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2 フィリピンにおける戦争体験
体験記

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 ○敵と味方

 知花※※(大正五年生)

 フィリピンへ渡航

 一九〇八年(明治四十一)、私の叔父知花※※と従兄弟叔父の知花※※がフィリピンへ渡った。その頃に渡った世代は「旧移民」と言われた。
 一九三七年(昭和十二)九月、私は妻子を読谷に残し、一九三五年(昭和十)に行っていた兄の※※を頼って、一人でフィリピンに行くことにした。当時は南洋よりもフィリピンに行ったほうが儲かると聞いていた。
 当時の長浜では、出征や移民に行く人達を送り出す時に、字内の拝所、大殿内、タマイ(部落ヌール)、ナーカン殿内、イーフの四か所をまわった。渡航前に、長崎の移住教養所で一週間の講習を受け、スペイン語の数の数え方等を習い、健康診断を受け、それらが終わるとフィリピン領事館からビザ(入国査証)が貰えた。
 フィリピンに着いてすぐに、親戚にあたる知花※※を訪ねた。知花※※は旧移民で、麻山を持っており、麻栽培の傍ら、読谷から来る移住者へ仕事の斡旋もしていた。同じ長浜部落の人だけでなく宇座、儀間、渡慶次、高志保など渡慶次校区の人達も、初めは※※を頼って行った。新しく移民して来た私を、「長浜親善同志会」の皆さんが「上陸スージ(お祝い)」をして迎えてくれた。そんな時は二〇〜三〇人くらいが集まった。

 長浜親善同志会について

 「長浜親善同志会」は、フィリピン移民した長浜の先輩方が、一九三二年(昭和七)二月十一日に設立したものだ。これはフィリピンにおける字長浜出身者の会で、相互扶助、知識の向上、親睦を図るという精神で設立された会だった。私が行った頃の会員は六十数名になっていた。
 同会の活動の一つに、故郷長浜に手回しサイレン設立の寄付金を送付したことがある。当時同字出身の與久田※※先生が「長浜の青年は社会教育が遅れている」ということで同会に相談があり、仲間で寄付金を募って本購入やサイレン設立のための資金を送った。昭和十二年当時、読谷山村内でサイレンがあるのは、古堅尋常高等小学校と字長浜だけだった。
 あの頃、フィリピンで両親を亡くした兄弟があり、同会員に寄付を募って長浜に帰すということもあった。フィリピンでは竜巻が多く、被害に遭った人には同志会より見舞金をあげたり、その他の救済活動をした。その場合、麻山は製品にしないと金にならないから、暇のある人は被災者の麻挽きを手伝い、暇のない人は金を出していた。また入院した場合、その付き添いを分担したり、病人を沖縄まで付き添って連れて帰ったりもした。付き添った者が再渡航してきた時には、みんなが集まって報告会を催した。


古堅尋常高等小学校のサイレン台
(昭和11年設置)
 昭和十一年十二月、フィリピン在住の長浜出身者は、郷里にサイレンを贈ることを決議し、翌昭和十二年寄付金を郵便為替で送金しています。
 『在比字長浜親善同志会々務録』によりますと、「会員総人数三十七名」で「一名宛金三比貨(三ペソ)寄贈」とありますので、百十一ペソ位になったことでしょう。当時の為替レートは百ペソが百十円ですから、寄付総額は約百二十円位になったことと思われます。
 贈られた資金でサイレンを購入し、共同売店の前に杉材で五メートル高さの櫓を建て、そこにサイレンを設置しましたが、吹鳴開始年月日の記録は残っておりません。
 やがて戦争が沖縄に近づくにつれ、サイレンは「訓練警戒警報」から「訓練空襲警報」の合図に使われ始め、ついには本物の「警戒警報発令」から「空襲警報発令」の通報をするようになり、最後は「空襲警報解除」の吹鳴もなくして戦火に消えてしまいました。
「読谷山風土記(二十三)サイレン」渡久山朝章より


フィリピンで就職

 読谷山村出身者は、ほとんどがダバオ湾近くのリバーサイドに住んでいた。ダバオ湾の西側は島尻出身者、東側は国頭出身者が多かったように思う。フィリピンには親日派と親米派がいたが、親米派のほうが多かった。
 私は渡比後、しばらく知花※※のもとで麻栽培をやっていたが、座喜味の波平※※の紹介で太田興業のミンタル発電所に就職した。主に電気工事や病院を中心に電話線を引く作業をしていた。発電所の社宅に住んでいたが、私の他に七人の社員が住んでいた。私は支店と支店に電話線を引く等の仕事柄、あちらこちらに行ったので、土地勘が付いた。ミンタルには女学校があり、配線工事などの場合は社員が競って行きたがった。みんな若かったからね。発電所の従業員は一三人、そのうち沖縄出身者は私一人だけだった。
 ミンタルの邦人集落では、波平※※が食堂を経営していた。その他、沖縄各地から移民してきた県人が、理髪店や運送会社などをしていた。太田興業麻倉庫では半年に一度の割合で、巡回映画会があった。「支那の夜」などを見た。発電に使われる水車を回す水路沿いの道には、椰子の木が並びよく散歩したものだ。発電所に勤めて四年ほど経った頃、戦争が始まった。

 日米開戦

 一九四一年(昭和十六)十二月八日、配線工事に行くため、機材をピックアップ(小型トラック)に積んで出掛けようとしていたところ、ラジオから日本のニュースが流れてきた。「日本軍がフィリピン、ダバオのササの飛行場を爆撃した」との臨時ニュースだった。私もその日、飛行機が飛んでいくのを見ていた。日本では軍の統制で短波ラジオは使えなかったが、フィリピンでは自由に短波ラジオを聞くことができた。うち(太田興業)では日本と同じ長波を使っていたので、フィリピンでは両方を聞くことができたのだ。
 そうしてみんな騒然とするうちに、二、三時間後にはフィリピン兵に捕まり、サンペトロ小学校に収容された。収容所での食糧は不十分で、大豆などを食べて過ごした。三週間後日本軍が上陸し、ようやく解放された。

 日本軍上陸後、軍属徴用

 日本軍の上陸後、一九四二年(昭和十七)一月頃には日本人はみな自分の家に帰り、それぞれの生活を始めていた。日本で徴兵検査済みの男性は希望して軍属になった。同年四月、私も軍属になった。最初の頃は日本軍の軍属には、希望者が入隊していた。しかし次第に状況が悪くなると飛行場設営隊などに強制的に徴用されるようになっていった。
 私はダバオ、サンタナ小学校に本隊を置く、第六一碇泊(ていはく)司令部に配属された。そこでダバオから更に南方に行く船員に対する糧秣補給をしていた。魚肉や野菜、米の補給をしたり、軍人、軍属(船舶修理工員)の給料の支払いなど経理の仕事もしていた。

 戦場にて

 一九四四年(昭和十九)になると、フィリピンにいる邦人男性は、現地で徴兵検査を受け、次々に兵隊として各部隊に入隊していった。この年の十月に米軍がフィリピンへ上陸してきて、日本軍への反攻を開始した。
 一九四五年(昭和二十)四月頃になると、いよいよ戦争が激しくなってダバオの本隊はサンタナ小学校から移動し、山中に避難小屋を作っていた。私は命令を受けカガヤンへ行っていたが、ほとんどの部隊は解散状態だった。カガヤンに行く時は一人だったが、ダバオに戻る時は島尻出身者、高知県出身者の二人と合流した。途中三人でバンゴットにいた宇土部隊の山田小隊に入れてもらった。常々「自分の部隊に会う事ができなかった場合は最寄りの部隊と行動を共にするように」と教えられていたからだ。
 しかし、その頃は日本部隊内でもお互いが疑心暗鬼となり、部隊からの脱走兵が多く出た。私も山田隊から脱走し、再び山の中で二人の日本兵と合流した。三人で行動しているとき、現地人に襲われて、そのうちの一人が死んだ。生き残った私と東京都出身のAは、更に六人の日本兵グループと出会い、八人で行動を共にするようになった。
 六人の日本兵は「私たちは現役で若いから人を殺すのもわけはない。支那事変から中国、ニューギニアと、常に前線で戦ってきた」というヤクザ気質の男達だった。そこで私は「芋を掘らせば、人の二倍も三倍も掘れる」と嘘をついて、さらに「私は原住民の言葉が分かるから交渉して食糧を貰うことも出来る」とも言った。私一人捕まえておけば食べるのに困らない、そう思わせておかないと何をされるか分からないと思った。
 この八人の中で沖縄出身者は私だけだった。彼らが言うには「敗残日本兵は切羽詰まったら味方同士殺し合いもする。われわれ八人は戦争に勝っても負けても一緒に日本に帰ろう」と水盃を交わした。

 日本兵同士の争い

 私たちの潜んでいた場所から五〇〇メートルくらい離れた所に、沖縄出身のTとH、それに本土出身のYの三人が仮小屋を作っていた。TとHの二人は山中で日本兵に襲撃されて殺された。二人はともに移民者で、フィリピンで召集された兵隊だった。昼のうちに、どこか別の日本兵グループが彼等の小屋を偵察に来て食べ物を持っているかを探り、夜、集団で彼等を襲ったようだった。
 私はこの二人の名を知らなかったが、向こうは知っていたらしく「知花、助けてくれー、助けてくれー」という声が聞こえた。私たち八人は、彼らを襲った日本兵グループが再び来ることに備えた。私以外の七人は以前にもそういう経験をしていた。「さあ、次はこっちが襲撃されるかもしれないから、みんなそのつもりでやろう」と、銃を持っている者は弾を装填したりした。結局彼等はもう来なかった。襲った日本兵は何人いたのか分からない。
 一緒に居た三人のうちの一人、Yは食べ物と着る物を自分の寝る所には置かずに、山に隠しに行っていたので助かった。夜が明け、生き残ったYが「知花さん、昨夜襲撃を受けてTとHは殺られてしまった。戦争で負けても勝ってもどうせいずれは国に帰るのだから、同じ沖縄出身のあなたが彼らの爪と髪の毛を預かって、故郷へ持ち帰って心当たりの人に届けてくれないか」とお願いに来た。Yから託されたその髪の毛と爪は、終戦になるまでずっと持っていたが、米軍の収容所に入れられたとき、没収されてしまい、残念ながら持ち帰ることができなかった。

 極限状況の中で

 この時Yと一緒に、沖縄出身のOという年配の現地入隊の人が私のところにやって来た。彼は栄養失調で四、五メートル進むにも何分もかかるという状態だった。その二人が「友軍の話では人間の肝臓はとても滋養になるというから、死んだTの肝臓を私達にくれないか」と言ってきた。HよりもTの方が体格が良かった。
 私は「あなたたちがそういう考えなら、私が穴を掘っておくから、埋めるのはあなた方が責任を持ちなさいよ」と言って帰った。Hの死体は私が埋め、Tを埋めるための穴も掘っておいた。後で本当に食べたのかと思って飯盒を調べてみたら、脂っこい物が付いていたので「ああ、本当に食べたんだな」と思った。
 その後、Oは山を降りて投降すると言うので、一日分のトウモロコシと塩を渡して別れた。その後Oも戦死している。Yは「自分一人でいては危ないから一緒に行動させてくれ」と言ってきた。八人組は喜んでYを仲間にいれた。しかしそれは、Yが僅かな食糧を持っており、仲間に入れるふりをして殺してしまえば自分たちの物になると考えたからだった。
 私はその計画を知らなかった。やはりYは殺された。私はAと一緒にYを埋めに行った。私とAは年配だから後片づけをする、そういう役割だった。誰がYを殺したのかという事までは分からない。Yは今まで一緒に行動していたTの肉を食べ、夕方には自分が殺されてしまったのだ。
 日本兵同士で殺し合った人も、その事で犠牲になった人もたくさんいるはずだ。戦後、T、H、Oについては「マライバライのどこどこで戦死した」と死亡を証明した。Oの妻はフィリピンにいたので本人に伝え、TとHについては帰沖後、部落の人に報告した。
 後に、収容所で生き残った日本兵たちが人を食べたと話しているのをよく聞いた。例えば、「『今晩泊めてくれないか、山豚をもっているから』と言う朝鮮人を一晩泊めて、肉をごちそうになった。その夜彼が刃物を研いでいたので(今度は私が殺されると)びっくりして逃げた。食べた肉も人肉だったかもしれない」という話や「人肉を何回食べた」というような話だ。

 八人組と現地人

 八人組は、住んでいた所の周辺にあった芋を食べ尽くしてしまって、四人で新しい芋畑を探しに行った。だが、新しい芋畑を見つけて帰ってきたのは三人だった。帰ってきた三人の話によると、一緒に行ったAは風邪をひいて、向こうで待っているという。Aが「私はここに留まるから、知花に自分の荷物を持たせてくれ」と言ったという事であった。Aの相棒であった私が二人分の荷物を持って、七人でその芋畑に行った。
 三時ごろそこに着くと、Aの姿が見えない。生々しい血痕が続いていた。それを追っていくと、木が切り倒された密林の中に穴が掘られ、土がかけられていた。上に乗ってみるとブクブクする。Aは現地人に殺され、そこに埋められていたのだ。現地人はジャングルの木を切って進む。だから私たちは彼らがやったんだと確信した。するとAが殺されたところに現地人が集まってきた。彼らは私たちに気付くと銃撃してきた。もうそこへ行くことはできず、元の場所に戻った。
 その帰途で、仲間のうちの一人が熱発して「私はついていけないから、あなたたちは先に行ってくれ」と言った。一晩経った翌日、様子を見に戻ると、彼の姿はなく何十人もの現地人が集まっているのが見えたので、あわてて逃げ帰った。
 現地人たちは、日本人に深い恨みを持っていたのだ。

 再び山田隊へ、そして投降

 山中で出会った中川部隊の隊員の一人が「知花さんは沖縄出身ですか。うちの部隊に那覇出身の又吉曹長がおられますよ」と教えてくれた。それで、その又吉曹長に会いたいと思ったが、水盃まで交わした八人組(このときは六人になっていたが)のほかの仲間にどう思われるか分からないので、申し出を断った。ところが、別の親切な兵隊が山田隊まで案内してくれたので、八人組と別れて山田隊に行った。隊では二日間、シラミの湧いた隊員達のふんどしを洗わされた。
 昭和二十年八月、山田隊と共にマライバライ近くの、マリボホック(戦前、農林学校があった所)で投降した。かつての「八人組」の他の五人は、その後どうなったか分からない。
 収容所でも大変だった。投降するまで、部下に対して無茶な扱いをしていた下士官は四、五人の部下に捕まえられて、「お前は何月何日、私をいじめやがったな」「お前は私にひどい事をしやがったな」と言って仕返しをした話もある。その時は規則も何もなかった。

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