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3 台湾での戦争体験
豊田純志

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 台湾統治と沖縄

読谷村渡具知の「沖縄海底電信線記念碑」
 近代日本がおこなった最初の対外軍事行動は一八七四年(明治七)の「台湾出兵」であった。これは一八七一年(明治四)の「台湾遭害事件」(宮古貢納船が台湾へ漂着、乗員五四人が殺害された事件)に対する「人民保護義務」を大義名分にした海外出兵で、これによって明治政府は琉球が日本国の一部であることを清国に認めさせ、その後の「琉球処分」を国際関係の上で有利に処理した。当時日清両属的な立場にあった琉球が、明治国家の枠組みの中に明確に組み込まれていく当初に台湾とのかかわりがあった。台湾はその後、日清戦争後の下関講和条約(一八九五年)によって日本最初の植民地とされた。
 台湾を南進の拠点として獲得したこの年には、「蛍の光」四番の歌詞も「千島のおくも沖縄も…」から「台湾の果ても樺太も…」へと変わっており、当時の日本の対外膨張主義をよくあらわしている。
 台湾を植民地化した日本は、一八九五年(明治二十八)五月に北白川宮能久親王を近衛師団長とする輸送船一〇隻を台湾へ送り、台湾総督府を設置した。この輸送船団が寄港した沖縄県中城湾は、その年の末に軍港に指定され、その後沖縄の軍事化が徐々に推し進められていく。翌年の一八九六年(明治二十九)には軍事目的の海底電信が沖縄・鹿児島間に敷設され、一八九七年(明治三十)には石垣島を経由して台湾基隆まで延長されている。これは当初から台湾への敷設を目的にしたものだといわれているが(又吉盛清『日本植民地下の台湾と沖縄』一九九〇年参照)、この海底電信線陸揚所が読谷山村渡具知であった。昭和六十三年に電気通信関係有志によって記念碑が建てられ、現在「電信屋(デンシンヤー)」の通称で呼ばれている。その記念碑にはこう刻まれている。「明治二十九年(一八九六年)鹿児島・沖縄間に海底電信線が敷設された。ここ、読谷村渡具知の浜に陸揚げされ、那覇とは架空電信線で結ばれた。(途中略)更に、明治三十年には石垣島経由の台湾線、明治三十八年には南洋ヤップ島線の海底電信線がこの浜に陸揚げされ、海外通信にも大きく貢献した」。
 そして一八九八年(明治三十一)には先島を除いた沖縄県全域に、一九〇二年(明治三十五)には宮古・八重山両郡に「徴兵令」が施行された。
読谷村座喜味の旧読谷山
国民学校跡にある「忠魂碑」
「陸軍大将鈴木荘六書」の
文字が読める
 台湾総督府の初代総督には海軍大将樺山資紀が任命され、軍務司令官を兼務した。初代から第七代までの台湾総督には陸海軍の大将・中将が任命され、この時期を「武官総督」制の時期という。一九一九年(大正八)に文官が総督に就任する「文官総督」制に移行するが、これは前年一九一八年(大正七)に日本で最初の政党内閣・原敬内閣が誕生したことにより政党政治が始まったことの影響が大きかった。同時に台湾軍司令官も新任され、第六代台湾軍司令官鈴木荘六(在任一九二三年八月〜一九二四年八月)の名は、読谷村に残る「忠魂碑」にその碑文の揮毫者として刻まれている。
 文官総督の就任とそれによる同化政策の推進は、台湾の教育にも大きな変化をもたらした。本土と台湾の教育制度の一元化が進められ、それまで台湾人子弟に国語(日本語)教育をするための「公学校」は、形式上内地人・台湾人の区別を取りはらい「国語を常用する者は小学校、常用せざる者は公学校」というように改められた。「日本が台湾を放棄する一年前の一九四四年には、小・公学校千百九校、生徒数九十三万二千四百七十五名、師範学校三校、学生数二千八百八十八名、職業学校百十七校、同三万二千七百十八名、高等女学校二十二校、同一万三千二百七十名、中学校二十二校、同一万五千百七十二名、高等学校一校、同五百六十三名、専門学校四校、同千八百十七名、帝国大学一校、同三百五十七名を数えるまでになっていた。ことに一九四四年の児童の就学率は、九二・五%という驚くべき高さであり、戦闘要員の養成が急務の戦時体制下とはいえ、各国の植民地の教育状況と比較しても、台湾は格段に教育の普及に力を注いでいた」という(伊藤潔『台湾』中公新書、一一六頁)。
 一九三一年(昭和六)の「満州事変」にはじまる情勢の変化は、その後再び台湾に武官総督を復活させ(後期「武官総督」制)、これ以降台湾の「皇民化」政策は激しさを増す。
台湾製糖株式会社の所有農場、3,000坪の
広さがある 昭和16年頃(喜友名※※氏提供)
 初期の武官総督の時代に多くの治績が上げられ、特に台湾の産業振興は目覚しかった。一九〇〇年(明治三十三)の台湾製糖株式会社の設立は日本内地資本の台湾への進出の始まりであり、この時期大日本製糖株式会社(一九〇六年)、明治製糖株式会社(同年)、塩水港製糖株式会社(一九〇七年)、帝国製糖株式会社(一九一〇年)と巨大製糖会社の設立または工場の設置が続いた。製糖高は一九〇二年(明治三十五)の五千万斤から一九一〇年(明治四十三)には四億五千万斤へと激増しており、さらに一九二四年(大正十三)には八億斤に達している。同年の日本国内への移出高も七億斤に達し、日本の砂糖生産はほぼ自給の域に達した(矢内原忠雄『帝国主義下の台湾』一九二九年参照)。台湾の糖業を分析した矢内原忠雄は一九二九年(昭和四)出版の同書のなかで「国家に伴はれて台湾糖業に投ぜられし我資本は今や政府をも動かし得るの力となり、国家権力によりて補助奨励せられし企業は今や自ら資本的権力となった」(二二五頁)と書いている。当時の台湾製糖業が「糖業帝国主義」ともいわれる存在であったことがうかがえる。

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