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第四節 県外疎開
体験記

 ○子どもと共に宮崎疎開

 上地※※(大正九年生)  ※※・屋号※※

甲斐※※さん宅付近(1990年上原恵子撮影)
 尋常小学校卒業後、帽子クマー(編み)をしていたが、十五歳の時、大阪の紡績工場に出稼ぎに行った。十九歳で沖縄に戻り、上地※※と結婚した。夫が昭和十六年十二月に出征し、翌年私は子どもを産んだ。家(屋号※※)には兵隊がたくさん入ることになっていて、私達が疎開する直前に兵隊が家を下見に来ていた。
 一緒に疎開した家族は、私と三歳の子どもと姑、実家の両親と兄の子ども達三人の計八人であった。私の兄は戦死していたので、子ども達は私の実家で引き取っていた。疎開したのは、村からも疎開をすすめられていたし、舅(上地※※)も「戦争になると一般住民は生きる見込みはないから早く疎開するように」と勧めたからであった。舅は日露戦争の時、海軍兵として参戦し連合艦隊の一員としてバルチック艦隊と戦った人であった。その頃は疎開というものが何かも知らず、すぐに帰れるものと思っていた。
 昭和十九年八月頃、軍用船に乗り、宮崎県西臼杵郡諸塚町字家代(いえしろ)へ疎開した。到着してから二、三日は家代の金鶏寺でお世話になった。そのお寺は山の上の方にあった。その後、私たちは甲斐※※宅にお世話になった。
 そこでは、地元の人の農業の手伝いをした。椎茸の産地だったので、収穫した椎茸を町に売りに行かせてもらって生活していた。私たちは、小さい子どもがたくさんいて苦労した。でも、田舎だったので人情も厚く、温かく迎えて下さり、今でも付き合いが続いている。
 食べ物には不自由はしなかった。戦後、家代から都城近くの三股(みまた)へ移住したが、そこでは農業をした。そこでも食べ物には恵まれた。夫※※は大阪に復員していたが、家族が宮崎にいることを知り、宮崎に訪ねて来た。そして昭和二十一年の夏、家族と共に沖縄に帰った。
 昭和三十六年には、楚辺の公民館に当時お世話になった方を宮崎から迎えて交流会を行った。

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