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2 フィリピンにおける戦争体験
体験記

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 ○太田興業社員から衛生兵へ

 松田※※(大正九年生)

 父の呼び寄せでフィリピンへ

 私の父、松田※※は一九二九年(昭和四)頃、「自由移民」としてフィリピンへ渡った。当時、読谷山村出身の神谷※※がいた那覇の移民会社を通して渡航した。最初に父の兄(次男)が行って、次に三男、そして四男である私の父が渡航した。最初、フィリピン行きに申し込んであったのは長男だったが、家族の考えで長男は沖縄に残ることになった。父達兄弟三人は、ダバオのタロモリバーで麻栽培をしていた。フィリピンで稼いで、成功して沖縄に帰るつもりだったと思う。
 日中戦争が始まった年、一九三七年(昭和十二)の十月、十七歳だった私は父の呼び寄せを受け、フィリピンへ渡った。自由移民として行けるのは十八歳からなので、呼び寄せという形になった。呼び寄せられたのは私一人で、他の兄弟は行かなかった。

 ダバオでの生活

 沖縄とフィリピンの気候はだいぶ違う。フィリピンでは、沖縄よりも農作物が採れるのが早かった。また当時のダバオは日本人が多かった。そのほとんどの人が麻栽培をしていた。沖縄から麻栽培に行った人は、大抵は、初めはどこかに雇われてお金を貯めて、自分の麻山を手に入れるという具合だった。フィリピン人から土地を買うかあるいは賃貸借契約をする、そうでなければ日本に帰る人から土地を買って確保した。麻山での仕事は厳しいが張り合いがあり、がんばった分だけ稼ぎがあった。例えばダバオで一比ペソ儲かるということは、日本のお金では二円の価値があった。
 フィリピンには御馳走もたくさんあり、食べ物にかけては世界一だったんじゃないかとさえ思うほどだった。現代とあまり変わらないほど、米、魚、肉、野菜など何でもあった。それに比べて当時の沖縄では、お米が食べられるのは金持ちの家ぐらいで、普通は芋を主食にしていた。
 ダバオでは物価が安かった。かつおは一キロ五銭くらいだった。沖縄からマニラあたりに行っていた人は、漁師をやっている人が多く、かつおは糸満の海人(ウミンチュー)から買っていた。魚は、熱帯地なので沖縄のものほどおいしくはないが、種類が豊富だった。昭和十五年が紀元二六〇〇年にあたり、その奉祝祭も催された。ここではまだ戦争もなく、その頃までの生活は良かった。

 「喜名同志會」

 フィリピンには日本人会があり、日本人会館もあった。読谷山村人会はなかったが、各部落で会をつくっていた。喜名出身者は、「喜名同志會」を組織していた。当時の会員は子どもを除いて二七名だった。
 同志會では、正月や、「新移民」が来た場合、子どもを出産した場合、「呼び寄せ移民」で奥さんを連れてきた場合など、みんなでお祝いをした。喜名の人は主にタロモリバーに居住していた。戦前の喜名は「ムラウチ」と「通り」に分かれていたが、フィリピンでは特に区別はしていなかった。また喜名出身者が兵隊に行くときには、日の丸に「武運長久」などと寄せ書きした。
 読谷の人が兵隊として何度かフィリピンに来たようだが、会うことはできなかった。座喜味の島袋という海軍の人ともう一人か二人来ていると聞いて、読谷の人だから歓迎しようと思ったが、軍の機密だからということで会うことはできなかった。

 太田興業へ就職

 フィリピンに渡ってしばらくして、私はタロモリバーの太田興業株式会社に勤めるようになった。それは言葉(当時フィリピンで使われていたスペイン語)を覚えるためという理由もあった。太田興業に勤めていた読谷山村出身者は五、六人いる。亡くなった大木の長浜※※、九十歳あまりの伊良皆の呉屋※※、旧役場のそばにいた大城※※、長浜の當眞※※(後にフィリピンで戦死)、知花※※たちと一緒だった。
 太田興業の支社は、五耕地に一つの割合でタロモリバー、ミンタル、ウダ、ビヤオなど各地域にあった。太田興業での仕事は主に麻栽培であったが、色々な仕事があった。私の場合朝起きたら、まず支配人の馬に鞍を掛ける。それから会社の用事であちこちに行かされた。いい天気だと自転車で行くが、雨が降ると自転車では通れないので馬に乗って行った。
 会社で何十人かのフィリピン人を作業に出したり、鐘を叩く仕事を任されていた。給料は最初入ったときが(昭和十二年)一日現地通貨の八〇銭で、これは沖縄では価値が倍になるので一円六〇銭に相当した。当時の沖縄での日当金は、成人男子でも五〇銭程度だった。
 会社の用事の場合には私が行っていたので、当時フィリピンにいた読谷の人はだれがどこに山を持っていたとかはほとんど分かります。カリナン小学校の先生をしていた新崎※※(新崎さんは私がフィリピンに渡航する頃は喜名の読谷山村役場にいた。私の家が役場のそばなので顔見知りだった)や、散髪屋をしていた伊波※※、長浜※※、波平※※、他にもたくさんいました。

 日米開戦

 一九四一年(昭和十六)十二月八日、真珠湾攻撃の日にフィリピンでも戦争が始まった。その日、私はフィリピン人を麻山に草刈りの仕事に行かせていた。そこから少し離れたところで空襲が始まり、フィリピン人がみんな帰ってきた。「何で」と聞くと「ああやってバンバンするから今日は仕事できない」と言う。「いや、あれはアメリカのプラクティスなんだよ、演習だよ」と確信はないがそう言った。しかし、フィリピン人は戦争が始まったことをある程度わかっていたらしく、「今日はもう休みます」と言って帰った。
 支配人のチクニ某(静岡県出身)が私を呼んで、「あんたはすぐ、カリナンへ行って非常糧秣(非常用の食料)を買ってきなさい」と言った。一〇〇ペソを持って、カリナンにある太田興業の店へ行った。そこで食糧を買い、トラックに積み込んだところ、そこへ米兵とフィリピン兵が接近してきて、私はすぐに捕らえられた。

 日本人は捕虜に

 そのままマラーゴスという兵舎に連れて行かれたが、そこでは収容できず、カリナン日本人小学校に移された。しかしそこも日本人が一杯で収容しきれず、ようやく夕方になってからダバオのフィリピン・ハイスクールという所に連れて行かれた。
 翌十二月九日になって、五十数人収容されていたところに、収容者全体に一皿だけの朝食がきた。ご飯は少ないので、さじで食べると不足する。だから一人一人、指三本でつまむだけということにして、みんなで分けて食べた。収容所内にはいくつかの班があり、私達の班の責任者は日本人の田辺という人だった。
 その頃、ダバオのフィリピン・ハイスクール収容所で犠牲になった日本人が八人いる。彼らは靖国神社に祭られたようだ。
 この時期は、日本人学校で国旗を揚げる時も、アメリカの旗を揚げていた。その時は本当に、アメリカから侮辱されていると感じたものだ。

 日本軍上陸、収容所からの解放

 昭和十六年十二月二十日、日本軍がフィリピンに上陸してきたという情報が入った。その時になってようやく、それまでに犠牲になった四九人(子ども一人を含む)の日本人を、薪を重ねて一度に火葬した。この四九人は十二月八日以降、米比軍の銃撃で亡くなった人が多かったと思う。二十日の晩から焼いて次の日に収骨した。「間もなくここにも日本の兵隊が助けに来る」という心境だった。
 十二月二十五日、私達の収容されていたフィリピン・ハイスクールが面する道路上に遂に戦車が来た。戦車の傍らには若い中国人の通訳がいて、現地人に向かって「アーモーベニ、アーモーベニ(先生のように偉い人が来たという意味、つまり偉い日本軍が来たという意)」と叫んだ。私は収容所の窓から見ていたが、隊長らしい人が戦車の円蓋を開けて「日本人はいないのか」と言ったので、「ウネヒャー、日本人ヤシェー。日本の兵隊がチョーシェー」と大喜びした。それからはもう立場が逆になって、日本人が棒などを持ってフィリピン人やアメリカ人に襲いかかった。収容所を警備していたフィリピン人が私達の目の前で銃殺された。
 日本軍が上陸してきたことが分かってからは、日本人は万々歳でした。収容されていた日本人は周辺に警備しているフィリピン人と戦い、兵隊も民間人も混じって大混乱となった。そんな中で、日本の兵隊はフィリピン人と日本人の区別ができなくて、「日本人はハチマキをしなさい」という命令が出たほどだった。

 日本軍政下でのくらし

 収容所から出た後は、自分たちの耕地、いわば自分たちの部落に帰った。家畜を全部失っていたので、すぐ仕事にかかることはできなかった。
 日本軍が上陸してからは在フィリピンの日本人義勇隊が組織され、訓練を受けた。その中でも読谷の人はよく活躍していた。儀間出身の新垣さんは軍隊の指揮をとらせると、とてもうまかった。
 義勇隊は地域によって集められた。私の居たタロモリバーには四分隊くらいが組織された。一分隊は二〇〜三〇人くらいだった。その中には内地の人も沖縄の人もいた。フィリピンの日本人人口のうち七割近くは沖縄県民だったから、義勇隊員も沖縄の人が多かった。
 日本軍が上陸した直後は、畑も荒らされているし、ほとんど食料が無くなっていた。私はフィリピン人のトウモロコシ畑の食料調査を命じられた。義勇隊は銃を持っていたので、食料調査という名のもとに、フィリピン人からトウモロコシを徴発してくる任務だった。義勇隊の組織では、第一線は警備にあたり、後方ではトウモロコシ徴発の任にあたった。
 その後、日本軍がフィリピン各地に飛行場を建設し始めた。私も徴用され、飛行場作りに行った。軍の計画通りに、ササ、マテナ、ダリアオン等に続々と飛行場が建設された。私はササとダリアオンに行った。徴用から帰ってきたら、またすぐ徴用された。軍へ協力する仕事が多くなり、自分の麻栽培とか、その他の仕事には支障をきたした。
 義勇隊をいつ頃解散したのかは記憶にないが、一段落すると解散になった。そして一時的に平和になって、また麻栽培に従事したり、それぞれの仕事に専念できるようになった。敗残兵がいるところには守備軍がいたが、その頃には会社でも平常業務を行っていた。

 衛生兵として軍病院へ配属

ミンタル病院(昭和15年刊行『ダバオ開拓三十五周年記念写真帖』より)
 昭和十七年一月二日の日本軍のマニラ占領以降、十八年頃までは日本が戦争に勝っていたので、日本人の絶頂期だった。戦争は日本が勝っていたから、何も恐くはなかった。自分たちのしたい放題で、どこへ行っても、何も怖がる必要もなかった。思い出せば良いこともあったし、悪いこともあった。「イクサハナアシビ」と昔はよく言っていた。いくさをしながらも、楽しみも苦しみもあるものだ。
 昭和十八年十月頃だったか、フィリピンが日本の軍政下で共和国として独立、ということになった。その時までは、日本人はどこに行ってもいばって歩いていた。しかし、独立をしてからは、フィリピン人が各地でゲリラ戦を起した。
 昭和十九年五月頃、私は徴兵検査を受けて合格した。入隊するまで少し期間があった。検査後も、まだ飛行場作りには徴用されていた。昭和十九年九月二十三日に仮入隊して、十月一日、ミンタル病院で本入隊した。軍隊では衛生兵として軍病院に配属された。私の所属した隊の、野上小隊長は少尉で軍医、久保田中隊長も軍医であった。もう少し戦争が落ち着いている時期なら、熊本に教育訓練に行かなければならなかったが、その頃には船舶の航行もままならず、現地召集、現地入隊であった。

 戦況悪化

 昭和十九年十月二十日、フィリピンのレイテから米軍が上陸してきた。この日からフィリピンは再び戦場になった。
 昭和二十年五月一日、カリナン近くに爆弾が落ち、私はすぐ近くのゴミを捨てる穴に吹っ飛ばされて助かった。その日一日は耳が聞こえなかった。大分県出身の和田上等兵は、ひどく負傷したので外科のほうに連れて行かないと治療できなくて、担架で運んだが、一時間くらいしたら息を引き取った。私たちが穴を掘って埋葬した。
 今でも五月一日は忘れもしない。爆弾で吹っ飛ばされるし、自分の戦友が自分の目の前で死んだのは今思い起しても辛い。それからは、何回も危ない目にあった。B29やノース・アメリカンという飛行機が隠れ場所もないくらいに爆撃、機銃掃射していた。五月一日にカリナンを離れ、タランドに行ったが、そこも危ないということで、すぐタモガンへ移動した。山中で腹に千人針を巻いたまま死んでいる日本兵をよく見かけた。その頃米軍が沖縄に上陸するという情報もあった。「沖縄の近海には、鮫や人食い魚がいるから、米軍は上陸できないだろう」というようなデマが流れていた。
 陸軍病院関係者は、あちらこちらに分かれていたが、生き残ったのは私達のグループだけだった。

 日本の無条件降伏、そして病院解散

 昭和二十年八月十五日、日本の無条件降伏は山の中で聞かされた。日本人は兵隊も民間人も戦争が激しくなるにつれ、どんどん山の奥に追い詰められていた。その時まで部隊はまだ解散していなかった。部隊の生き残りは一四名だった。その日、山中で久保田中隊長が訓示をするときに、「だめだ」とばかり言って、涙を流して通知文書もろくに読めないようだったが、私は戦争は負けたということがわかった。司令部のほうには無線があったと思うが、山の中にいた私たちの部隊にはなかった。司令部から日本は無条件降伏したという情報があり、それがどうやって伝えられたのかはわからないが、ちゃんと敗戦当日に報告を受けた。
 山の中ではあちこちに小屋を作って、そこを病院にしていた。部隊はタモガンから三四キロ地点で病院を解散した。患者にも糧秣を分配して、「衛生兵が面倒見るのは、今日までですよ。もう、明日からは自分の自由にして下さい」ということになった。歩ける患者はそれぞれ思い思いのところに行き、負傷して歩けない患者はその日のうちに自決した。
 形の上では戦争は終わっていたが、フィリピンではゲリラ隊がまだ戦闘を仕掛けてきていた。

 投降前に食糧を

 山中では食糧がなくて大変だった。フィリピンには「モロ」などいろいろな部族がいるが、その中に「バゴボ」という部族がいる。私は、山奥で戦況を把握していない彼らの所へ行き、そこで食料を集めようと考えた。私はスペイン語には不自由しなかったので、なんとか交渉できると考えたのだ。中隊長に「明日、武装解除するまでのみんなの食料を集めてきます。後方に下がるとしてもアメリカ軍のいる所まで行くのには歩いて数日かかる。それまでの米がなければいけないので」と申し出た。中隊長から「お前一人行ってはだめだ。だれか連れて行きなさい」と言われた。しかしその時は、いつ死ぬかという状況で恐いということはなかったので「僕は一人で行きます」と言って、銃を置いて食料を求めに出かけた。
 その日のうちに山奥にいるバゴボ族のところまで行った。彼らと「後で武器をあげるから」と取引して、必要なだけの食料を集めた。たとえ取引が決裂しても、武装解除される場合には、アメリカの捕虜として収容所に入っているだろうから、彼らに攻撃されることはないだろうと考えた。
 その夜はバゴボ族のもとで泊めてもらい、翌日米を持って部隊に戻った。米軍のいるところに行くまでの食料はこれだけで足りるから、と部隊全員一四人に分けた。今まで兵隊だった者が武装解除するということは、軍装も全部検査されて、捕虜になるということだった。久保田中隊長は「自分たちは、いくさに負けたが日本人には間違いない。アメリカ人に一匹のシラミも見せるな」と言った。明日はどうなるかわからない。無条件降伏で捕虜になるのだから殺されるかもしれないし、生かしてくれるかもしれない。それで入浴、洗濯してから山を下りることになった。そうして私たちは身なりを整え、白旗を揚げて山を降り、捕虜になった。

 収容所

 私はササという所にある収容所に入れられた。在比日本人も、台湾や朝鮮人軍夫も、日本軍人も一緒の捕虜収容所に入れられた。ここでは一〇日間くらい過ごし、ダバオの収容所に移された。食料は豊富ではなかったが、収容されて最初の日は日本米を食べた。それを食べた時は「おいしい」と思ったことを記憶している。
 収容所では、たまに米兵の手伝いで、荷降ろしをした。捕虜になると、米軍の言う事を聞かないといけないので自分勝手はできなかった。船の荷揚げに行く場合でも、いつも腹はすかせていた。盗んででも、何かを食べたいと思っていた。食事は缶詰が出されたが、全部食べればアメリカ人は文句を言わなかった。残すことが一番いけない。小さくてもおいしいものだったらいいが、横文字(英語)が分からない人は、中身が分からないので、缶詰を空けても食べられるものかどうか分からないで困っていた。
 私は現地召集で、ある程度言葉を覚えていたので助かった。「これはビーフだからウシヌシシー(牛肉)、ポークだからこれはゥワー(豚)のシシ(肉)やさ。クレー、トゥイヌ(鳥肉)缶詰ヤサ。これは、ちゃんと料理されている」などと周りの人に教えた。

 引揚げ

 昭和二十年十二月に浦賀に上陸した。浦賀の収容所で「今日までは兵隊だったが、今からは兵隊ではない」と分散会をした。沖縄の人はそこで仕事を探しているのもいたし、沖縄に帰る人もいた。私は親や叔父たちと連絡を取るために、仕事をしながら本土で生活することにした。
 浦賀に着いてからは、自由になったので、最初は東京の久保田元中隊長を訪ねた。彼が「今はまだ沖縄に帰らない方がいい。沖縄もアメリカが支配しているのでどうなるか分からない。だからあまり今はあせるな。私が病院をつくるから、当分は私のところで働きなさい」と言ってくれた。フィリピンで糧秣、食料品を手に入れていたのは私だったので、彼は「フィリピンでの命の恩人はお前だからね」とも言った。
 そこで一晩だけお世話になり、翌日鹿児島の野上元小隊長を訪ねた。彼は鹿児島で病院を経営していた。その後、鹿児島の食品会社で八か月くらい働いた。そこは漬物工場もあり、惣菜も作っていた。

 沖縄へ帰る

 野上元小隊長の娘さんが連絡をとってくれて、部隊の先輩、イサモトさんのいる大分県日田市へ行った。彼の家に一〇日ほどいて、稲の植付けが終わるまでは毎日一緒に働いた。大分に行ったら喜名の人は主に福岡の錦修寮や岡本寮という所にいると聞いた。さっそく福岡へ行き、そこで思いかけず父と再会出来た。父も海軍に徴用されていたので、戦争中会うことが出来ず、ようやく福岡で会うことができたのだ。父は「喜名の先輩方が病気だから、もう少しここにいる。あんたはおばさん達を探してきなさいね」と言った。
 叔母さんや従兄弟、兄貴の嫁さんとも会うことができ、みんなで一緒になって沖縄に引揚げてきた。ようやく沖縄に帰った時は、母と弟が石川にいると聞き、私たちも石川へ行った。

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