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第四節 県外疎開

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 学童疎開

 古堅国民学校の宇座※※校長は、郡視学からの強い要請もあって、部下の訓導に命じ、学級父母会を開かせたり、区長に働きかけて部落会を招集してもらうなどして、疎開学童募集に東奔西走した。その結果、字比謝矼、字大湾、字比謝、字長田の四か字から四〇名弱が応募した。商人や公務員や会社員の多い比謝矼からの学童が八〇パーセントを占めた。校長は、二人要る世話人(寮母)の交渉は訓導に当らせたが、引率教員は自分で決めることにしていた。そんな或日、渡久山※※訓導は校長室に呼ばれた。渡久山訓導は、比謝矼で生まれ、両親や兄弟と共に比謝矼に住居を構えていた。弱冠二十三歳、独身だった。教員歴二年、気鋭の渡久山訓導は、直立不動で校長の前に立った。用件は疎開学童引率の依頼であった。校長は、渡久山訓導が適任であることを懇々と説き、最後に学童の大半が字比謝矼在住者であり、彼等の父母も、渡久山訓導の引率を強く願っていると締めくくった。若い訓導は、温厚で人望厚い上司に説得されて、顔を上気させながら引率の大役を受諾した。
 宇久田国民学校の宮城※※訓導は、六歳の時に大工であった父につれられて、国頭郡大宜味村字田嘉里から比謝矼(その頃、字大湾の一部だった)に移住した。当時、※※訓導は夫婦ともに国民学校に奉職していた。※※訓導は、越来村の宇久田国民学校で教鞭をとり、妻の※※訓導は、北谷村(現嘉手納町)の屋良国民学校に赴任していた。宇久田国民学校も四〇人程の疎開希望学童が集められた。今帰仁※※校長の強い要請を受け、三十六歳の中堅教員の宮城※※訓導は、疎開学童募集に深く携ったことでもあり引率を承諾した。※※訓導は、研究訓導として二か年三重県で過ごし、他県での生活は経験済みだった。
 屋良国民学校では、疎開学童引率予定の男子訓導が、出発直前になって辞退する騒ぎが起きた。疎開学童四〇名弱の氏名は既に郡視学に報告を終了していたので、喜友名※※校長は大いにあわてた。窮余の策として、宇久田国民学校疎開学童の引率者、宮城※※訓導の妻、※※訓導に要請することにした。※※訓導は師範学校で喜友名校長の後輩で、前任校が屋良国民学校だった。校長は、※※訓導と※※訓導を呼び、疎開先で宇久田校、屋良校、両校の疎開学童を一緒にするという空手形を切って、とうとう押しつけてしまった。※※訓導は、当時生後三か月の乳児を抱えていた。結局、六十歳の義母が子守りの手伝いで同行することで話がまとまり、無謀にも引率を受諾した。
 学童が集団疎開を希望した理由は、各人各様であった。島袋※※は兄弟で応募した。沖縄が戦場となり、家族が玉砕しても自分達の血筋を残したいという父親の強い意向があった。比嘉※※は担任教師に勧められ、応募用紙にサインして後家族に報告した。しかし、家族の絆を重視する祖父の反対にあったが、教師に責任を持つと言われ、しぶしぶ納得して疎開を許可した。西平※※は、隣近所の友人が疎開を申込んだと聞いて父母にせがみ許可を得た。金城※※は当時高等科二年生だったが、引率教師に強く同行を求められ参加を決意した。宮城※※は、三年生で制限年齢ギリギリだったが、教科書に載っている富士山や雪が見たい、大きな汽車に乗りたいという「夢」を実現させるチャンスを逃したくないと思い父母に泣きつき、父の勤務先まで日参した。結局、子供たちを「戦火」から避けさせたい父母の意向も働いて、姉弟で参加した。新垣※※は、読谷飛行場建設現場で事務員として働いていた。同郷の引率教師から世話人(寮母)として参加する様依頼され、五年生の妹を同伴して疎開団に加わった。他の学童等の理由も、大同小異であった。
古堅国民学校から加久藤国民学校へ疎開した子どもたち
 昭和十九年八月二十六日、古堅国民学校疎開学童たちは、父母等保護者に伴われて、真夏の陽光が降り注ぐなか、汗を拭きながら出発のため古堅校へと向った。荷物は一人六〇キロまでで、二梱包と制限されていた。その他に遭難した場合の用心に、救命具として孟宗竹を一本(長さが六尺、直径一〇センチ大のもの)を各自持参していた。これは必携せよとの命令があったからである。
 やがて、学校長の激励の挨拶があって、大勢の在校生や職員及び父母に見送られて、軍から借用したトラックに分乗した。嘉手納駅で列車に乗り換えて、一路、那覇に向かった。
 宇久田国民学校は、引率の※※訓導、世話人二人、学童三七人の総勢四〇人、屋良国民学校も引率の※※訓導、世話人等関係者六人、学童三四人の合計四〇人だった。両校とも、八月二十七日それぞれの学校に集合の後、県営鉄道嘉手納線で那覇に向かった。那覇での宿泊旅館は港近くの同一の建物であった。当時、乗船する船舶名や日時は極秘事項で、出航前日の夕刻に連絡することになっていた。八月二十七日夜になって、二十八日未明に出航する海防艦「鹿島」に八〇人程の空きが出たので、宇久田校、屋良校の両校は乗船するようにという命令が来た。夜通し準備をして、早朝伝馬船に拾われ、あたふたと乗船し出航した。見送りの時刻に、結局、父母学校関係者は間に合わなかった。
 古堅国民学校の疎開学童団は那覇で一泊の後、父母や関係者に見送られて、客船「伏見丸」に乗船し出航した。途中、運天港に仮停泊して、他の疎開船の到着を待ち、翌夕刻、疎開船約二〇隻の大船団を組み、駆逐艦等七隻の軍艦に護衛されて鹿児島港へと出航した。船旅は一週間かかった。船室は満杯だった。古堅校の学童達は、甲板に作られた積荷を覆う低く広い屋根(覆い)の上に、互いに頭を接する形で寝ることになった。救命胴衣を背と腹にくくりつけたままの就寝は大変きつかった。船酔いで頭も上がらず、便所に行くのもギリギリまでこらえる始末で、さらに悪天候にももて遊ばれ、途中、悪石島近くでは潜水艦接近の警報まで鳴りだした。さんざん苦しめられたあげく、何とか鹿児島港にたどり着いた。ちなみに、救命用具代用の孟宗竹は不用ということで、乗船の際全部遺棄させられた。
古堅国民学校の疎開児童たちがお世話になった加久藤国民学校の当時の校舎(宮崎県えびの市立加久藤小学校提供)
現在の加久藤小学校(一九九八年三月 筆者撮影)
 疎開学童の疎開先は、鹿児島到着後に連絡される手筈になっていた。
 古堅国民学校疎開団の場合、入港の翌日、加久藤村の疎開係が旅館に迎えに来た。昼近く鹿児島駅を発ち、各駅停車の列車で三時間程揺られて後加久藤駅に到着、その後駅から五〇〇メートル程離れた加久藤国民学校に向った。加久藤国民学校は青年学校と併設されており、校長は一人で兼ねていた。加久藤国民学校長が宮崎県の内政部長名による「南西諸島転入児童受入に関する件」の通達文を受領したのが八月初旬であった。大急ぎで職員会議を開き、知恵を出し合って宿泊施設の割当てを決定した。宿泊施設の畳の入れ替え、炊飯所、食堂の準備等、受入準備がまだ十分に整っていない状態でのあわただしい疎開学童団の到着であった。
 加久藤国民学校では、校長以下職員及び青年学校の生徒等が整列して歓迎式を開いてくれた。婦人会から飲み物と暖かい握り飯の差し入れもあった。それから、いったん青年学校の裁縫室に旅装を解いたが、この場所は那覇国民学校疎開団が後日入所する手筈になっているということで、翌日、隣接の加久藤国民学校講堂の一部を仕切った場所に移動した。炊事場は、青年学校の家事室を学校側と共同使用した。
 宇久田国民学校疎開学童団と屋良国民学校疎開学童団の場合、村の疎開係と野尻国民学校長が旅館に先着し、いろいろ段取りをつけてくれていた。入港の翌日、鹿児島駅を列車で出発、加久藤駅から四つ程駅を乗り越して、小林駅に到着、更に一日一便の木炭乗合バスに乗り換えて、一五キロ奥の野尻村に向かった。宇久田班は野尻国民学校前で下車したが、屋良班は、更に一〇キロ東方の紙屋国民学校に向かった。そこにいったん落ち着いた屋良班だったが、「学校の収容施設が狭い」「女子教員による学童管理の困難さ」「引率教師が三か月の乳児を養育中」等が先方に指摘され前途多難を思わせた。しかし、長嶺野尻村長の温情と関係者の努力で、屋良国民学校疎開学童団は一週間ばかり紙屋校で過ごした後、野尻国民学校に移され、宇久田校と合流した。両校の宿舎は、裁縫室が割り当てられた。三〇畳程の部屋が二つあり、家事室(炊飯室)も同屋の一端に付設されていた。
 疎開学童には、一日一人五〇銭の副食物代金と米一合五勺の現物支給がなされた。しかし、食べ盛りの学童たちにとって、一合五勺は一食半だった。幸い、加久藤村や野尻村は唐芋(さつま芋)の産地であった。買い出しに出かけると、農家では、疎開学童には「公定値」で売ってくれた。「唐芋ご飯」は米半分、芋半分だったが、とにかく学童たちの腹は何とか満ちた。味噌は、自給自足が建て前だったが、大豆が不足し、塩味だけという日もあった。牛、豚の肉は殆んど手に入らない。加久藤、野尻とも内陸部なので生の魚介類がない。干し魚や煮干しなども配給制だったが、常に品不足で大勢の学童には行き渡らない。慢性の蛋白質欠乏症気味で、腹がふくれて手足の細いのが学童の平均的体型だった。援農にも出かけた。これは奉仕でもあったが、栄養補給の大儀もあった。農家は働き手を兵隊や軍需工場に奪われ、恒常的に人手不足であった。従って、幼い学童でも集団での手伝いは歓迎された。秋の「稲刈り」、冬の「麦踏み」、それから初夏の「田植え」など、大勢で出かけて作業を手伝った。
 冬の「麦踏み」はさすがに応えた。素足に藁草履をはき、寒い北風の吹く中を横歩きに麦の若芽を踏んで進む。鼻水を垂らしながら頑張ったものだった。そして、作業終了後、必ず純白のお米で作った大きな握り飯(銀飯)二個が配られた。更に、野菜もどっさり土産に貰った。
 炊飯用の薪は、加久藤校の場合、製材所が近くにあったのでクズ材や廃材を貰って来た。山が遠いので、薪拾いに出掛けたのは数えるくらいしかなかった。
 野尻校は、完全に自給自足だった。日曜日になると、全員が弁当を持参し、一日がかりの薪拾いのための山行だった。大王橋を渡り、狐峠(きつねひら)の森を迂回して、やがて村有林に到着する。片道四キロの道程で一種の遠足でもあった。夏山の緑は、目新しくもなかったが、沖縄からの学童にとって、秋の紅葉は、それこそ初体験であった。山全体が金、銀、紅色の濃淡で彩られる。風が吹くと、金波銀波の大波小波がうねりだし、やがて足下の落ち葉を含めて山全体が大きく揺れる。学童にとって、紅葉との出会いは、新鮮な、あふれる感動の連続であった。しかし、帰途はつらかった。年長者は、枯立木や倒木を適当な長さに整えて各人肩に乗せて運び、幼い者達は、二人一組になり、担架に肩ヒモをつけて前後で持ち、束にした枯れ枝を運ぶ。途中、何度か休憩をとりながら帰途につくのだが、宿舎に着く頃には足がもつれ、くたびれ果ててしまった。
野尻町でお世話になった皆さんを招いて開催された交流会(1960年)
 地元の人達は、遠く故郷を離れ、肉親のあたたかさと離れて暮す幼い学童たちを、物心両面から援助し励ましてくれたものだった。どの家庭にも、庭に柿の木が三、四本植えてある。秋になり、柿がたわわに実り、やがて真赤に色づき収穫の時を迎えると、大きなザルに入れて宿舎に運んでくれた。正月には、婦人会が呼びかけ、つきたての餅を集め、大きな盆に高く盛り上げて、全員に行きわたる数を届けてくれたりした。
 宮崎県の冬は、沖縄に比べると格段に寒い。南国育ちの学童たちは、衣類の冬仕度が全く足りない。それに布団の持ちあわせがない。何せ、荷物は一人六〇キログラム以内で、梱包して二個という制限があった。身の廻り品や衣類の持参が精一杯で、布団などとうてい手が廻らなかった。衣服は、まあ、夏ものを重ね着して何とか間に合わせたが、冬用の寝具がないのだ。引率教師は、役場に日参して窮状を訴えた。人情に厚い土地柄もあって、役場では直ちに手を打ってくれた。まず、村への数少ない割当てから毛布を学童に一人一枚ずつ優先して配ってくれた。婦人会も立ち上がってくれた。野尻村では、各家庭から布団綿を持ち寄り、手作りで布団に仕上げ、三〇数枚も寄贈してくれた。加久藤村も、座布団を各家庭から供出してもらい、布団に打ち直して届けてくれた。物資が極端に欠乏した戦争末期だったが、土地の人達は自分たちの生活を切りつめてまで援助の手を差し延べてくれた。この様な土地の人達のあたたかい心遣いは、学童たちに深い感銘を与え、心に強く印象づけた。
 平成十年現在、学童たちは、それぞれ野尻会、加久藤会を結成して、定期的に会合を持ち、往時を偲んだり、お互いの消息を確かめあったりしている。野尻会の場合は、お世話になった野尻村の人達を沖縄に招待して交流を再開し、以後、交互に訪問しあっている。又、個人的にも特産品を贈答したり、近況報告を交わしたりで、継続して旧交を温めている。加久藤校組も同様の交流を行っている。
 さて、学童たちと雪との出会いは突然やって来た。野尻校の宿舎のトイレは、屋根つきの廊下を通って別棟にあった。学校と共用である。裸電球が途中に一つぶら下がっていた。師走のその夜、比嘉※※は目をこすりながら用を足し終え、外気が直に当たる廊下を身をちぢめる様にして急いだ。その時、裸電灯の薄明かりの中を、白く斜めに舞っている何かに気がついた。彼は廊下の端に走りより、空を見上げた。すると漆黒の大空から、次々に、しかも突然、明かりの中に姿を現す形で雪片がわんさと舞い下りて来た。彼は素足のまま庭に下り、両手を高く挙げ、口を大きく開けながら雪を受けた。この夜の雪への感動は、学童たちにとって鮮烈で衝撃的だった。ついに、本物の雪を目のあたりにし、手で触れ、口に入れることが出来たのだ。歓喜の大騒ぎは、夜が明けても続いた。昼になって降り止んだが、とにかく積もった。野尻村や加久藤村では、山には雪が降るが平地での降雪は三〇年振りだという。土地の人たちは、疎開学童に見せるために降ったんだと、驚いていた。
 疎開学童を悩ます「三苦」は、「寂しい」「ひもじい」「寒い」であった。学童達は、七歳から十四歳までの幼い少年少女である。父母の膝下を遠く離れ、日本国内とはいえ風土や環境の異なる他県で、彼らが味わう寂寥感(せきりょうかん)は筆舌に尽しがたいものだ。就寝どきになると布団を頭からかぶり、肩を震わせてしくしく泣く年少者を、年長の者が自分も泣きたいのをがまんして、諭し慰め合うという日々が半年は続いた。しかし、幼い者同士が、幼いながらお互いに助け合い慰め合っているうちに、次第に明るさをとり戻したものだった。集団には、この様に「癒し」の効用がある。対馬丸で家族全てを失い、九死に一生を得た八歳の少女が加久藤疎開学童団の仲間入りをした。少女は、二日間、イカダで漂流の後救助されたという。沈没、漂流の恐怖、そして家族を失った悲しみに打ちひしがれた少女は、全く口を利かず常に何かにおびえ、夜もうなされていた。しかし、同年齢集団の中で暮らすうちに、仲間たちも親もとを遠く離れて暮らし、しかも、その安否が知れないなかで、健気に助け合って生きているということを、幼い少女ながらも次第に理解できたらしく、やがて他の学童たちと話を交わすようになり、次第に元気をとり戻した。
 「寒さ」は、常夏の国沖縄から疎開して来た学童たちにとって、大変厳しい体験だった。冬になると、手や足にあかぎれができ、凍傷寸前の状態で歩行もままならず、手はグローブ大に肥大した。又、当時の集団生活の常として、虱(しらみ)も発生し悩まされた。身体の清潔を保つためには入浴が欠かせないが、この「風呂」が難題だった。夏は、行水や川での水浴びで済ませられる。加久藤村には、宿舎近くに一級河川の川内(せんだい)川が流れていた。川巾が広く、水量も豊かだった。学童たちは、古里の比謝川を偲びながら水浴びに興じた。野尻村にも、宿舎から一〇〇メートル程森すそを下った所に、戸崎(とざき)川が流れていた。文字通りの小川で、川巾は一〇メートル程だったが、早朝の洗顔から午後の水浴まで学童たちにとって十分な水量と水深があった。しかし、宮崎県の冬は寒く、真冬になると小川の澱みに薄氷が張ったりした。従って、熱い風呂が必要だった。
 加久藤村には、銭湯が一軒あったのでそこを利用した。しかし、薪不足で週一回しか湯は沸かなかった。又、汽車で一駅、三キロ程行くと、京町温泉があった。真冬になると時々出かけたが、出費がかさむので度々出かけるわけにはいかなかった。野尻村では、宿舎に備えつけの「五右衛門風呂」が一個あった。湯の上に踏み板が浮いていた。一人用だが、学童は一組で二人釜(浴槽)に入った。学童等八〇人が、入浴割り当て表に従って順番に入浴した。一週間に一度は利用できる様に組分けたが、釜が小さいので常時水を入れ足す。水が湯になるまで待たねばならず、室内とはいえ、寒さの中裸で待つのはつらかった。
 「ひもじい」は、学童にとって最も堪え難いものだったが、この飢餓感は恒常的なものだった。唐芋入り御飯を竹筒のお椀に一ぱいきりというのが、通常の主食であった。終戦直後はもっとひどかった。米の配給も滞りがちで、加久藤校では、四〇名近い学童の一食が米一〇合足らずに、唐芋や唐芋の葉を交ぜ、塩味の雑炊一ぱいという日もあった。学童たちは、沖縄出発の際二〇円程の小遣銭の持参が許されていたが、日用品を買い、間食に使うので、二、三か月で使い果たしてしまった。腹をすかせた疎開学童が、土地の民家の柿の実を無断で失敬したり、畑から唐芋を持ち出すという事件も時に起きた。加久藤国民学校の校長は、剛気の人格者で、自校の生徒にも疎開学童にも同様に厳しく対していた。土地の人から、疎開学童の「失敬事件」の通報を受けると、その都度、校長室に引率教師の渡久山訓導を呼び出し、学童管理の徹底を命じた。渡久山訓導が学童を庇う抗弁の大声と、校長の叱責の声が校長室の外まで聞こえた。程なく、渡久山訓導が「引率辞退」を申し出たが、その原因の一つが、若い渡久山訓導と校長の激論にあったと、世話人の一人は証言している。
 古堅国民学校疎開学童引率者の渡久山訓導が突然、引率を辞退した。結局、加久藤国民学校長からの連絡を受けた宇久田校疎開学童引率者の宮城※※訓導が、同郷の誼(よし)みもあり、当局との連絡等を含めてしばらく面倒を見ることになった。しかし、当時、野尻村から加久藤村へは、木炭バスや汽車を乗り継いで一日の旅であった。従って、両校を管理することは不可能だった。
 県の出張事務所に引率者の派遣要請を行ったが、適切な人物がなかなかみつからなかった。年が明けてから、当時、家族で熊本県に疎開していた野崎※※訓導が引継を承諾し、この問題は落着した。
 疎開学童は、国民学校を卒業すると国庫補助が全面的に打切られた。就職し、自立せよとの通達であった。卒業した子どもたちは、延岡市や都城市の軍需工場に就職した。しかし、一方で上級学校への進学を希望する者もあった。加久藤の疎開学童、及び野尻の疎開学童合わせて十数人が進学した。小林中学校、小林高等女学校、宮崎農林学校、宮崎蚕糸学校等が主な進学先であった。学資等は、疎開学童へ毎月生活費として給付される国庫補助金の中から捻出した。
 終戦を迎えた時、学童たちは帰郷への期待に胸をおどらせながらも、その心中はかなり複雑だった。六月末に、沖縄が米軍の手に陥落した時、一部に「玉砕」の報道がなされ、学童たちは号泣したものだが、時がたつにつれ、生存者も多いという風評が伝わり、一方で安堵もした。しかし、父母や肉親の安否は依然として不明のままだった。やがて、外地からの引揚げが始まり、学童の父や兄が疎開学童のもとを訪れるようになった。こうして十数名の学童が肉親に引き取られていった。
 疎開学童たちは、いらいらしながら帰郷の下命を待った。しかしながら、日本国は、敗戦の衝撃からなかなか抜け出せず、社会状況も混迷の様相を呈していた。沖縄の疎開学童の帰還には、まだまだ手が廻らず、帰郷は当分見込めない状況であった。
 古堅国民学校疎開学童の生活も、敗戦後、いよいよ厳しさを増した。配給の米も滞り、量も減らされたりした。農産物は「ヤミ値」が横行し、店頭から消えてしまい、学童たちは世話人の引率で、川内(せんだい)川を越えて遠く山手の農家にまで買い出しに出かける日が続いた。農家の人達は、学童を哀れんで「公定値」で分けてくれた。しかし、農家の農産物も「欠乏」気味で、学童たちは泣く泣く手ぶらで帰る日もあった。米一〇合足らずの中に、唐芋少々と唐芋の葉や茎を交ぜて、塩味の「かゆ雑炊」をすする日が続いたのもこの頃だった。学校の校舎が足りなくなり、住み慣れた講堂を明け渡して、国民学校から三〇〇メートル程離れた永山公民館に移った。そして、帰郷の日を待ちわびながら、懸命に生きた。
 宇久田及び屋良国民学校の疎開学童団は、帰郷まで二、三年はかかるだろうと判断した。そこで、村役場に要請して、不在地主の林野一〇反歩を借り受け開墾し農地にした。当局の厚意で無償借用できた。農地には、ジャガ芋や陸稲を栽培した。それから、山手に駐屯していた輜重隊の兵舎を払下げてもらい、国民学校の農場の一隅を借りて、五〇坪程の宿舎を建てた。学童の縁者が三人、野尻村に復員していて帰郷の日を待っていたが、彼等は大工の心得があったので、協力を申し出、学童も労力を提供して堂々たる宿舎を完成させた。
 古堅国民学校疎開団及び宇久田、屋良国民学校疎開団に、帰沖命令が通達されたのは昭和二十一年十月の末であった。
 宇久田及び屋良国民学校疎開学童団は、野尻国民学校職員生徒や村民の盛大な見送りを受け、お世話になった野尻村に又、新築した宿舎に別れを告げて、乗合バスと列車を乗り継ぎ、先ず加久藤駅へと急いだ。加久藤駅からは、古堅国民学校疎開学童団が合流した。引率者の野崎訓導が家族と共に残留を希望したので、引率は※※訓導が引継ぎ、帰郷の船舶待ちのために一路鹿児島へと向かった。
 思えば、疎開学童団は昭和十九年八月、慌しく追いたてられる様にして那覇港を出航して鹿児島へと向かった。あの日から二年と有余月を経て、昭和二十一年十一月十日、今再び沖縄に戻ることが出来た。中城村久場崎に上陸した学童たちは、古里の惨たんたる変容に仰天しながらも、無事帰郷できたことを喜び合った。港から「インヌミ屋取(キャンプキャステロ)」にトラックで運ばれた。屋取には、父母或いは兄姉たちが朝早くから詰めかけ、待ち焦がれていた。こうして、疎開学童たちは、恙(つつが)なく一人の落伍者もなく肉親の懐に帰り、学童たちの二年有余月におよんだ疎開生活は終った。

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