十日、米軍第五十八機動部隊の空母から発進した艦載機により、沖縄諸島は五次にわたり、延べ約一三〇〇機(『沖縄県史』1通史)の空襲を受けた。この日の空爆で北、中、南飛行場をはじめ、島内の軍事拠点は猛爆を受け、県都那覇も壊滅した。十月十日の大空襲は、県民の間に僅かに残っていた「上陸必至」の風評が杞憂に終わってほしいという願いを完全に打ち砕いた。
 「十・十空襲」を境にして、県外疎開の機運が再び高まった。連日のように、沖縄各地から送り出された老幼婦女子及び学童が、空襲で廃墟と化した那覇へ、便船を求めて参集した。疎開船は大小さまざまで、軍艦や輸送船は勿論のこと、小商船や機帆船まで動員され、那覇港から米軍潜水艦が跳梁する魔の洋上はるかに九州へと向かった。
 沖縄県民の県外疎開は、昭和十九年七月中旬に始まり、昭和二十年三月初旬に打ち切られた。疎開に使用した船舶は、延べ一八七隻におよんだ。搬送した人数は約七万人である。宮古島、八重山島からは、主に台湾へ疎開が強行された。住民、学童合わせて約一万四千人が東支那海を渡り、基隆港へ向かったと報告されている。
 沖縄県の県外学童集団疎開者数は、関係者(引率教員等)を含めて、六五六五名である。疎開先は、宮崎県、熊本県、大分県の三県にまたがっている。尚、読谷山村の県外学童集団疎開校は、古堅国民学校一校のみで、児童等四九名が宮崎県加久藤村に疎開した。隣村から、屋良国民学校と宇久田国民学校の児童等八〇名が、当時、読谷山村字比謝矼在住の二人の教員に引率されて、それぞれ宮崎県野尻村と紙屋村に疎開した。
 沖縄県から九州三県に学童集団疎開者を送り出した県内の国民学校は、六三校を数え、南は宮古島の平良国民学校から、北は国頭郡天底国民学校に至り、県内のほとんどの市町村におよんでいる。
 さて、県外疎開者を搬送した船舶は一八七隻におよんだが、学童集団疎開者が遭難したのは、対馬丸一隻であった。沖縄県独自の調査によると、一般疎開者が乗船し、航行中に撃沈遭難した船舶は、大小合計で三二隻にのぼると報告している。しかし、遭難の詳細については殆んど分明していない。


 諸塚村
 読谷山村楚辺から40数人が一般疎開
 えびの市
 当時の加久藤村(昭和41年、三町合併によりえびの市へ)に古堅国民学校から46人が学童疎開。後に対馬丸生還者の3人が合流した。
 野尻町
 屋良・宇久田国民学校より学童疎開した町。引率者は比謝矼の宮城※※・※※夫妻であった。
 三股町
 終戦後、本土疎開した人々が沖縄への引揚げを待つため飛行場跡の三角兵舎に集まり、沖縄の沖と宮崎の宮をとって「沖之宮」という集落ができた。

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