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2 フィリピンにおける戦争体験
玉城毅

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 移民の行先

 日本からフィリピンへの本格的な移民が始まるのは一九〇三年である。石川友紀によると、一九〇三年に一四七〇人、翌一九〇四年には一六二六人がフィリピンに渡った 註釈。同年、沖縄から三六〇人がフィリピンに渡航している 註釈。これらの移民には、ベンゲット道路工事の労働者たちが含まれていた。ベンゲット道路とは、首都マニラとバギオ高地を結ぶ山間渓谷三四キロメートル(道路延長四五キロメートル)の道路である。これは、一八九九年にフィリピンの領有権をスペインから奪いフィリピン占領を始めたアメリカ人官僚が、マニラの暑気に苦しみ、バギオ高地を避暑地にする計画の一環で行われた工事だった。ベンゲット道路工事の主力は沖縄県民であった。これらの移民たちの大部分は、後にミンダナオ島ダバオで麻生産を中心とする仕事に従事するようになり、新たな移民者も増加していった。ダバオでも圧倒的に多かったのが沖縄出身者であった。
 外務省発行の「海外旅券下付表」でみると、読谷山村からは、一九〇七(明治四十)年十一月二十七日に、呉屋※※(伊良皆)と照屋※※(座喜味)の二人が初めて旅券を下付されている。読谷山村からフィリピンへの最初の移民である。それから翌年一九〇八年までの二年間で読谷山村から一七人がフィリピンに渡航した。

図-1 フィリピン群島地図

 

表-1 読谷山村からの初期フィリピン移民

年次
氏名(字名)
生年
下付月日
1907年(明治40)
呉屋※※(伊良皆)
明治9年生
11月27日
1907年(明治40)
照屋※※(喜名)
明治14年生
11月27日
1907年(明治40)
與久田※※(座喜味)
明治8年生
12月23日
1907年(明治40)
外間※※(座喜味)
明治14年生
12月26日
1907年(明治40)
福地※※(渡慶次)
明治21年生
12月27日
1907年(明治40)
波平※※(座喜味)
明治14年生
12月26日
1907年(明治40)
野波※※(座喜味)
明治7年生
12月26日
1908年(明治41)
金城※※(座喜味)
明治6年生
12月26日
1908年(明治41)
玉城※※(儀間)
明治21年生
1月31日
1908年(明治41)
上地※※(伊良皆)
明治24年生
1月14日
1908年(明治41)
冨着※※(伊良皆)
明治16年生
1月10日
1908年(明治41)
呉屋※※(伊良皆)
明治24年生
1月31日
1908年(明治41)
照屋※※
明治14年生
1月18日
1908年(明治41)
新垣※※(伊良皆)
明治13年生
1月14日
1908年(明治41)
宮城※※(伊良皆)
明治22年生
1月31日
1908年(明治41)
島袋※※(古堅)
明治22年生
1月28日
1908年(明治41)
知花※※(長浜)
明治22年生
7月23日
1908年(明治41)
知花※※(長浜)
明治23年生
7月23日


注:照屋※※は二度下付されている。
(「海外旅券下付表」をもとに作成)

 

 戦前(明治四十年〜昭和十六年)の読谷山村からフィリピンへの渡航者数全体は六四六人にのぼる(「海外旅券下付表」)。一九二五年(大正十四)を境に増加する渡航者の行先はその大部分がダバオである。年によって増減があるのは、ダバオの主産業であるアバカ麻景気に影響されていると思われる。

図-2 読谷山村からの年次別フィリピン渡航者数


(「海外旅券下付表」をもとに作成)


図-3 字別フィリピン渡航者数


(「海外旅券下付表」をもとに作成)


 フィリピン渡航者を字別でみると、長浜が一二五人と最も多く、読谷山村からフィリピンへの出稼ぎ移民者全体の約二〇%を占めている。次いで波平の九八人(約一五%)、座喜味の六九人(約一一%)となっている。

 ダバオの日本人社会

 一九〇四年十二月、マニラで雑貨商をしていた太田※※は、ダバオの肥沃な土地に目をつけ、日本人入植者を募って麻生産を始めた。アバカ麻あるいはマニラ麻と呼ばれる商品は、主に船舶用のロープの原料として使われ、多くの需要があった。太田は、一九〇七年にはダバオの日本人社会における最大の企業、太田興業株式会社設立に至る。
 一九一〇年代以降、日本人移民は増加した。一九一六年には一万人に達し、太平洋戦争開始前の一九三九年には一万八〇〇〇人となった。鶴見良行によると「軽くて水に強いアバカ麻は船のロープが最大の需要先だったから、第一次世界大戦の勃発とともに価格が高騰」註釈 し、それと平行して日本人移民と農園の開設が激増した。後に日本人町となるミンタルは、太田恭三郎がバゴボ族の首長インタルと話をつけて獲得した土地である。地名でもあったインタルに太田は、「多くの日本人が留まるように、との願いをこめて『民多留』の漢字をあて、そう呼ぶように習慣づけ、実際にそれが通用するようになった」註釈

図-4 ミンタル邦人集落


 当時のミンダナオ島の大部分は未登記の土地であったが、主要な住民であったバゴボ族やアタ族に関わりなく、直接アメリカ人官僚に申請し払い下げてもらい、土地を利用していた。これが、後に日本人と現地の人々との関係の悪化を招くことになった。
 一九一〇年代以降、日本人殺害事件が頻発するようになり、一九一八年の景気の絶頂からの四年間に殺害された日本人は一〇〇人を下らなかった。ダバオで太田興業と共にアバカ麻産業を二分していた古川拓殖株式会社の設立者古川義三は、「邦人農事会社が公有農地の租借を請願し、その土地の中に住んでいたバゴボ族と旨く話がつかず、かれらを追いだして恨みをかった」註釈 と述べている。
 フィリピンの支配層やアメリカ人官僚にとっての土地問題は、日本の植民地主義的膨張をいかにして防ぐかという形で論じられた。アメリカの報告書には、ダバオの日本国総領事館分館を満州国のマンジュウクォにならってダバオクォと皮肉的に称するようになっていた 註釈
 このような現地人との摩擦にもかかわらず、ダバオの日本人社会は経済的発展を遂げた。一九三五年頃のダバオの人口の約八%に過ぎなかった日本人が、国税と地方税の半分を納めていたといわれるほど、ダバオの麻農園は成功を収めていた。
 麻農園では、フィリピン人労働者一万二〇〇〇人以上が直接雇用され、 間接的にも多くの職場を提供していた 註釈。古川義三は、開戦までの日本人のダバオ投資を五〇〇〇万ドルと推定している。その内訳は、事業会社‥六〇〇万ドル、自営者を含めた麻園‥三五〇〇万ドル、椰子園‥二〇〇万ドル、林業‥三〇〇万ドル、小売商‥三〇〇万ドル、工業‥一〇〇万ドルの合計五〇〇〇万ドルである 註釈
 一九四一年の邦人自営者は約四〇〇〇戸、これで三万ヘクタールの麻園を経営して、年産四五万俵に上る優秀マニラ麻を生産し、この自営者の大部分は充分快適に生活の出来る住宅を所有し、動力ハゴタン(麻繊維採取機)、発動機、フィリピン労働者を収容し得る設備を持っていた 註釈
 鶴見良行によると、日本人社会の主な施設は、日本領事館(一九三〇年開設)、小学校が一三校、病院が四つ、報道機関は日比新聞社、それに仏寺五か所と天理教会、キリスト教会があった。さらに、麻園以外の職業として、林業、製材業、漁業、牧畜、野菜栽培、製氷、みそ、しょう油、うどん、そうめん、豆腐、酢の製造、写真屋、トタン屋、鉄工所、薪炭商、タクシー営業、旅館などを日本人は営んだ 註釈。さらに、日本の東南アジア進出に伴って広がった「からゆきさん」については、ダバオで一九一七年(大正六)に一三の売春宿が登録され、日本人会、領事館の圧力が高まると、フィリピン人の名義を借りて偽装したりしたが、一九二五年には全廃された 註釈

 ダバオの沖縄県人

 ダバオの日本人農園には沖縄からの移民が多かった。戦争直前の時期には、沖縄県人は日本人移民全体の約七〇パーセントを占めるようになっていた 註釈。沖縄県人が多い理由として、初期のベンゲット道路工事労働者に沖縄県人が多かったことと、太田興業の幹部に沖縄出身の大城※※がいたのがその一因であると古川義三は述べている 註釈。その他には、ルソン島のマニラを中心とした糸満人(チュ)の漁業移民をはじめ、セブ、パナイ島、イロイロ市、ネグロス島、レイテ、パラワンにも沖縄県人は移民している 註釈。読谷山村からフィリピンへの移民は、マニラ麻が好景気であった一九二九年(昭和四)に一二七人が渡航している(図―2 読谷山村からの年次別フィリピン渡航者数参照)。
 日本人移民社会の中で沖縄県人は差別的な扱いを受けていた。マニラ帝国総領事館ダバオ分館副領事が外務省に提出した報告書「ダバオに於ける沖縄県移民の長所及び短所欠点」に次のような記述がある。

「一、他県人に比し、文化程度劣等なり。
二、ローカルカラー濃厚なり。
三、ブタ小屋式家屋に群居し、蛮族と選ぶ所なきもの多きは、比人の軽侮を招くの因なり。
四、婦人にして居住浴衣着に、細紐を胸高に絞むるものあり、見る者をして、自堕落さと女の嗜みを欠くるやを疑わしむ。
五、同郷相憐むの情あるも、他県人との協力性少なし。
六、金銭に齷齪(あくせく)たる結果は、側目もふらずそれを猛進し、社会公共の念なきを疑わしむ。
七、利己主義にして、利害の念強く道義の観念薄し。
八、頑迷にして猜疑心不覚、常識を欠き道理を解せざるもの多し。
九、農業の真趣味を解せず、農業を商業的投機取り引きと同様に扱わんとするの弊あり。たとえば、開墾を終わりて農耕するを為さず、一種商品として転々売買すること。
十、片仮名・平仮名を読了し得ざる普通学の素養欠如せるもの多し。
十一、婦人の教養最も劣等なり。
 『オキナワ』または『オートロ・ハボン』(特殊日本人)と称して、内地人と異なるものの如く感情を懐かしめつつあるは目下の実状なり」註釈

 このような差別と偏見に満ちた状況の中での沖縄県人の暮らしぶりについて、古川義三は次のように描写している。

 「第一次不況時代即ち一九一九年から日本人はダバオを見くびつて多数帰朝し、或はダバオ以外の地に転向したが、沖縄県人だけは至極平気で止まった。それもその筈で、ダバオの不況は沖縄の最好況時よりも、遥かに良いということで、かかる地方の人こそ熱帯未開地の開発には最も適する訳である。一部の日本人はダバオの不況時代に、なんの因果でかかるところに来たのか、運が悪かったと気を腐らしたが、沖縄県人は蛇皮線を弾き、好きな豚肉を味わい、平気で暮らして大きな勢力をなした。天は誠に公平で恵まれないと見える者にもまた与えられるところがある」註釈

 沖縄出身者は県人会を組織し、結束して差別的な状況に対抗した。沖縄県人会は領事館、太田興業、古川拓殖、自営者の更正会と並んで、ダバオにおける日本人社会の五大勢力の一角であった 註釈。このような同郷の会は、字レベルでも存在していた。字喜名出身者は、喜名同志会を結成し、正月を祝ったり、新たに移民が来たときやメンバーが出産したときなど、共に祝った。字長浜出身者は、長浜親善同志会を結成し、読谷山の母村に手回しサイレンを寄贈している。フィリピンで両親を亡くした子どもを、同志会で寄付金を集めて、故郷に帰したこともあった。

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