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1 南洋出稼ぎ移民の戦争体験

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 終わりに

 それぞれの戦争体験から浮かび上がってきた特徴を整理してまとめとしたい。

 何故沖縄からの出稼ぎ移民者が多いのか

 苦しい経済状況・長男が渡航

 沖縄からの出稼ぎ移民者が多い大きな要因として、戦前の沖縄の「貧しさ」がよく指摘される。このことは、それぞれの体験談にもよく表れている。特にここで注目したいのは、長男による渡航者が多いことである。沖縄中南部の家族親族関係のあり方の特徴の一つが、ヤー・位牌・財産の長男による独占的な継承・相続であることを想起すれば、長男が出稼ぎ移民になることは、かなりの経済的に貧しい状況があったことを思わされる。つまり、長男であっても親から十分な財産を相続できる状況になかったといえる。
 このような沖縄社会の経済的な状況に比べると、南洋社会はかなり豊かだった。戦前の南洋群島での生活が経済的にゆとりがあったことは、多くの体験談に共通している。

 家族・親戚の結びつきによる出稼ぎ移民

 沖縄から南洋群島への出稼ぎ移民者が多いことは冒頭で触れた。それに加えて沖縄出身の出稼ぎ移民者が多かった社会的な要因として家族・親族の結びつきと村や字レベルの社会関係が注目される。
 渡航する際の状況を聞くと、たいていの場合父親や親戚の誰かが先に渡航していて、しばらく後で家族が呼び寄せられたり、親戚を頼って渡航するケースが多い。つまり、沖縄の家族や親戚の強い結びつきが多くの人々を沖縄から出稼ぎ移民に送り出す要因であったといえよう。さらに、渡航先で村レベルや字レベルの郷友会的な組織の結成にみられるように、地縁関係に基づいた関係によっても出稼ぎ移民者の増加に影響したと思われる。

 「民族」による階層社会

 現在のミクロネシア連邦が発行している切手には、同地域の歴史が刻まれている。その中の「日本時代」を表している切手には「学校」が描かれている。これは、南洋庁が皇民化教育と日本語教育を行っていたことを表している。このような教育はヨーロッパ系の人々を除く当時の南洋群島の全ての住民に対して行われていた。
 このような同化政策の一方で、日本人・沖縄人・島民・朝鮮人というような区別が差別的なニュアンスを含んで存在していた。農業において朝鮮人は「人夫」以上になれなかったし、島民相手に酒を売ってはいけないなど制度的な差別も存在していた。皇民化教育や日本語教育に代表される同化政策と共に「差別政策」があったわけである。
 このような南洋群島社会において、「日本人」の経済的な繁栄は、現地住民や朝鮮人への差別的な扱いの上に成り立っていたといえよう。

 戦争へ向かう社会状況

 住民組織と戦争協力体制

 南洋興発の力が圧倒的だった南洋群島において、企業の組織と住民組織が重複する場合が多かった。さらに、南洋興発と南洋庁との結びつきも強かった。南洋群島社会の特徴は、財・官・民のそれぞれの組織が一体となり、機能的に動くことが可能な社会であったといえる。
 このような中で戦時体制になると、住民組織内で警防団が組織されたり、在郷軍人会との協力体制を整えたりして、住民が戦争体制に組み込まれることが容易な社会環境ができあがっていたと考えられる。

 民間人と軍人の区別の曖昧さ

 このことと関連して、南洋社会では民間人と軍人の区別が曖昧であったことが指摘できる。一九四三年(昭和十八)頃、盛んに現地召集が行われるようになり、多くの住民が軍人・軍属化した。米軍の収容所は軍人用と民間人用に区別されていたが、戦況がひっ迫してから軍人・軍属となった多くの人々が軍人用ではなく民間人用の収容所に収容されることは少なくなかった。

 住民を巻き込んだ戦闘

 沖縄が「唯一の住民を巻き込んだ地上戦が行われた」地域だとよくいわれるが、サイパンやテニアンも多くの住民を巻き込んで地上戦が行われた場所であった。特にサイパンでは、住民が自決したり、自分の子供を殺したりという悲惨な状況があった。このような戦没者に沖縄出身者が多いことにも特徴がある。
 池原※※は家族と共に戦況が激しくなる前の昭和十七年秋頃にポナペから引揚げた。これに対してテニアンの※※や彼の周囲の人々でこんなに早く引揚げた人はいなかった。各島々における引揚げ状況の違いはさらに調査が必要であるが、「絶対国防圏」との関連で引揚げ状況の違いが生じたのではないかとも考えられる。つまり、「絶対国防圏」内の最前線として重要視されていたサイパンやテニアンでは、駐屯する兵隊も多く、兵隊の食料調達のために一般住民が残されたと推察できる。これについては、安仁屋政昭が「『内地引き揚げ』というのは、一般住民の安全をはかるのが第一義ではなく、作戦の足手まといを排除し、食糧を確保するというのが主目的であった」と同様の見解を示している(安仁屋一九九〇・一一一)。

 墓参団と南洋群島帰還者会

 戦前に南洋群島に居住していた人々は、それぞれ島ごとに会を結成している。現在、サイパン会、テニアン会、ポナペ会、パラオ会、ヤップ会、ロタ会が結成されている。これらの会のほとんどが一年に一度、墓参団として南洋群島を訪れている。また、全国レベルの組織として南洋群島帰還者会があり、沖縄にもその支部がある。この組織は、戦前に所有していた財産を敗戦と共に失なった人々がその補償を求めて結成したものである。これは、戦争の傷が現在尚癒されていないことを表している。

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註釈 参考文献・資料

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