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第四節 県外疎開
体験記

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 ○学童疎開の引率教師として

 宮城※※(明治四十二年生)※※

 疎開学童募集

 当時私は宇久田国民学校に勤めていて、妻は屋良国民学校に勤めていました。
 疎開は県から勧められ、疎開を希望する児童達を学校で募集しました。
 各学校ごとに四〇名の学童に引率教師一名、炊事や雑用をする人が二名つくようになっており、対象学童は三年生以上ということでしたが、高等科に兄さんや姉さんがいれば一、二年生でもかまわないということでした。
 四月には募集を始めたのですが、四〇名に達したのは、八月に入ってからのことでした。先生が引率して行くといっても、父母はやはり心配そうでしたが、特に低学年の学童達は旅行にでも行くような気持ちで、すぐ帰れると思ったらしく喜んでいました。当時は疎開については、みんなよく知らなかったのです。
 希望者が四〇名に達したので、普天間にあった中頭教育事務所に報告に行って「宇久田国民学校は四〇名の希望者がいますが、誰が連れて行くんですか」と尋ねましたら「学校の先生が連れて行かないといかんよ」ということで、その場で「それでは私がいきましょう」ということになりました。
 妻の方も、屋良国民学校の疎開学童を引率することになり、両方の学校から八〇名を連れて行きましたが、学童の中には一年生も一人いました。
 私どもには二男二女、四人の子がいて、末の次女は、まだ生後三か月でした。

 出航

 宇久田国民学校には満州から転戦してきた北海道の部隊が駐屯していたので、そこの軍用トラックに乗って、昭和十九年八月二十七日に那覇に行き、その日は那覇の西新町の旅館に泊まりました。
 本土への出発は多分二、三日後だと思い、ゆうゆうとしていました。ですから、生徒達にも「那覇に親類がいる人はそこに行ってきてもいい」と言ってあったのです。
 ところが、その夜の午後七時頃係の人が来て、「軍艦香取に八〇名分の空きがあり、宇久田国民学校と屋良国民学校の児童八〇名を乗せるから、すぐ手続きをしなさい」ということになりました。急遽九時頃までに手続きをし、翌朝出航しました。
 船が難破した時にいかだにするため、みんな竹を持っていたのですが、軍艦に乗るのだから大丈夫だということで、その竹は乗船前に捨ててしまいました。
 生徒達の持ち物は着替えの着物と日用品だけでした。
 夜の十時頃だったか、敵潜水艦が近づいているということで、兵隊が戦闘配置につき一時は緊迫した状況になりましたが、生徒達は寝ていてそのことには気がつかなかったようでした。しばらくするとその潜水艦は遠ざかったということで、兵隊も元の位置に戻りました。

 宮崎県の野尻国民学校

 私達の乗った軍艦は二十九日の朝、鹿児島港に着きました。
 後で聞いたのですが、二十一日に那覇を出航した商船がやられたということでした。そんな事は知らされず、下船してはじめてそのことを知りました。その沈められた船には、那覇国民学校の児童と一般疎開者一六〇〇余人が乗っていたそうです。それでも、その中から奇跡的に一〇〇余の人々が助かったようでした。遭難児童たちの荷物は別の船で着いていて、後でみんなに分け与えるように言われました。
 疎開した当時、私の長女は四年生で、長男は三年生、次男は一年生でした。子供達は古堅国民学校に通っており、那覇を出航する時のごたごたで、次男と次女は一緒の船でしたが、長男と長女とは別々になっていました。鹿児島に着いてから、対馬丸が沈没したということを聞いて、離れ離れになった二人の子供達のことが心配でした。私達が宮崎に着いてから毎日のように鹿児島に連絡しました。一週間目に、やっと古堅国民学校児童たちの乗船も無事に着いたと電話がありました。一か月ほど後に二人の子どもを引き取りました。
 宮崎県の方では、学校ごとに受入れ先が割り当てられていました。
 鹿児島に一泊し、宮崎から疎開受け入れの学校の山本教頭先生と係りの人が迎えにいらして、翌三十日に鹿児島を出発しました。
 野尻国民学校は、汽車で小林まで行きそこからバスで乗り継いで二里ほど行ったところでした。その日はお寺に宿泊しました。校長先生は大屋という先生で、疎開係は役所の人で、クツハラという人でした。婦人会の人々が夕飯や布団を準備して待っていてくれました。
 宇久田国民学校の児童は宮崎県西諸県郡野尻国民学校で、そこの裁縫室におりました。
 最初は宇久田国民学校と屋良国民学校は別々の学校にいました。私は野尻国民学校に、妻は紙屋国民学校に行きました。野尻国民学校と紙屋国民学校は一里位しか離れていなかったのですが、妻は三か月の赤子を連れていて、生徒の面倒を見れないから是非一緒にしてくれということで、長峰という村長にお願いしました。八〇名の児童の面倒を見ることになるが、それでいいならということで、一週間目に屋良国民学校の児童も野尻国民学校へ来て、それからはずっと一緒でした。

 疎開先での生活

 低学年の生徒達は最初の頃は、夜になるとよく泣いていましたが、五か月を過ぎる頃からは泣く子はいませんでした。
 そこでは付き添いの人達は主に飯炊きとして働き、疎開した児童達はそれぞれの学年に編入されていましたので、引率教師は勉強を教えるというより、生徒達の生活の面倒をみたり、食糧を買い出しに行ったりしていました。それでも、高等一、二年の女子組の担任が召集されたということで、しばらくはその学級の担任をしました。
 三か月くらいで、代わりの先生がみえたので、代わってもらいました。学級をもっていると芋の買い出し等もなかなかできず、付き添いで来た人に頼んでばかりいました。その頃食糧は配給制で、配給米は一人一日一合五勺でしたが、それだけではとても足りないので、よくさつま芋の買い出しに行きました。
 国から疎開学童一人につき、一日の生活費として五〇銭の支給があったので、そのお金で買い出しに行ったのですが、闇市ではそんな値段ではとても買えるものではありませんでした。町から来る人には高い闇値で売っていましたが、野尻の人々は私達疎開者に対してとても親切で、安く売ってくれてとても助かりました。そうでもなければ、あの時代に五〇銭ではとても暮せるものではありませんでした。
 児童達はそれぞれの学級で勉強し、学校が終わると裁縫室に戻って来て、食事はみんな一緒でした。一日一食は米のご飯であとはさつま芋が主食でした。
 その頃は宮崎でも、若い人は召集され、残っているのは年寄りと女性、子供だけで、人手不足でした。
 野尻に行って半年くらいたった頃、疎開した児童達も田植え等の奉仕作業に行くようになりました。作業に行くと白い飯、つまり銀飯がもらえるということで、児童達は喜んで奉仕作業に行きました。そうこうしているうちに田植えも上手になっていました。
 宮崎の人々には、お世話になりっぱなしで、それではいけないということで、小林の大地主が野尻に畑を七反歩持っているということを聞き、小林まで行ってこの人に土地を無償で貸してもらいました。学校から帰って来るとみんなで開墾し、芋を植えました。宮崎では芋には肥やしを入れませんでしたから、私達が肥やしを入れるのを見て「さつま芋に肥やしを入れるのか」といって珍しがっていました。
 沖縄に十・十空襲があったことを疎開先で聞きましたが、その時児童達も泣いていました。
 野尻国民学校を卒業後、中学校に進学したい生徒は受験させ、小林高等女学校や小林中学校、宮崎農林学校等に計一一名が合格しました。バス等もそんなに頻繁にはないので通うことはできませんでした。それで寄宿舎に入りましたが、米を持ってくるように言われたらしいのです。疎開して来た生徒達なので、米はありませんから、お金を納めることにしてもらいました。困ったことに国民学校を卒業すると五〇銭の支給がなくなるので、残った児童達の支給分でそれを賄いました。
 沖縄に米軍が上陸したというのは新聞等で報道され、読谷沖に米軍の軍艦がいっぱい並んでいる写真も新聞に載っていました。児童達は沖縄は全滅して、親や家族もみんな死んだと思っていたのです。新聞にもそう書いてありますし、手紙も届かず音信不通でしたから。昭和二十一年に沖縄へ引き揚げる時まで、家族の消息はわかりませんでした。

 終戦

 私は玉音放送を、学校の職員室で聞きました。戦争が終わったことを児童達は知りませんでしたので、私が話して聞かせました。沖縄は全滅したそうだから、これから四、五年は帰れないだろうということで宿舎を造ることになりました。
 山の中に兵舎があり、そこにいた兵隊は出ていって空いていましたので、私達の宿舎を造りたいからということで村長と相談して、それをもらいうけました。
 その頃には、自分の子どもや弟妹が宮崎に疎開していることを聞いて、フィリピンから野尻に引揚げてきた父兄がいて、その中に大工もいましたので、その人達に頼んで、四五坪の宿舎と一五坪の付属建物を造ってもらいました。その頃は釘もガラスも配給だったのですが、宮崎県庁にお願いに行くと、県庁の人も疎開者、特に疎開学童の場合は親も来ていないということで優先して便宜を図ってくれました。
 昭和二十一年五月か六月頃、宿舎は完成しました。その宿舎に四、五年は住むことになるだろうと思っていたのですが、その年の十一月には、沖縄に引き揚げるため、鹿児島に移りました。結局そこには六か月くらいしか住みませんでした。

 沖縄へ引揚げる

 沖縄に引揚げる時は、読谷を境に北部と南部に分けられて帰されたのですが、北部に引揚げる人はおりませんでした。定員に達しないと引揚船は出ないので、鹿児島で一か月くらい待たされました。鹿児島では煙草の葉を乾燥させる所を改造した建物にいました。
 旧海軍の船で帰ったのですが、児童達は全員元気でした。引揚げる時には児童達ひとりびとりにお金が支給されました。引揚げる間際になって、沖縄には鍋も何も無いそうだということで、そのお金を持って皆で都城に行き、日用品を買いこみました。そのお金にはずいぶん助けられました。
 沖縄に引揚げたのは十二月の中旬以降だったと思いますが、はっきりは覚えていません。鹿児島から出航し、久場崎に着き、そこから車に乗せられ、どこに行くのか分からなかったのですが、着いたのはインヌミヤードゥイ(現沖縄市高原)でした。
 そこには一週間くらいいました。そこで児童達は親や親戚に引き取られて行きました。一週間程で、無事全員引き取られ、残った者はいませんでした。
 戦後、野尻小学校の百周年記念式典の案内状が届きましたので、当時の疎開した児童を集めて寄付を募り、一〇名程が野尻に行き、その式典に参加させてもらいました。
 その式典の前に、野尻小学校から要請があり、記念誌に疎開当時の思い出を書きました。疎開した生徒達は今でも、沖縄や宮崎で同窓会を開いたりして交流を続けております。 (一九九〇年三月二日採録)

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