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2 フィリピンにおける戦争体験
体験記

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 ○二度の戦争に巻き込まれて

 知花※※(明治四十年生)

 移民を決意

 私は一九二九年(昭和四)六月、自由移民としてフィリピンに渡った。当時は新聞広告や、移民会社の勧誘者を仲介として個人個人で移民していた。
 移民することを決めた理由は色々ある。こちらには畑もたくさんあって、親父は人も雇っていた。ただ問題は、親父が区長をしていたため、私もその手伝いをする羽目になり、うちの畑仕事が出来なくなったことだった。字では村芝居などもあったから、結構忙しく立ち回っていた。それが十七歳から二十代前半、もう真っ盛りの頃だった。
 フィリピンに渡ったのが二十四歳の時だ。金は無いし、結婚して子どもも出来ていたが、小遣いもない状態だったから、これじゃいけないと思って、親父に頼んで行ったわけだ。
 渡航には四〇〇円の費用がかかった。当時、成牛一頭が四〇〜五〇円、学校の校長先生の月給が四〇円から多くても六〇円だったので、渡航費四〇〇円を捻出するのは簡単なことではなかった。しかし、向こうへ行けば、月々四〇〜五〇円、当時の校長と同じくらいかそれ以上稼げると聞いて多くの人がフィリピン・ダバオに渡った。

 移民当初の仕事

麻挽き工場の動力ハゴタン(太田興業株式会社)(昭和15年刊行『ダバオ開拓三十五周年記念写真帖』より)
 那覇港から神戸へ行き、そこからフィリピン行きの船に乗った。セブ、イロイロ、サンボアンガに停泊しながら、ようやくダバオに到着した。当時、ダバオ州リバーサイドには、読谷の人が多く住んでいた。波平や座喜味出身の人たちもほとんど、あの近くでしたね。あっちは広いから、三キロ先ぐらいまでは隣組だった。
 一九二九年(昭和四)に渡航したが、初めは麻畑の草取りを請け負って働いた。一年くらいは草取りをしていた。それから、三〜六名のグループを作って麻挽きの仕事に就いた。麻挽きは機械と対抗する仕事だからね、グループを作らないと一人ではできない。そうして、初めは請負人という形で住み込みで人に使われて、月給をもらって生活を立てていった。ぼつぼつではあるが金を貯めて、一九三四年(昭和九)になってようやく家族を呼び寄せた。

 麻山を買う

 妻子を呼び寄せてしばらくして麻山を買った。麻山と呼んではいたが、麻畑のことだ。向こうでは麻山を買わないとお金を作れなかった。山を買って、現地の人を使って麻を栽培した。現地の人は安い賃金で仕事をしたので、自分の麻山を経営するとたくさんお金を作ることができたのだ。私もようやく自分の山を買うことができ、これからがんばっていこうと思っている時に、戦争になった。
 移民に来ていた沖縄の人は多かったので、中には現地の人を妻にして子どもをもうけて家族で暮らしていた者もいた。戦後こっちに来たフィリピン人妻もいるよ。

 学校へ監禁される

 戦争が始まるまでは、日常の生活で困るということは何もなかった。同じ頃の沖縄での生活とくらべると、大分豊かな暮らしだった。ところが、昭和十六年十二月、日本がアメリカと戦争を始めてすぐ、日本人は学校に監禁(収容)された。トラックに詰め込まれて運ばれたのだが、その時フィリピンの人たちに「日本人は殺せ、殺せ」と言われた。また小さい子供に石を投げられた。そして私たちは学校へ、子ども達は病院へと家族は別々の場所に収容された。
 学校の教室に八〇名、九〇名と押し込められてね。どうにも出来ない状態で、衛生状況も悪いし、病人もたいへん増えた。運動場にもベニヤ板を張った仮小屋を作って、寝泊まりしたり、また運動場にあった物見台みたいな所でお産した女性がいるという話も聞いた。
 便所へ行くにも、銃を持った監視人が一〇〜二〇名づつ列を作らせて、用足しをさせたわけだがね。そういうことで、トイレを我慢して、病気になる人もいたくらいだ。また若い女性を、フィリピン人に引っぱられていっては大変と、母親は必死に娘を隠していた。
 現地の人の日本人への敵愾心というのは強いものだった。米軍からのビラが撒かれて「戦争が起きている」とか、日本事情の悪宣伝もしておったから、ひどかったよ。食事もね、一日に二食で、豆腐豆に米を混ぜたものか、米に豆腐豆を混ぜたものかという程のもので腹もちはよくなかった。だからそこを逃げ出して捕まったのもおるし、逃げおおせてもまた捕まるのが関の山さ。
 フィリピン人の監視員は、校舎の裏で日本人にパンを売ったりしていた。沖縄でもあった終戦直後の闇商売というのと同じ。自分の金儲けさね。また、日本人に対して「あの時はひどい仕打ちをしてくれた」と恨みを抱いているフィリピン人が、その日本人を虐待することもあった。恨みをかっていた者が棒で殴られたとか、足をくびって股を裂かれたとか、そういう話を聞いたがね。そんな生活が一〇日間ぐらい続いた。こんな状態が、あと一週間も続いたら全滅といわれたぐらいだった。

 皇軍が来る

 一九四二年(昭和十七)、皇軍がやって来た。私は寝床から頭をもたげると、向こうから戦車の日の丸が見えてきた。「日の丸だ、日の丸だ!」と、みんな飛び出して「万歳、万歳」と叫んだ。もう救われたということだ、あの時の万歳というのは。
 当時の状況を思い出したら、日本の軍隊に対して有り難いなと思う。誰からともなく「君が代」を歌い出したら、みんな泣きながらそれについて歌った。
 あれから今度は日本人が暴れ出して、フィリピン人の監視員達を、棒を持って追い回した。そのうちの一人がみんなの前に引っ張り出されて、蹴っとばされたり、殴られたりした。「こいつは早く殺してしまえー」っていうのもおるし、「長らく苦しめてから殺せ」というのもおるし、まちまちだった。私たちが見た時は倒れて、もう虫の息で、死にそうになっておった。
 日本兵が来てから、悪さした奴を捕まえてね。みんなの前に引っぱって来て「これは良かったか。これはどうだったか」って聞いて。「これは殺してやれ」っていうのは捕まえて、ヤシの木にくくりつけて、即射殺。あれがね、もう、気の毒だがなーと思って。戦というのは本当にひどいよね。

 予想外の徴用・召集

 戦争というのは、もう話にならない。日本がアメリカに宣戦布告して、私たちは監禁されて、今度は日本軍が来て解放されて、自分の家に戻されて仕事をしていたが、また今度は軍から徴用されたんだからね。麻山の仕事にも支障をきたして大変だった。徴用も一回ではないよ。陸軍の飛行場、海軍の飛行場、三か月に一度、期間は一か月間で交代だった。徴用といっても軍隊生活さ。軍隊の訓練を受けてから飛行場作りにかかったからね、兵隊と同じさ。
 戦争になるまで、フィリピンに日本の兵隊というものはいなかった。まあ、いないというのが当然であった。若い者は特に、沖縄にいては召集令状が来るから、移民してそれを免かれようという気持ちでね、それで兵隊に行くより移民する方がいいといって来た連中が多かったんだよ。
 ところが、フィリピンでも戦争が始まって、だんだん日本が負けてくるとね、移民した者がどんどん現地召集されたわけ。だんだん生活は厳しくなっていくし、その時はね、それはもう無惨で、話にならんですよ、戦争の時は。

 地上戦

 フィリピンでの戦争は、一回では終わらなかった。フィリピン人は、アメリカ軍に訓練されて、夜ゲリラ戦でやってくるわけ。だから終わりというのがないまま続いていて、あちらこちらにゲリラがいて、それぞれいつ出てくるかわからないという状況だった。
 日本人もまた、軍からの命令でね、自警団を組織して逆にゲリラを追っぱらったりしたわけだが。それで、お互いに敵愾心というのが大きくなっていくわけ。敵愾心というのはやっぱり両方にあるわけさね。ひどい事もしたしひどい目にもあった。だから、戦争というのは、その時になってみないと分からないだろうな。
 戦争が終わる頃、アメリカ軍がやって来た。それまでは、司令官はアメリカ人だったが、兵はフィリピン人だった。アメリカ軍がフィリピンに上陸してからは、さらに大変だった。沖縄戦の体験などを聞くと、山原に逃げたと聞くけど、私たちは戦が二回あったのと同じだからね。昭和十六年、日米開戦したら学校に監禁される、また日本軍が上陸したら開放される、また日本軍が負けて、何もない山の奥に追いつめられた。食べる物もないし、もうどこにきているのかも分からないほど山奥へ。米軍上陸後、捕虜となってまた監禁される、これが繰り返し繰り返しね。そしてその度に荷物も着物も食べ物もなくなるさーね。

 再び学校へ収容・引揚げ

 アメリカ軍の捕虜になって、また学校に集められた。そこで、せっかく儲けたお金も、所持品も全部没収されてしまった。もう着の身着のまま、何にもない。この時も家族とは別々で、妻と四人の子どもたちは、別のところに収容されていた。その後、ダリアオン収容所のテントに移され、そこから日本への引揚船に乗った。
 それと一番ひどかったのは、帰る途中の船の中。これはやっぱり日本人がやったことだが、私達が乗った船には食料はあるが、不十分な配給で、みんなお腹を空かせていた。そして船の中で食料を盗って食ったことが見つかった人がいて、みんなが「泥棒だ、泥棒だ」と騒いだ。その人は「私が缶詰めを盗んで食べました」と胸に赤字で書かれて、一日中甲板に立たされていた。もう恥も無いくらい、腹が減っておったんだからね。死ぬか、生きるか瀬戸際になっておるんだから、盗んで食うのも当然でしょう。なんでここまで、ひどいことするのかと思ったがね、何も言えなかった。あの時分は、人間ではなかったのではないかと思う。

 戦後、外地引揚者協会の支部長に

 昭和三十二年五月に「引揚者給付金等支給法」が公布され、同年十一月末頃から沖縄でも各市町村で、給付金請求事務が始まるようになった。私は読谷村の支部長となって、事務面での仕事に携わった。フィリピンからの引揚者だけでなく、台湾、サイパン、あと南洋のテニアンとか、パラオ、ロタ、ポナペ、朝鮮、シンガポール、満州など世界中からの引揚者が対象だった。個人申告だったので、はっきりとわからないところも多かった。
 各地からの引揚者と直接会っていろいろと調査をしたから、聞いた話は、いくら話しても尽きない。親を亡くした人もいたし、子どもを亡くした者もいて、家族全員無事で帰ったというのは、ほとんどいないからね。
 たとえば波平の人では、フィリピン、ダバオで戦争勃発当時に六五人もおったが、当時引揚げてきたのは二〇人くらいしかいなかった。三分の二も帰ってきていないのに、それが誰なのかわからない。
 各字ごとに調査員がいて、各字民の引揚状況を調べた。これが調査するたびに人員が違う、何度も足を運んでやっていた。事務手続きが煩雑で曖昧なところがあり、何度か投げ出したくなったが、後でまた悔いが残ってもと思いなおして取り組んだんですよ。
 比謝矼の新崎※※が副会長で、大木の長浜※※に引継ぎしたが、彼らは亡くなってしまって、また私のところへまわってきた。今はサイパン引揚者の新垣※※(儀間)が連合会長をやっているがね。本部が解散するまで、きちんとやるべきことはやっておこうという気持ちで彼らも今がんばっているのでしょう。
 読谷村からは、私の知る範囲では全体で八〇〇〜九〇〇人ぐらいが、戦前海外に出ていた。そして全ての人達が読谷に引揚げてきたというわけじゃないし、石川に留まった人などは、向こうで手続きをして見舞金をもらった人もいる。だから人数は完全ではない。全員が必ず読谷村に引揚げてきたのならわかるが、引揚げた場所も時期も別々ですからね。
 引揚げの時期にしても、もう事務手続きが終わったころにボツボツ帰って来る者もいるしね、二世が帰ってくるしね。もう来ないよと言いながら一〇年くらいしてから帰ってくるのもいるしね。また届出は義務ではないから、出さない人もいる。移民者や引揚者の正確な人数は、どんなに苦労して調べても確実ではないね。
(一九九一年十一月聞き取り)

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