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4 「満州」での戦争体験
体験記

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 ○開拓団長だった父のこと

 玉城※※(昭和五年生)旧姓※※

 向学心旺盛だった父と家族の渡満

 私の父(知花※※)は明治三十九年に生まれた。嘉手納の県立農林学校を卒業した後、役場に勤めていた。父の学費は父の姉さん達が本土に出稼ぎに行って工面したそうである。父は読書家で、いつも本を読んでいて、広い世界を見ているような人だった。その父が「満州国」北安省慶城県華陽(現中国慶安)へ、開拓団の農業指導員として行くことになった。この華陽開拓団は、岐阜、静岡、愛知の三県の方々が集まって出来ており、沖縄出身者は父だけだった。父は茨城県の内原訓練所で一年間の訓練を受けた後、昭和十二年頃満州へ渡った。そしてある程度の生活環境が整った、昭和十四年三月に家族(母、私、弟二人)を迎えに来た。当時、私は小学校三年生だった。
 私達家族はまず船で大阪まで行き、そこで寒い所へ行くということで、セーターやオーバーなどの買い物をした。そこから汽車で福岡まで戻り、船で釜山へ渡った。釜山からは汽車に乗り、奉天、新京、ハルビンを経て一週間程かかって北安省の華陽にたどり着いた。三月になっても向こうではまだ雪が降っていて、とても寒かった。
知花※※氏の満州での家族写真(昭和15年4月)(玉城※※さん提供)
 先発隊として行った開拓団の住家は、自分達で作ったものではなく、事前に現地住民を追い払って、確保したものであった。今考えると、日本は残酷なことをしていたと思うが、当時はそんなふうには感じなかった。私達が最初に暮らした場所は、そうして得たものであり、そこにあった長屋は草と泥を塗り固めて作られ、壁も床も屋根も泥で出来ていた。当時幼稚園児だった弟の※※は満州に渡った当初、いつも「なんでこんなサーターヤー(沖縄の砂糖作りの小屋)に連れてきたの、早く満州へ行こう、早く満州へ行こう」といって両親を困らせていた。弟は満州という響きに都会的なイメージを持っていたようであった。
 そこは、三棟の長屋がコの字型に建っていて、その周囲を高さ二メートル程の土塀がぐるりと取り囲み、約二〇世帯が暮らせるくらいの小さな集落になっていた。この土塀で囲まれた長屋の一棟が開拓団の本部になり、新たに来る開拓団員の受入手続き等を行う事務所や売店、また開拓団長の駐在所になっていた。父は指導員として派遣されたが、現地で開拓団長になった。

 華陽開拓団での生活と「匪賊」

華陽小学校前での記念撮影(前列右端が長男※※、その左斜め上が※※)(玉城※※さん提供)
 集落を取り囲む土塀には、外へ出入りする為の門があり、昼夜、物見やぐらに見張りが立ち、「匪賊」の襲撃に備えていた。「匪賊」というのは、そこの元々の住民で、日本人に追われて山に逃げていった人達のことである。彼らはよく夜中に馬に乗ってやってきた。「『匪賊』が出た!」という声が上がると、若い男の人達は皆、鉄砲を持って彼らに向かって行き、女の人は布団にくるまって部屋の片隅でおびえていた。最初の一年間位は「匪賊」がよく出て、馬や山羊などを盗んでいった。
 北安省辺りでは、寒さが厳しく、十月から四月頃まではずっと雪で、温度は零下三八度まで下がることもあった。実際、布団を被って寝ていても、朝には布団の上に白く霜が降りていて、防寒用に被って眠っていた毛糸の帽子やマスク、そして眉毛、まつげまでもが白く凍ってしまうほどの寒さであった。冷たいというよりも痛いという感覚で、あの痛みは忘れられない。向こうで使っていた手袋も靴も内側は毛皮で出来ていた。また家には、オンドルという床下暖房の設備があった。これはかまどで火を焚き、その煙が床下、壁を通り煙突から抜けてゆく仕組みになっていた。床も煙で焦げないように泥を固めて作られていたので、その上に油紙を敷きアンペラ(コーリャンで作られたござ)を敷いていた。私達の一日は、まず朝起きるとかまどに火を付け、釜に水を入れて湯を沸かすことから始まった。
 満州へ行った翌月から私は学校へ通うことになったが、開校した華陽国民学校は、当初先生が二人で、生徒は七名であった。複式学級で、私は四年生、弟は一年生であった。家から学校が遠いということで、四年生からは寄宿舎で寝泊まりした。週末には親元に帰る幼い二人にとって、零下三〇度を下回る雪道を歩いて帰るのは大変だったので、父と母が交代でソリに乗って迎えにきてくれた。また一番厭だったのはトイレの処理だった。あまりに気温が低いので汚物が凍結し、それがどんどん積み重なってゆくので、定期的につるはしで叩き割る仕事があったのだ。小学生の女の子であろうと、自分たちの使用する所は自分たちで処理しなければならなかった。そういうトイレだから、家の中にはなくて離れたところにあったので、寒くて臭くて大変であった。
 この寄宿舎にいる時にも「匪賊」が出たことがあった。眠っていた子供達がみんな起こされて、小さい子供は泣きだしてみんなでガタガタ震えていた。五、六年生のお兄さん達が、「自分たちが守ってやるから心配するな」といって木刀を持って入り口に立って、小さい子は私達が抱っこしてすぐに逃げることができるように服を着せて準備した。後からは大人達も応援に来て、そこで番をしてくれたが、結局、馬を盗まれたりした。たった二年間の共同生活だったが、こういう怖い思いを共にした友達とは、今でも付き合いがあり、お互いに往き来している。
 その後、毎月のように開拓民が入植してくるので子供も増え、本部に学校が増設され、そこで寝泊まりするようになった。土塀の外にも、先発隊として来ている人達が、家族を呼び寄せる為に、岐阜、静岡、愛知と各県ごとにまとまって家を建て、その周りにどんどん畑を開墾して広げていった。肥沃な土壌でとうもろこし、じゃがいも、大豆、小麦などが良くでき、ハルビンにあった日本の農産公社がこれらの作物を買い取っていた。辺り一面に広がる野原は、長い冬が終わって春になると、眠っていた草花の芽が一斉に吹き出した。今思い出すと夢のようだが、土手はネコヤナギで真っ白になるし、ツクシ、ワラビなどの山菜を採ってきたり、スズランの香りを追って行くと、谷のところで咲いていたりして、子供達は大喜びだった。今まで見たこともないナデシコや何色もの百合の花が一面に広がって、本当にきれいで、よく学校が終わると花を摘みに行っていた。また畑の用水路には魚や貝がいっぱいで、水路脇の湿地には鴨が卵を産み落としていたので、それを拾いに行ったりした。農作物もすぐに育ち、スイカも熟する前には手や顔を洗うのに使うくらい沢山実っていたし、夏は見渡す限りのひまわり畑、秋にはホオズキが鈴なりだった。厳しい面だけでなく、こんな豊かな自然に恵まれた時期を過ごした楽しい思い出もあり、また行って見たいという思いがある。
 本部の近くには、診療所もあり、華陽神社や浄土真宗のお寺もあった。私達は本部の近くに家を建てて住んでいたので、家の裏にはお坊さんが暮らしていた。四大節の時には神社近くの広場に開拓団員が子供も親も全員集合した。また義勇隊と呼ばれたが、若い青年達が農作業を手伝いに来てくれることもあった。一定期間、労働奉仕をして帰って行ったのだが、読谷村からも大木の方が一人、義勇隊として満州に来られていた。また独身の開拓団員のために「大陸の花嫁」といわれた若い女性が来ていた。華陽国民学校の玉置先生も独身だったので、お嫁さんをもらわれた。そのお嫁さんは女学校を出たばかりのおさげ髪のかわいいお嬢さんだった。満州に来ても、いつもきれいで自転車に乗って遊ばれていたのがとても印象的であった。だが、その方もこちらで生まれた三名の子供を戦争の混乱の中で亡くされて、大変な思いをされた。しかし、この華陽開拓団にいる間は、空襲等戦争らしきことはほとんど経験しなかった。昭和十七年、私は病気がちになった母と共に沖縄に戻った。沖縄に着いてしばらくして、母は亡くなった。

 ハルビンへ、そして終戦

 父は昭和十九年に開拓団の仕事を終え、ハルビンの農産公社に移った。その傍ら父は、ハルビン郊外に土地を買って、農場経営にも着手していた。この農場を任せるために、読谷から友人を呼び寄せていた。父はずっと満州で生きていくつもりで、色々なことを考えていたのだと思う。
 当時、私は沖縄で女学校に通っていたが、戦争でどうなるか分からない状況の中、やはり家族と一緒に居たいという思いが強まり、叔父の当山※※さん(当時中学三年)と共に再度大陸に渡った。鹿児島行きの船に乗り、一週間を甲板の上で過ごした。本部や伊江島の寄港先で地元の人が水を売りに来たが、高くて買えず、エンジンモーターの下に缶を置き、わずかな水滴を貯めて飲んでいた。対馬丸の出航と一日違いで、鹿児島に着いた時に、対馬丸遭難から生還した読谷の少女(波平・大城※※)に会った。大変疲れているようで、ぐっすり眠っていた横顔を今も覚えている。
 広い中国で、ましてや言葉も通じない所で家族の住む家を捜すのは大変だった。人力車や汽車を乗り継ぎ、新京(現長春)にあった中国最後の皇帝、溥儀のいた皇宮を目印として、ようやく家族の元にたどり着いた。ハルビンは、日本人街、ロシア人街、「朝鮮人」街など、色々なものがある大都会だった。私はハルビンでも女学校に通ったが、もう勉強どころではなく、関東軍の手伝いということで、沖縄へ送る手榴弾や大砲の弾に火薬を詰める仕事をした。そのうちに今度は食糧不足ということで、開拓団とともに畑で食糧増産の手伝いをした。そこで六月二十三日をむかえ、沖縄玉砕の報を聞いた。それからは救護班になりなさいと言われ、救護の教育を受ける為に部隊に通った。一か月間の訓練を受け、明日から救護の任務に就くから準備してきなさい、と指示された。救急袋に三角巾や副木等の救急用具を入れて準備していたが、その翌日、状況が変わって、部隊は全て南下するから、救護班はもう必要ないので、各家庭に戻るようにと言われた。
 昭和二十年八月九日、ハルビンにロシア軍の空襲があり、その時始めて戦争を身近に感じたが、それほどひどい被害はなく、その一週間後、戦争が終わった。満州に渡った人々にとっては、それからが大変だった。「満州国」という国は無くなり、父の仕事も無くなった。そして、「満人」、「朝鮮人」の暴動が各地で起こり、ロシアの兵隊が鉄砲を持って、私達の住んでいた社宅に乱入し、略奪を繰り返した。ロシアは貧しい国のようで、家中の腕時計を幾つも腕につけ、ペン一本まで捜して持って帰るくらいであった。女性は兵隊の目に触れないよう、朝からヒラヤーチー(小麦粉を溶き、細かく刻んだ野菜などを入れて、平たく焼いたもの)を作って屋根裏に上がり、一日中真っ暗な中で、隣り近所のお姉さん達と息を潜めていた。こんな穴蔵生活が一、二か月続いた。幸い、食料に関しては、父が農産公社の倉庫に貯蔵されていた食物を会社から分けてもらったので、しばらくは心配なかった。
 敗戦で、日本人と現地の人々の立場がまるっきり逆転し、日本人はお金もなく寒くても暖房もない乞食のような状態になった。私達家族はみんなで煙草の葉を買ってきて乾燥させて刻み、それを巻いて箱詰めし、包装して道端で売ったり、早朝から餅を作って街角で小さなテーブルを置いて焼いて売ったりした。父もリアカーに木炭を積んで売り歩いたりして生活を支えていた。ある日、弟をおぶって道を歩いていたら、中国人が私を呼び止め「あなたが子供を連れていては大変だから、私がその子を貰いましょう」と言った。その人は「今、日本は負けてこんな状態だが、三〇年もすればまた力をつけて、必ず中国を攻めてくる。この子を育てておけば、日本人と親戚関係になれるから、日本が攻めて来たときに助かる可能性がある。だから是非引き取って育てたい」と言い、しばらく後からついてきたが、弟は渡さなかった。あの時もし弟を渡していたら、と考えると背筋が寒くなる。
 しかし奥地にいた人達のように追われなかっただけ、私たちはまだましだったのかもしれない。田舎の方に開拓団として入っていた人達は、「日本人は出て行け」と何もかも取られて裸同然で追い払われて、もっと大変だった。でもこれは、日本人がひどいことをしたからなのだ。日本人がもう少しきちんとしておけば、あれほどの苦しい思いはせずに済んだのに、と思う。向こうでの開拓団の生活を見ていても、周辺に住んでる現地の人々が飼っている豚を、ただおもしろ半分に鉄砲で撃ち殺して、その飼い主を泣かせたりしていた。現地の人からすれば、その豚は大切な財産であるから、いわば、いじめである。そういうことを平気でする日本人がいた。また現地の人が少しでも悪いことをすると、「見せしめ」の制裁といって、ひどい暴力をふるっていた。子供ながらにあのような光景を見るのはとても辛かった。「こんなことしなければいいのに」と思った。あの人達も食べるものがなかったから、そうしたはずなのに。沖縄でも、米軍基地で働く人達が「戦果」を挙げるということがよくあったが、あの人達も同じだった。でもその罰される様子は、かわいそうで、見ていられなかった。
 開拓団の中でそのような振る舞いをしていた人は、形勢が逆転した時に現地の人々の復讐を受けた。反対にその土地の人に優しくして友好を暖めていた人は、逆に立場が変わっても、かくまってもらったり助けてもらったりしていた。現地の人から食べ物を貰ったり、子供は育てておくから、あとから引き取りに来なさい、と言ってもらった人もいる。こういうものを見てきたので、日本人があんな手荒なことをしなければ、こんな苦しい思いもせずに済んだのにと思うのだ。今思うと、本当にひどいことをやっていたと思うし、自分がやったことは必ずまた自分に返ってくると思った。

 父のボランティア活動

知花※※氏 一九六〇年十二月、南米へ出発直前の写真  ※※は帰沖後、今度はボリビアへ移民した(山内※※さん提供)
 父は、奥地から追われてくる開拓団の人に対して、開拓団長としての自分に責任があり、助けなければならないといって、収容所で難民救済のボランティアを始めた。難民救済というボランティアの腕章をつけて街へ出かけて行った。その頃は、日本人と見たらすぐに殺されるという状況で、一般の日本人は危なくて道も歩けなかったが、この腕章をつけている人は道を歩くことが出来た。難民になった人々はとりあえずは大きな街にやってくるので、まずは小学校やお寺など臨時の収容所に集められていた。ある日、父が収容所で知り合いの家族を見つけて、家に連れ帰ってきたので半年程、二家族で部屋も衣類も布団も分けあって暮らしていた。
 収容所では、伝染病のチフスが蔓延し、飢えや疲れで多くの病人が出た。私達のいた農産公社の社宅の裏は、満州拓殖公社があった。そこが、難民病院となり、そこへどんどん病人が運び込まれ、そこで毎日人が亡くなっていった。社宅敷地内の小屋が仮霊安所となり、遺体がある程度の数になると、荷馬車に積まれてどこかに運ばれて行った。冬は寒さで遺体が凍結し、積み上げる時にはまるで木のように腕が折れたりしていた。その光景は全く人間を扱うふうではなかったし、それを見ても私自身、悲しみも怖さも感じなくなっていた。自分の家の軒下に我が子を埋めている人もいたし、本当に人間はどんなことでもやるものだとつくづく思った。
 満州から日本への引き揚げは、昭和二十一年四月頃から始まっていたが、向こうでは父が世話人のような立場であり、私達には家もあったので、引揚げた時期は最も遅かった。二十一年十月末にハルビンから屋根のない貨物列車にのり、夜は野宿をして洗濯や炊事をしながら、大連辺りにあったコロ島というところまで行き、そこから船に乗って博多に着いた。そこから、インヌミに行き、石川収容所で家族に再会したが、時はすでに十一月になっていた。

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