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第四節 県外疎開

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 一般疎開

 読谷山村から九州各県への一般疎開者第一陣は、総数で一〇〇余人であった。これを、疎開先の県別、人数別に見ると、宮崎県へ七一人、そして大分県が一五人、更に熊本県へは一三人となっている。大阪府等へも六人が疎開したが、縁故呼寄せの人達だった。疎開者を字別に見ると、楚辺が約五〇人で全体の半数近くを占めた。次いで比謝矼、大湾、伊良皆が各一一人で並び、瀬名波一〇人、宇座九人と続き、さらに高志保六人、渡具知その他三人である。
 疎開者を字別に見ると楚辺が圧倒的に多い。昭和十九年、楚辺の区長は比嘉※※であった。役場から、県外疎開者を募集せよと連日のように要請があった。比嘉区長は、五回、六回と戸主会を開いて通達を説明し、県外疎開者を募ったが、区民の腰は重く申し出がなかった。責任感が強い比嘉区長は「隗(かい)より始めよ」の決意を堅め、とうとう率先垂範、家族ぐるみで疎開することにした。彼の家族は、妻※※、長男で十七歳になったばかりの※※、それから同居していた甥で国民学校三年生の※※の四人だった。
 疎開の許可をもらう段になって、役場は長男※※の渡航に難色を示した。当時沖縄県下に、「十七歳から四十五歳までの男性は、県(国)土防衛の要員として、疎開を禁ずる」という通達がなされていた。しかし、比嘉区長は役場に足繁く出かけ、とうとう「一人っ子」という特例で、許可をもらうことが出来た。この間一方で、彼は親族、眷族(けんぞく)の家々を回り、辛抱強く疎開を勧めた。県土が確実に戦場になることを説明し、墳墓の地を離れ他県に疎開してでも、子孫を後世に残すべきだと力説した。彼の説得の迫力に屈し、熱意にほだされた形で多数が同意した。婦女子と学童の集団だったが、最終的に一〇世帯、約五〇人が疎開届書を提出した。
 比謝矼、他村内各字からの県外疎開者の疎開理由(動機)は、やはり「戦火を避ける」「子孫を残したい」「国家の要請に従う」等、楚辺の理由と、小異はあっても大同であった。
 村内からの疎開の特徴は、各字の疎開者が、親戚眷族の間柄で構成されていたことである。楚辺の例がこのことを如実に語っているが、他の疎開者の場合も、「親戚」間で話し合って届書を提出している。「血縁」の強みは、後に疎開地でも十分発揮され、厳しい生活の中での互助協力が容易に行われたという。
 楚辺からの疎開者第一陣の約五〇人に、比謝矼その他の字の人達約五〇人余が加わった読谷村民の疎開者は、八月十九日、大型輸送船に乗船し、那覇港を出航した。そして、同行の他の船舶を待つために本部港に停泊した。翌朝、約三〇隻の船団を組み、駆逐艦と巡洋艦の護衛の下に、再び出航し鹿児島へと向かった。疎開者が乗船した輸送船には客室がなく、広い船倉に入れられた。船団は、潜水艦の攻撃を避けるために、航行もジグザグを余儀なくされたり途中の島嶼の入江等に隠れて停泊したりした。従って、一〇日程もかかったが、とにかく無事に鹿児島港に入港出来た。上陸後、ただちに西田国民学校に収容された。西田国民学校では、疎開地の決定や疎開先との連絡に時間がかかり、結局、外出禁止のまま校舎に一〇日程滞在した。
 その後、村出身の一般疎開者は、それぞれ割当てられた疎開地へ出発した。幸いなことに、疎開先は字単位で同一場所か、もしくは隣接した地区が割当てられた。例えば、宇座の二世帯九人は宮崎県北諸県(きたもろかた)郡山之口村花木へ、又伊良皆の二世帯一一人は、一世帯が同郡山之口村へ、残り一世帯は近隣地の同郡下富吉町に指定されたといった具合であった。
 楚辺からの疎開者九世帯四四人は、全員が宮崎県西臼杵(にしうすき)郡諸塚(もろづか)村家代(いえしろ)に受入れられた。家代は、約一〇〇戸の集落であった。宮崎県内政部から諸塚村長へ、沖縄県からの「引揚疎開者受入要請」の通達文が届いたのは、昭和十九年七月であった。当時の岩谷諸塚村長は家代の出身であった。岩谷村長は、黒木家代区長、田丸青年団長、そして佐藤婦人会長を村長室に招いて、家代地区でも相応の疎開者受入れを要請し、半ば押しつける形で、楚辺からの疎開者全員の受入れを承諾させた。村長は、直ちに上記三名を受入準備係に任命して、受入諸準備を命じた。
 さて、楚辺の疎開者の一行が列車で諸塚村に到着すると、岩谷村長差し回しの農業組合のトラックが、既に駅に待機していた。疎開者は、トラックに乗り代え家代公民館前広場へと到着した。広場には、大勢の家代区民が集まっており、婦人会による心尽くしの食事のもてなしを受けるなどして暖かく歓迎された。疎開者の住居は、「空屋」(出征兵士や軍需工場動員者の留守宅が四、五軒あった)や、土地の住民宅の「離れ」および「二階」等が割当てられた。食糧に関しては、米の配給がそこそこあったが、全く足りなかった。幸運なことに、家代は純農業地区であった。そして戦時の常として、在郷者は老幼婦女子だったので、人手は恒常的に不足していた。疎開の人達は、農作業の手伝い(学童は子守りの手伝いがあった)をして、代償として幾許(いくばく)かの農作物を得た。それから、放置されていた畑や公民館広場の一部を農地として借用し、唐芋(からいも)(さつまいも)を植えた。家代の人達は、疎開者を家族同様に扱ってくれた。一日の農作業を終え夕餉(ゆうげ)の時になると、農家の家族も手伝いの疎開者の家族も分け隔てなく遇して、皆で大きな鍋を囲んで和気あいあい雑談に興じながら食事をする毎日だったという。
 冬が近づいて、南国育ちの疎開者が寒さに震える季節になった。疎開者の着衣は夏服が多かったが、重ね着してなんとか寒さに耐えた。しかし、冬用の寝具は皆無に近かった。引揚疎開の時、持物の数や重量に制限があったことも一因だった。家代の人達は、この時も助けてくれた。家代婦人会が呼びかけ、毛布を工面したり、各戸から座布団を提供してもらい、冬布団に打直して疎開者に配ってくれた。家代の人達は、献身的なまでに親切だった。疎開者の受入れが、家代地区出身村長の「お声掛かり」ということもあったが、家代は元来が人情に厚い土地柄で、戦争末期、食糧事情が極度に悪化している時代に、外来者(よそもの)である疎開の人達に残り少ない家族の「蓄え」の中から食糧を分けてくれたという。「自分達は食べんであっても、沖縄の人達は大切にするのが国民の義務だというのが一番のモットーだった」と、当時を振り返って、家代在住の中田元国民学校訓導は胸を張ってこう語ってくれた。
 往時の家代の人達の暖かい心に報いるために、楚辺の区民は一九六一年に、家代の人達を沖縄に招待した。当日、那覇空港到着ロビーに歓迎の横断幕を掲げて迎えた。楚辺公民館には、疎開者一同をはじめ楚辺区民がこぞって参加し、琉球料理を並べ、琉球舞踊でもてなし、盛大な歓迎の宴を催した。楚辺と家代の人達の交流は、今日も子へと受け継がれ連綿と続いている。
 九州三県に配置された村民疎開者の生活一般も、楚辺の疎開者のそれと、大同にして小異であった。生活はとにかく厳しかった。しかし、極限状況に近い生活を強いられた中で、土地の人達の物心両面からの暖かい援助の下に、疎開者はお互いに助け合い肩を寄せ合いながら、帰郷の日をひたすら念じつつ、精一杯に生きた。
字楚辺からの疎開者が家代の人たちを沖縄に招待した(1961年)
 楚辺からの一般疎開者第二陣の約六〇人に、比謝矼、大湾、波平などの人達約四〇人が加わり、読谷村民県外疎開希望者約一〇〇人は、八月二十一日、対馬丸に乗船し、僚船の和浦丸、暁空丸二隻と共に、長崎(佐世保港)へと向かった。船団は「一番船和浦丸、二番船対馬丸。三番船暁空丸が後方に占位し逆三角形の隊形をとり、暁空丸の右に砲艦宇治、左舷に駆逐艦蓮(はす)が護衛についた」(『対馬丸砲兵』吉田董夫)という。
 そして、那覇を出航して二八時間の後、対馬丸遭難の悲劇が発生した。
「翌二十二日午後十時十五分、北緯二九度三〇分、奄美大島十島(じっとう)村悪石島の西方約一二・五粁、アメリカ潜水艦ボーフィン号(艦長コーバス)の魚雷三発を受け沈没。生存者は、学童五九人、一般一六八人であった」(『沖縄大百科事典』)。
 このアメリカ潜水艦ボーフィン号の雷撃により沈没した対馬丸の犠牲者中の読谷山村民は、無辜(むこ)の学童一八人を含めて九〇人に及んだ。対馬丸遭難の悲劇の詳細は『記録と証言 あヽ 学童疎開船対馬丸』や『悪石島―学童疎開船対馬丸の悲劇』ほか、多くの「証言集」が「生存者」や「遺族」そして「関係者」の悲憤の叫びとして出版されている。
 対馬丸の悲劇から四〇有余年が過ぎて沈黙を破り、訥々(とつとつ)とようやく語ってくれた「死の淵」から「奇跡の生還」を果たした、宮城※※と喜友名※※(旧姓※※)の証言(「 」内の文章)の抜粋を記載する。遭難当時、宮城※※は、国民学校五年生、喜友名※※が国民学校二年生であった。

 宮城※※の証言

 「戦況がますます激しくなるばかりだった」「私たちは、宮崎県に疎開することにした」八月二十日朝、「母、妹の※※、※※と一緒に家を出た」八月二十一日に「対馬丸に乗り込んだ」八月二十二日の夜、「私は狭い船室に寝ていたが、気分が悪くなり、甲板の上に出て寝ていた」「午後十時ごろ、突然ドカンという物凄い音がした」船は、十数分で沈み、「私は、一人だけ海に投げ出されてしまった」「私は必死で母や妹たちの姿を捜そうとしたが、どこにも見つけることが出来なかった」荒波にもまれ、海上に浮いていると「筏に乗っている人たちに出会って、一緒に乗せてもらった」「約二米四方の筏には、二〇人程の人がつかまっていた」しかし、やがて「一人二人と力尽きていった」二十三日の昼近く「漁船が近づいて来た」その後意識を失ってしまったが、「気が付いた時には、漁船のエンジン室の中に入れられていた」二十三日、午後五時ごろ山川港に着いた。そして「私は、一瞬にして優しい母と、妹二人の肉親を失ってしまった」ことを知らされ、「ただ茫然と、その場に立ちすくんでしまった」。

 喜友名※※の証言

 「父は、軍隊生活を経験していました」そこで、「戦場がどんなに恐しいものであるか」を熟知していた。父は母を説得して、家族を疎開させることにした。「私は、母と妹二人と共に疎開することになりました」。
 八月十九日、父は、那覇まで見送ることになり「軽便鉄道の嘉手納駅に行き」乗車して、那覇に向かった。那覇の旅館で二泊した。そして、二十一日午後、対馬丸に乗船した。「船室に入ると、サトウキビの枯れた下葉が敷き詰められていて、山羊小屋のようでした」「船室で一夜を過ごした後、私たち親子四人は、誰も居ない甲板に出ました」甲板で、母は手作りのお守りを私と弟たちに、一枚づつ配った後、「母は、備えつけの救命胴衣を私と弟に着けさせ、一番下の弟を、おんぶして」そして、「私たちを抱きかかえるようにして、甲板から、一歩も動きませんでした」。後日、この時の母の行動に照して、思い起こしてみると、「母は、虫の知らせで何かを感じていたのでは」と思いました。真夜中近く、うつらうつらしていると、突然「ドカーンというすごい音と共に船は、グラッと大きく揺れました」この時、魚雷三発が命中した。数分後には、「次第に船が傾いてきて、海水が上がって来ました」そのまま気を失い、海上に投げ出された。「気が付いたら、海の上に浮かんでいました」「いろんな物が浮いていました」彼女は、気を失ったまま、波にもまれて漂っていた。しばらくして「私は、誰かが乗せてくれたのでしょう、いかだの上に居たのです」いかだの上から「お母さんや弟たちの名を呼びました。すると、どこからか『ここに居るんだから大丈夫だよう。ちゃんとつかまっておくんだよう』という母の声がするんです」母は、すぐ近くに居るようだが、捜しても「姿は見えない」やがて、母の声も聞こえなくなった。「それが、最後になりました」しばらくいかだで漂流して後、より丈夫ないかだに乗り移った。「そのいかだには、五人ほど乗っていたと思います」疲れに、寒さが加わった。しかし、不思議に空腹は感じられなかった。「眠ろうとすると、ピシャッと誰かが叩いて起こすんです。『寝たらいけない、死ぬぞ』と。これが、強烈なんです」漂流して四、五日たった。遠くに、船影を見つけ、「みんな一斉に『助けてくれ』と手を振った」その船は、遭難者捜索の漁船だった。まもなく、見つけてくれて「船が近づいて来て、上から服を脱いだ人たちが飛び込んで、私たちを一人づつ、抱きかかえるようにして船に上げてくれました」船は鹿児島港へと向かった。「目が覚めたら、あたたかいお粥があって『世の中に、こんなに美味しい物があるかな』と思いました」鹿児島港着の後、港近くの「生存者を収容しているような旅館」で休養した。窓から、港が見え、大小の船舶の往来が激しい。「旅館から抜け出して」入港する船の近くに走り寄って、「お母さんや弟たちを捜しました」「でも居ないと分かると、すぐ泣きました」。

 宮城※※喜友名※※は、しばらく休養の後、宮崎県加久藤国民学校に集団疎開中の読谷山村古堅国民学校集団疎開の仲間に、暖かく迎え入れられた。
 ところで「湖南丸遭難事件」が起きたのは、昭和十八年十二月であった。この事件は、文部省から沖縄県知事宛に打電された「沖縄三島から、老幼婦女子一〇万人を七月中に、島外へ疎開させよ」という電文が届いた昭和十九年七月の約一年前に発生した「事件」である。「第二次世界大戦の際、沖縄から本土に疎開する人達を乗せた湖南丸が、米海軍潜水艦の魚雷攻撃にあい沈没した事件。口永良部西方海上で魚雷攻撃を受け、二発が命中、沈没した」(『沖縄大百科事典』)。
 この遭難事件で犠牲になった村民は、八人であった。尚、事件の詳細の解明は緒についたばかりだという。
 宮崎県の三股村(現三股町)三原地区は、昭和の頃小さな集落があったが、昭和十七年になって、国家が接収して東原(ひがしばる)飛行場を建設した。隣に「三角兵舎」を建てて、営舎とした。終戦になり、軍隊が引揚げ、飛行場も三角兵舎も放置されたままになっていた。昭和二十年九月、勝目地区や前目地区から、約一〇世帯ずつの沖縄県人が疎開地を離れて入植した。入植者は三角兵舎に住み、飛行場を開墾して唐芋等を植えて、自給自足の生活に入っていた。
 さて、終戦の詔勅を聞いた時、各地の県出身疎開者は帰郷への期待に胸をはずませた。終戦になって、大手の新聞等が沖縄に関する報道を始めていた。生存者の消息も、ぽつりぽつりと伝わって来た。しかし、肉親等の安否は依然として知れなかった。帰心矢の如しであったが、日本は敗戦の混乱が続き、虚脱感に沈んだままだった。新しい制度も緒についたばかりで、十分に機能しないままだった。「引揚げ」業務も外地からの復員等は始まったが、米国占領下の沖縄への送還は先送りされ、目途が立たない状態だった。
 敗戦後、県人疎開者の生活はより厳しさを増していた。外地からの引揚者が国中にあふれ、日本国民は極度の食糧難に喘いでいた。配給制度も有名無実になり、「ヤミ値」が堂々と罷(まか)り通った。家代地区疎開者の食糧も底をつき、米一合に唐芋の葉や茎を入れてお粥を作り、六、七人で啜ったり、八分の米糠(こめぬか)に二分のメリケン粉(麦粉)を混ぜて、蒸して団子を作って食べる日が続いた。
 昭和二十年末になって、家代地区から楚辺の疎開者が次々と三股地区へ移って行った。楚辺の人達は三股の三角兵舎に住み、荒地を開墾して唐芋を植え食糧の確保をはかった。家代は大分県に近かったが、三股地区は鹿児島県の県境近くに位置していた。沖縄への帰還は、当然鹿児島港から出航する船舶に乗船する。従って、この南の地で自活しながら、帰沖の日を待つ心づもりもあった。
 当然のことながら、三股での生活も楽ではなかった。収穫した唐芋が主食だったが、米や副食物の購入代金を捻出する為に、食膳の芋の本数を減らして「芋飴」を作り、又或時は「芋焼酎」を醸造、販売して金銭を得た。近隣の農家から米を仕入れて遠く別府まで出かけて、「ヤミ屋」行商に出かける者もいた。この様に、疎開者たちはあらゆる方途を駆使して懸命に生き、帰郷の日を待った。
 三股地区には、南方からの引揚沖縄県人も住むようになり、又、口こみで伝え聞いて、他の県からも沖縄県疎開者が集まり、昭和二十一年夏には、県民の数が数百人に達した。まもなく、この地区を、宮崎県と沖縄県の頭文字を取り、「沖之宮」と命名して記念碑を建立した。
 楚辺の人達と家代地区の人達との交流は、三股に移って後も続いた。家代からの訪問者があると、「ヤミ市」で購入した黒砂糖を使って「サーターアンダーギー」を作り、歓待したという。
 昭和二十一年秋になって沖縄への帰還業務が開始された。楚辺を始めとする読谷村民疎開者は、在地を出発し、それぞれ鹿児島港近くの旅館や旧営舎に投宿した。沖縄県他市町村からの疎開者も、続々と鹿児島に参集して帰還船を待った。鹿児島滞在約一月の後、待ちに待った帰還船に乗船した。
 顧みるに、約二年前、疎開者として追いたてられて那覇港を旅立った。僅かな軍艦船の護衛の下に、十数隻或いは二十数隻もの船団を組み、途中米国潜水艦の攻撃に晒(さら)され、疎開船の船倉の中でおびえ身を縮めながら、ひたすら無事航行を祈り続けたものだった。今回、沖縄への帰還の船旅は快適だった。帰還船は日本海軍の艦艇を改造した中型船だったが、平和をとり戻した東支那海を、昼夜を分かたず堂々と走りつづけた。そして、出航の翌日午後には中城村久場崎に入港した。数時間の後、帰還者一同は、「引き裂かれた二年余の歳月を瞬時に埋めて」なつかしい墳墓の地に第一歩をしるすことが出来た。それから、盛大なDDT消毒の洗礼を受け、更に入関手続き、諸検査等で長時間足止めを食った。ようやく解放されるとトラックに分乗して、安否が知れないながらもその生存を確信している夫や子、そして親戚あるいは知人が出迎えてくれることを祈念しながら、不安と喜びが交錯し、高ぶる心を抑えながら、キャンプキャステロのテント村へと向った。

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