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第四節 県外疎開
体験記

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 ○姉妹で学童疎開

 島袋※※(旧姓 ※※) 昭和五年生 ※※
 金城※※(旧姓 ※※) 昭和九年生 ※※

 学童疎開について
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 当時私は古堅国民学校の高等科二年生で、学童疎開では最年長者の一人で、女児の中では唯一の高等科二年生であった。そういうことから、世話人の新垣※※や又吉※※たちと共に下級生からはかなり頼りにされた。
 疎開についてはどうという考えも無かったのだが、引率教員が同じ字で、しかも親戚、又従兄弟伯父ということで、母の勧めもあったように覚えている。ただし、母が疎開のことで引率教員に頼まれていたかどうか、それは分からなかった。
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 当時、私は国民学校初等科三年生であった。学校は軍に接収されたので、私たちは古堅の字事務所のような所の広場の木陰に、机・腰掛けを運んで勉強したように覚えている。
 三年生だから、学童疎開については何も分からず、とにかく姉と一緒ならば、ということだったのだろう。出発に先立ってモンペの上下一着を支給されたが、いつだったか記憶にない。

 出港
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 八月二十七日、いよいよ出港となったが、見たこともない大和へ行くという気持ちと、母や末妹との別れという複雑な気持ちがないまぜになっていた。その頃、家庭の事情で母と私たち三人の姉妹は、父や兄たちとは別居していた。
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 私たちは艀(はしけ)に乗せられ沖に停泊中の船に運ばれた。大和へ行くという特別な感慨はなかったが、なぜか姉は泣いていた。
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 鹿児島への途中、警戒警報が発せられ緊張したが、何とか無事鹿児島に着いた。一週間位はかかっただろうか、正確な日時は覚えていない。
 鹿児島に上陸すると、食べ物をねだられた。聞けば敵潜水艦の攻撃を受け遭難したが、運良く生き残った人々だったという。私たちは本当に運がよかった、と思った。

 加久藤村
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 鹿児島から汽車で宮崎県西諸県郡加久藤村に向かった。加久藤駅に着くと大勢の人々が歓迎してくれ、婦人会の人々が夕食の世話をしてくれた。
 最初に貰ったのは竹の皮に包んだお握りであった。
 私たちを見て「オキナワンシー(沖縄の衆)靴ばハイト」と言った。恐らく履物もない沖縄を考えていたのかも知れない。
 加久藤村では青年学校の講堂の裏が私たちの宿泊所となった。到着後しばらくは学校での授業はなく、生活指導、つまり環境適応指導が主となった。婦人会の人々は色々面倒を見てくれ、野菜をはじめ食料の援助をしてくれた。

 学校生活
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 加久藤国民学校では、沖縄での学年で編入学ということになった。
 学校では学童たちはもちろん、先生方も宮崎方言で話すことが多く、言葉では苦労した。そういうことで最初の頃は地元の子たちとは余り口も利かず、なかなか解け合わなかった。そのくせ疎開学童の中には、大城※※(波平)のアクセントが違うと言ってからかい、苛める者もいた。
 ※※は対馬丸の遭難事故から辛くも免れた子で、宮城※※(楚辺)や佐渡山一家ととともに、私たちのところに送られて来ていた。
 年少の学童たちは寒さとホームシックで泣いていた。
 学校の課業の他に奉仕作業で、壕掘りや麦踏みなどもやらされた。

 苦しい生活
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 だんだん食糧事情が悪化すると、高学年の人達からの食べ物の横取りや、いじめもあり、彼らが焼いて食べたカライモ(甘藷)の焼けた厚皮を食べたこともある。
 男児の中には馬小屋の正月のお飾り餅を盗って来て、担任教師に叱られた者もいた。
 多くの人達は霜焼けに苦しみ、冬物の準備も不十分なことから寒さに震えていた。
 講堂の二階には、遭難した対馬丸の先送り荷物が保管されていた。荷物は布団や衣類が多かったが、寒くなると学童たちはその中からこっそり失敬するようになった。衣類の中には大変きれいな子どもの晴れ着があり、欲しくてたまらず、私も一枚抜いた。こうしたことが知られるようになると、いつの間にか荷物はどこかに移されてしまっていた。
 やがて軍隊が講堂に入って来て、私たちは講堂前庭にある番小屋に移った。番小屋は青年たちの研修所みたいな施設で二部屋あり、私たちは女子青年たちの裁縫等に使用している部屋をあてがわれた。
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 はじめの頃はちゃんとした食糧の配給があったが、それでも十分ではなく、野菜類の買い出しにも出掛けた。
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 だんだん時局が切迫すると食料不足は其の極に達し、茹で大豆と麦芽を混ぜて煮た物まで供されたが、食べられた物ではなかった。
 畑には中が空になった季節はずれのカライモ(甘藷)が掘り捨てられてあり、私たちはそれを拾って来て焼いて食べたが、それが原因であったか、それとも地に落ちたグミ(茱萸)の実を拾って食べたからか、私は赤痢に罹った。
 それからは一人小さな部屋に隔離され、梅のつけ汁と片栗粉糊の食事だけの毎日で、頻繁な便意に促されて這うようにして便所に通った。すると汚いものでも見るように私を避け、伝染するといっては友達まで私の近くからあわてて遠ざかった。
 赤痢を患うと始終便意を催すが、排泄されるのはごく少量の血便だけで、落とし紙も無いことから、寒さに凍えることを承知で、それでも背に腹は変えられず、布団の綿を千切ってそれで用を足した。
 それまで姉はどこかに子守奉公に出て、私は独りぼっちであったが、赤痢で隔離されていた時に姉が持ってきてくれた牛乳はたとえようもなく旨かった。あれがなければ死んでいたかも知れない。姉には本当に面倒をかけた。
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 私は近くで雑貨店を営んでいる緒方という家の娘と同級生で、親しくしていたが、彼女の斡旋でその妹の子守奉公に出ていた。ここでは食事も与えられたので、学校がひけるとすぐその家に行った。
 緒方さんは大変親切で、四月の花見や学校の遠足の時には、私の妹のためにもお鮨弁当を作ってくれていた。

卒業
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 一九四五年(昭和二十)三月、国民学校を卒業すると私はもう学童ではないのでここにはおれない。一緒だった同年生たちの中には中学校や女学校に進学する者もいたが、私は大分県中津で働くことになった。都城から汽車で一昼夜かけての赴任で、着いたところは木綿織物工場で、軍需工場ということだった。
 大工場で、織機がずらりと並んでおり、二台の粗織り機械をあずかり、糸が切れたらつなぐという仕事であった。同僚のおばさんたちは大変親切で、大豆を炒って食べさせてくれたりした。

 養子の話
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 やがて終戦となり、加久藤に帰って来ると、本来の引率者・世話人はすでに姿はなく、代わりに野崎先生一家がいて、私たちには居辛く、行くところがなく困っていた。
 緒方の家の人は心配して、飯野町の教凡寺という所に行くよう勧めてくれたので、妹と一緒ならということで行くことになった。
 お寺は周辺にかなりの田圃を持っており、小作させていたようである。とれた籾(もみ)を持って精米に行くと、精米所の仲西という人は優先して精米してくれた。彼は沖縄出身者だが復員後、地元の人と結婚して入り婿となっていたのである。
 教凡寺は小さな寺ながら結構檀家からの寄進もあり、食料事情は割に良好で、お陰で私たちもその余沢にあずかった。
 柏木住職の奥さんは私に養子になるよう言ってくれたので、受けることにした。当時としてはそうでもしないと、暮らしてはいけなかったのである。
 やがて柏木のお母さんは、私が柏木姓で青年学校へ通える手続きまでしてくれていたが、間もなく終戦となった。
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 最初は姉一人の養女ということであったようだが、私もいることが分かって一緒に引き取られた。
 お寺には復員してきた鈴木という人がいて、野菜作りやその他お寺の雑務を受け持っていた。
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 鈴木は結婚して、寺の裏の竹林の一角に家を構えて住んでいた。

 帰郷
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 やがて沖縄に帰れるということになると、柏木のお母さんに帰郷したい旨を告げ、養女のことは解消ということにして貰った。
 いよいよ加久藤を発つという時、柏木住職は別れを惜しみ、お餞別金をくれてあった。精米所を営んでいた仲西は、別れを惜しみ駅まで見送ってくれた。
 鹿児島の収容所には一週間程もいたが、沖縄への引き上げに関する一切の世話は宮城※※先生ご夫妻が見てくださり、全員無事に沖縄に着いた。
 インヌミの収容所では宜野座行きについて古堅※※にお世話になったが、後にその人と親戚関係になるとは夢にも思わなかった。
 こうして人々の情けにより、宜野座の牛小屋に住んでいた母と末妹に三年ぶりに会うことができた。

 その後
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 帰ってからお礼の便りを出すと、沖縄は戦禍で生活もたいへんだろうから、帰っておいでという返事がきた。お米を送ってもらったこともある。
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 平成五年頃、夫婦でお礼を兼ねて訪れたら、寺は改築されており、柏木夫妻はすでに亡く、寺の一角に位牌があるだけであった。
(採話 渡久山朝章)

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