読谷村史 > 「戦時記録」上巻 > 第二章 読谷山村民の戦争体験 > 第四節 県外疎開

第四節 県外疎開
体験記

<-前頁 次頁->

 ○疎開地での暮らし

   曽根※※(旧姓※※)・屋号 ※※ 昭和七年生 ※※

 父の提案

 「このまま戦争が続いたらこの沖縄もどうなるか分からない、お父さん、お母さんはどうなってもいいが、我那覇家の跡取りを残すため君達は本土へ疎開してくれ。※※一人では寂しいからお前も一緒に行ってくれ」と、突然父から言われた。当時、父※※は牧原農事訓練所の農業振興指導員として、県内の若者(十七歳から二十五歳)を対象に近代農業を指導していた。
 自分の校区以外どこにも行ったことのない私は、まだ見ぬ本土へのあこがれと、毎日白いご飯が食べられるとの思いで二つ返事で胸を弾ませながら準備した。

 出港

 昭和十九年八月二十六日だったと思う、私達疎開学童はセーラー服とモンペ姿という出立ちで学校に集まった。モンペの右横に住所・氏名・年令・血液型の書かれた約一〇センチ四方の名札をつけ、校長先生の激励のお言葉を頂いた後、嘉手納駅から汽車に乗り那覇に向かい、那覇の読谷山ヤード小(グヮー)に一泊し、翌二十七日家族に見送られ伏見丸で那覇港を出航した。
 最初の頃は旅行気分ではしゃいでいたが、潜水艦来襲の警報が鳴り、暗い船室で救命胴衣着装が行われると下級生がシクシク泣き出した。「家に帰りたいよー」「家に帰してー」という。それをなだめているうちに自分達も泣いてしまった。七日間の船旅で、ほとんどの人が船酔いと蒸し暑さで参ってしまった。無事到着した鹿児島港も大変暑く、沢山の船が停泊していた。
 数日旅館に宿泊して、たしか朝十時頃だったと思う、鹿児島駅を出発し、吉松駅で汽車を乗り換え宮崎の加久藤駅に着いた。駅から学校までの沿道には、私達が転入学することになっている加久藤国民学校の生徒・職員が並んで歓迎し、まるで凱旋将軍のような気分に浸りながら、加久藤国民学校に到着し、道一つ隔てた加久藤青年学校の講堂で旅装をとくと、そこでは愛国婦人会のタスキをかけた白エプロン姿のおばさんたちが、いろいろな料理を作って接待して下さった。白いご飯においしいおかず、それにナスのお汁は初めてだった。このように温かいもてなしを受けて、私達の疎開生活は始まった。

 加久藤村での暮らし

 加久藤村に着いて間もなく、宮城※※先生が来られて、※※・※※姉弟と姪甥の宮城※※・※※姉弟を引き取られ、しばらくすると、宮城※※(当時十一歳五年生)と大城※※(当時八歳二年生)が佐渡山のおじさんに連れられてやって来た。二人は対馬丸からの生還者で、同じ読谷山の学童であるということで、私達の学童疎開団に入れられたようだ。
 このおじさんは、三人の子ども達を私達と同じ伏見丸に乗船させ、自分は残り一〇名の家族と一足先に対馬丸に乗ったが、対馬丸は潜水艦の魚雷を受け一緒に乗船した家族を全部失い、自分だけ助かったようだ。そのときに受けた腹の傷がまだ痛むとおっしゃったことが、今でも強く印象に残っている。おじさんは、遭難者の二人を残し、自分の子ども三人を連れて加久藤を去って行かれた。
 対馬丸からの生還者は、その他にも天妃国民学校の高等科一・二年の学童と引率の先生方の、三〇人余りが来て加久藤国民学校の二階に宿泊していた。同じ沖縄からの学童疎開のよしみで女生徒同志とても親しくなった。
 だんだん食糧が不足し何組かに分かれて、近隣の農家へ買い出しに行くようになったが、思うように手に入らず芋わかし(芋や野菜を入れ味噌で味付けした汁)を青竹製のお椀に入れて食べた。最初の頃は竹の青臭い味がしたがすぐに慣れた。
 私達はひもじさのあまり、立ち入り禁止の地元の人達の畑に入り、ノビルを失敬し、炊事場から盗んだ塩でワカモト瓶に漬け柳行李に隠した。こっそり取り出して食べると、ナフタリンの匂いとまざり変な味がした。
 那覇を出発するとき、当座の小遣いとして各人一〇円宛、先生に預けてあったので、空腹でたまらず五〇銭をもらい、近くの農家から芋を買い講堂の床下に穴を掘り隠した。皆がそうするので、床下はたちまち芋だらけになった。それが発覚し、先生は怒って、芋を集め庭に積み上げた。先生の目を盗んで、持主の下級生が我先に拾うと、それを見ていた上級生たちが取上げ、焼いて食べていた。「私も頂戴」と手を出すと、その手をピシャリと叩かれた。
 私達は、一週間ないし十日に一度の割合で、隣の京町にある温泉に行った。その帰り道空腹に耐えかね、ソバ屋に入り、食べた後集団で脱走したこともあった。そんなときは連れ戻されて先生にひどくお尻を叩かれた。ソバ屋の精算などの後始末は、先生がなさったと思う。また、所持金もなく無賃乗車をすることもあったが、そう度々出来るわけもなく、鉄道を伝って京町に行き来することもあった。鉄橋を渡っているとき汽車が来たら枕木にぶら下がってやり過ごすこともあった。頭上を汽車が走っていたわけだから、よくも事故もなく過ごせたなぁーと今考えるとゾーッとする。
 私達が宿泊していた加久藤青年学校の講堂の二階には、山と積まれた対馬丸遭難者の荷物があった。そこから黒砂糖や鰹節・油味噌等を盗んで食べ、先生に見つかり大目玉を喰らったこともあった。上級生から講堂の二階には対馬丸遭難者の幽霊が出ると脅されたが、おかまいなしだった。
 学校では空襲警報が楽しみだった。授業がなく、学校内の防空壕に入るのだが、その時だけは決まって白いおにぎりが配られたからである。共同生活はとても厳しく、まるで軍隊式で朝早く起床・点呼・洗面・掃除と時間表通り行われ、点呼に遅れるのは、決まって寝小便者で、注意すると却って粗相をするので、シーバヤー(小便たれ)と名づけられた。
 初めて雪を見た時は、辺り一面の銀世界にすごく感動し、夜中起きてフワッフワッと降る雪を両手で受けて食べたがすぐ水になった。また、霜の上を歩くと、サクサクと音を立てて崩れる。その触感がまた何とも言えなかった。その雪で雪合戦をしたり、雪だるまを作って遊んだが、加久藤の冬は大変寒く、仲間の殆どが霜焼けに苦しんだ。手がかじかんで、指一本一本が丸く太くなって、やがてウミが出て、痒みと痛みでどうしようもない憂鬱な日が続いた。朝の洗面時には、水道の蛇口が凍って水が出ず、私達女生徒は世話人のおばさん達と一緒に交代で蛇口にお湯をかける役目をさせられた。
 栄養不良のせいか、高等科になっても生理を知らないで、便所の中の血の排泄物を見て、大騒ぎをしたこともあった。また、私達は皆シラミがわき、襟の裏側に白いシラミが一列に並んでいて、天気のよい日には、皆で日向ぼっこをしながらお互いにとりっこをした。地元の人達から「オキナワンシ(沖縄の人)シタミッゴロ(シラマー)」と軽蔑された。なお、男女頭を突き合せて寝るので男の子が女の子の髪を引っ張り喧嘩になって、先生に叱られる事もしばしばだった。

 進学、そして引揚げ

 私は昭和二十年四月、神山※※と共に小林高等女学校に進学した。しばらくすると沖縄玉砕の報道があり、すごいシヨックを受け、二人抱き合ってワアワア泣いた。何もかも嫌になり、勉強する気力もなくなっていた。
 一学期も終わろうとする頃、家族が大分県庄内村に疎開している事を手紙で知り、ものすごく嬉しかった。昭和二十年三月三日、母※※と四人の兄弟は、嘉手納の池原※※先生家族と共に、大分県に疎開していたのだった。間もなく、私たちを迎えに来た姉に連れられ弟と共に家族と合流した。
 昭和二十二年六月、姉の※※、弟の※※、※※、妹の※※が一足先に鹿児島から沖縄に引揚げて行った。私と母、そして当時四歳だった弟の※※は、二か月後の八月になってから引揚げた。これは※※が向こうで伝染病(ジフテリア)にかかり、入院していたために遅れたのであった。

<-前頁 次頁->

読谷村史 > 「戦時記録」上巻 > 第二章 読谷山村民の戦争体験 > 第四節 県外疎開