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1 南洋出稼ぎ移民の戦争体験
体験記(ロタ)

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 ○佐久川※※(昭和七年生)

 渡航

サイパンにて・自転車と兄と友人
 昭和四年八月一日、父※※がサイパンへ渡り、しばらく後に母、兄、姉を呼び寄せた。※※と弟の※※はサイパンで生まれた。※※が六才の時にテニアンに渡り、その後ロタ島に渡った。下の弟二人はロタで生まれた。ロタではソンソンで住んでいた。

 父の仕事

 ※※の父は沖縄で歯科技工師をしており、歯形を取ったり抜歯を手伝ったりしていた。また、嘉手納で写真屋をしていたと聞いたこともある。南洋では、写真屋、自転車屋などを商い、ロタではヤギ二五〇頭ほどを牧場で飼っていたこともあった。
 サイパンのチャランカで写真屋をしていたとき仕事の規制があった。撮影・現像には検閲があった。スパイ行為がないかどうか警察が全部チェックし、許可をもらった写真だけが現像を許された。

 ロタでの生活

 ※※はソンソン小学校を卒業した。学校の友達に沖縄出身者の男性と島民の女性との間に生まれた男の子がいた。彼は島民学校を卒業してから国民学校に入学してきた。彼のような混血児はたくさんいた。島民の子ともよく一緒に遊んだ。
 島民たちはよくビン集めをしていた。また、日本人に小間使いとして雇われている人も多かった。友達になると島民の方から「○○をするから酒をくれ」と言ってきた。酒を飲ませる事は禁止されていたので親しくなってからしか用事を頼まなかった。
 ※※が小学校六年生の頃から戦争が激しくなってきた。ロタでは米軍の上陸はなかったが、グアムから戦闘機が飛んできて何度か空襲をうけた。艦砲射撃が激しかった。戦前は食料が豊富だったが、日本軍が果物などがたくさんある所に駐屯していたために取る事ができなかった。父と兄が果物を盗みに行って見つかり怒られた事がある。日本兵がたくさんいて、大砲をいつでも撃てるように準備をしていた。避難中に、弾が当たって崩れ落ちてきた何メートルもある大きな岩に潰されて親戚のおばさんが亡くなった。

 防空壕で生活

 ソンソンに住んでいた人たちは第二防空壕(南洋興発がマンガンを採掘した跡でマンガン壕とも呼ばれていた)に避難した。一〇〇人以上が入れる大きさだった。ずっと壕の中にいたわけではなく、各自でトタン小屋をつくって普段はそこで生活し、空襲の時に壕に避難した。※※の家族はトタン小屋のすぐ傍に自分たちで壕を掘って避難していた。サイパンやテニアンが玉砕してからも攻撃が続き、一年くらい空襲が続いた。その間ずっと家と壕を往復する生活が続いた。
 壕の中で共同生活をしている間、元気で動ける人は四時に起きて働いた。例えば、姉の※※ら年上の人達は芋を作ったり、海水を焚いて塩づくりをした。芋はデンプンにして保存した。※※は空襲がくるとサイレンを鳴らす係だった。
 戦時中は、サトウキビ、芋、パンの樹の実、カタツムリなどを食べた。カタツムリ(アフリカマイマイ)は一斗缶の三つ分ほど獲れた。茹でてあく抜きしてからでないと食べられないが、生で食べて亡くなった人もいた。野菜や果物等のなまものを食べて「島民梅毒」と呼ばれる病気になる人が多かった。「島民梅毒」にかかると、熱が出て、出来物ができ、痛かゆくなる。これは治りにくい病気だった。

 引揚げ

 ※※の家族が乗った引揚船はロタ(ソンソン)から出港し、パラオで引揚者を乗せ、昭和二十一年二月一日に久場崎に着いた。越来で一年くらい生活し、その後石川で写真屋をして、※※が二十五歳くらいの時に読谷に帰ってきた。その間家族全員で行動していた。
 南洋からの引揚者の中には、現地の女性との間にできた子供を日本に連れて帰った人もいた。

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