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○知花※※(明治三十五年生)
渡航
※※はいずれは沖縄に帰ってくるつもりで、お金を儲けるために南洋に出稼ぎに行こうと思った。南洋に知り合いはいなかった。南洋を出稼ぎ地に選んだきっかけは、那覇で南洋興発が移民を募集しているのを聞いたことであった。「南洋に行かないか」と歩いて勧誘する人もいた。
昭和七年八月十九日、近江丸で南洋ロタ島に行った。三十三歳のときであった。最初は妻と二人で行ったが、妻は病気のためにすぐに沖縄に帰った。※※はまずサイパンに渡り、テニアン、ロタへと移った。
戦前の様子
当時住んでいた所は川の近くで、バナナの木が生い茂り、グアム島が見える場所だった。近くに小学校があった。村人会や県人会があり、一年に一度四〇〜五〇人集まった。その集まりのときには本土の人も一緒に酒を飲んだりして、兄弟のように付き合っていた。読谷の人は三〇人以上いたと思う。座喜味、喜名、楚辺から来ている人が多かったが、ほぼ各字から来ていた。沖縄出身者は沖縄の風習を守っていた。子供が生まれたときには、友人を集めて酒を飲んで祝い、生年祝いなども行なった。食べ物は豊富で、果物がたくさんあり、南洋興発から米の支給があった。個人的にも芋や他の作物を作っていた。
※※が渡航する以前に南洋に来た人たちは土地を所有していたが、※※が来た頃からは土地が無く、南洋興発から土地(五町歩)を借りてサトウキビ作りをした。土もやわらかくサラサラしており鍬やヘラにも土がつかないほどだった。
戦争中の様子
ロタでは徴兵検査はなかったが、戦争になると結局召集されて兵隊の教育を受けた。※※は日本軍の伝達の仕事をした。三〇分から一時間くらいおきに交代で見張りに立ち、空襲がくるとサイレンを鳴らし、どの方向から飛行機が飛んでくるというようなことを報告した。
食べ物には困らなかった。米もあるし畑には自分で作った芋もあった。しかし、日本兵に食料を分けてあげたので戦前よりは少なかった。
壕はあったが、「○○へ逃げなさい」というような指示はなかったので、自分で逃げた。沖縄の人は自分たちが死ぬということを恐れていたが、本土の人は命を惜しまずに自決したり、弾に向かって行く人がたくさんいたと※※は言う。
引揚げ
※※によると、終戦後日本兵が先に引揚げ、民間人は置いていかれたという。※※がロタ島から引揚げたのは昭和二十一年一月であった。ロタ島のソンソンを出発して、一月二十三日に久場崎に着いた。沖縄に着くまで沖縄の人はみんな死んでしまったと思っていた。沖縄に帰ってからは、石川、恩納村宇加地と転々としながら読谷に帰ってきた。
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