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4 「満州」での戦争体験
体験記

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 ○あの三年間の意味

 儀間※※(昭和六年生)
 
 渡満まで

 私の父、津波※※(戦後當山に改名)は私の小さい頃から、沖縄と大阪を行ったり来たりして商売していた。母、※※も父の商売を手伝って家を空けることが多かったので、私と妹は、祖母に育てられていた。両親は仕事で家にあまりいなかったが、私は渡慶次尋常小学校へ通い、やさしい祖父母の下、何不自由なく暮らしていた。その頃、父は大阪で開拓団に応募し、大阪昇平開拓団の先発隊として満州へ渡った。その時は何も分らなかったが、今思うと四男であった父が、大陸へ広い土地を求めて行ったのだと思う。
 昭和十八年、私が国民学校四年生の時、父が満州から母と私達姉妹を呼び寄せた。その時、祖母達は反対していたし、私も満州へは行きたくなかった。母には、満州行きをためらう様子がなかったように思う。母は船の切符などの手配の為、妹の※※を連れて出航の数日前から那覇の港に行っていた。
 私は「満州へは行きたくない」と家に残って、小学校へ行っていた。船がでる前日になって、母から「すぐに那覇まで来るように」という電報が届いた。すでに夜になっていたので、汽車(当時嘉手納から那覇までの軽便鉄道があったが、昼間しか走ってなかった)も馬車も何もない中を、叔父の山内※※に連れられて、私は夜通し歩き続けて、那覇に向かった。そしてようやく夜明けに那覇に着いた。足がフラフラになっていた。そのまますぐに、母と妹と私の三名で乗船し、大阪経由で満州へ向かったが、その時の経路や周りの風景などはあまり記憶にない。
 朝鮮の釜山港から長い間列車に乗って、ようやく父のいる「満州国」浜江省肇州県の大阪昇平開拓団のある場所に到着した。一帯は見渡す限りの大草原で、地平線も見えた。野火(野山に火をつけ枯草を焼くこと)の白煙が遠くに見えていても、なかなかこちらまでこない、そのくらい広かった。開拓村の周辺には、あちこちに「満人」の家があり、ニワトリや豚が放し飼いされていた。そのほかは、とにかく何もないところで、まずはこの見渡す限りの大平原にびっくりした。

 満州での生活

 満州に来て、私と妹は初めて両親とずっと一緒の生活をした。昇平開拓団は満州奥地だったので、一年のほとんどが寒かった。大雪が半年ほど続き、その間は何も出来ない状態だった。雪の野原をウサギが駆けて行くのをよく見た。ウサギは同じ道を通るので足跡がついて、ウサギの道ができていた。あの白い雪の上を走るウサギの姿はとても印象に残っている。雪解けの季節になると、一面の雪が花畑に変わった。
 昇平開拓団は数百人の団員がおり、十二ゴートン(集落)に分かれて、一ゴートンずつまとまって暮らしていた。団員のほとんどは大阪の人であったが、沖縄からも三人の団員が参加していた。開拓団員は、土で作られた四角い家で暮らしており、私達家族も土の家に住んだ。床下はオンドル式の暖房になっていたが、貧しい家に見えた。トイレもただ外に穴が掘ってあるだけのものだったが、寒さの為にいつも汚物は凍った状態であった。
 父はよく馬に乗り、開拓団本部へ行き来していた。当時開拓団の役員の一人であったように思うが、はっきりとは覚えていない。父は一里(約三・九キロ)四方もある畑で、コーリャンやジャガイモなどを作っていた。作物は軍に供出すると言っていた。しかし、大雪の為、野良仕事は半年間しかできず、農業のできない冬に、大人が毎日何をしていたのかは覚えていない。開拓団の歌に「半年は仕事して、半年は寝て暮らす」というのがあるくらいだ。食糧に関しては、雪の中に埋めておけば貯蔵できたので、冬場も不自由はなかった。
 私は現地に作られた学校に通った。雪の時期はロバやラバ(ロバより少し大きかった)の引くソリで通学した。教室は二部屋だけで、一年生から六年生までみんな一緒に勉強していた。私は五、六年生の間を向こうで過ごしたが、同級生は四、五名だった。学校の井戸から水を撒き、その水が地面に流れるとすぐに凍って、スケート場ができた。井戸の周辺はいつも氷が張っていた。そんな風にして学校ではよくスケート遊びをしていた。

 終戦

 戦争体験についてとはいえ、私は実際に鉄砲弾が行き交ったり、爆弾が落ちてくるのを見たことがないし、そんな音も聞いてない。読谷にいた頃から周りの人が疎開したりしていたので、戦争なんだということは分かっていたが、砲弾や爆弾が炸裂するような戦争は、全く体験していない。開拓団本部には新聞やラジオがあったので、「沖縄に米軍が上陸して、もう沖縄は全滅した」ということなども聞いていた。しかし、開拓団にはそんな戦闘の気配はなかった。
 そんなある日突然、私たちは、本部に集合させられ玉音放送で敗戦を知らされた。そしてただちにここを立ち退くことを告げられた。私も子供だったので、軍からの命令だったのか、周囲の人に言われたからなのか分からない。
 近隣集落にいた「満人」と開拓団員との関係は、終戦までは物物交換をしたりして、良い関係であるように見えた。しかし、終戦になると団員と彼らの関係がすっかり変わってしまった。「満人」から「ここを立ち退くように」と言われた。それからのことは、あまりのひどさに幾ら言葉を費やしても伝えきれない。

 逃避行

 敗戦の数日後、ゆっくり仕度する間もないままに、私たち家族も団員のみなさんと共に開拓村を放棄して南下することになった。この数日間に、母達は卵や米を携帯用に作ったり、着物や身の回りのものを最小限にまとめて荷造りをしていた。当面の目的地、安達(アンダー)へ向けて、父、母、八歳の妹、満州で生まれた赤ちゃんと私の五人家族も、団員と共に開拓村を後にした。ラバの引く大きな荷車を一台借りて、そこに積めるだけの荷物を積み、さらに荷物の上に老人や子供が乗せられていた。
 出発してすぐの大雨、何日も何日も降り続き、道はぬかるみ、歩ける状態ではなかった。何かに追われるように、とにかく前へ前へという感じで進んで行った。橋も何も無い泥の川を、首まで浸りながら歩いた。途中妹が流されそうになり、私は妹を必死で引っ張っていた。母は赤ちゃんを背におぶって渡っていた。川の手前では、もう渡れないと判断したお年寄りが「早く行け、早く行け」と手で合図を送っていた。飢えと寒さで倒れる人、道端に座りこむ老人、ぬかるみに置き去りにされる泥まみれの幼子、コーリャン畑に置き去りにされ、泣き叫ぶ子供の顔、そんな人々の様子が今も目に焼き付いて離れない。夜は畑の中や木々の下で野宿をし、安達に着くまで一〇日余りかかったように思う。悪いことは続くもので、道中「馬賊」に襲われ、衣服や食べ物を奪われもした。そんな状況の中、父の姿が見えなくなった。
 ようやく安達に着き、そこではある馬小屋に落ちつき、しばらく滞在していた。安達に入ってからロシア兵を見るようになった。彼らは何かを物色するように、私達のいる小屋に銃を持って入ってきた。そして少しでも金目の物があると何もかも持っていったり、乱暴したり、若い女性を出せと要求したりしていた。女性をロシア兵から守るために、隔離して隠していた。
 人づてに、父がロシア軍に連れて行かれたと聞いた。その二、三年後に開拓団から父の死亡通知を受け取った覚えがあるが、記憶も薄れてしまって定かではない。しかしあの時以来、父の消息はつかめない。

 ハルビンの日本人収容所

 開拓村を出発して四か月程経った頃、ようやく最終目的地のハルビンへ着いた。そこでは、日本人学校を収容所として、あてがわれた。その収容所は、各地から立ち退きを強いられた日本人で溢れかえっていた。私達はこの収容所で一年間を過ごした。
 収容所は、不衛生な上に衣服も満足になく、食事といえば、一日一個配給されるおにぎりだけだった。このおにぎりを水で煮ておじやにして食べたりしたが、それで足りる訳はなく、栄養失調や伝染病で亡くなる人が後を絶たなかった。またこの収容所に着いた頃は真冬で、着のみ着のままで開拓村を追われた私達は、防寒具もなく、暖房設備も布団もない教室のコンクリートの床に、丸くなっていた。トイレもなく、廊下に置かれた大きな桶のような容器で済ませていた。定期的に処理することもなく、汚物が溢れていることもあり、ノミや虱もいっぱいだった。
 収容所では人の「死」が日常であった。毎日毎日、係の人が動かなくなった遺骸を、次々に死体安置所と化した一教室に運んで行った。もう人の死も、死体も怖くなくなっていた。教室に積まれた死体はコチコチに凍っていた。教室が死体でいっぱいになると、トラックでどこかに運ばれていった。どこへ運んで、どうなったのかはわからない。
 ここにもロシア兵が銃を持って来ていた。私の目の前で、銃を向けたロシア兵が日本人女性を強姦した。収容所は地獄だった。
 この間、私たち家族は、家を借りることもできず、何もできずに、ただ「いつか、日本に帰れる」という思いだけで生きていた。元気な人は収容所からハルビンの街に出て、道路舗装や荷物運びなどの仕事をしてお金を貰い、それで食べ物を買ってくる人もいた。また総菜を作ってザルに入れて売り歩く人もいたが、お金の無い私たちには買えるはずもなかった。また収容所では、小さな子供が育たないということで、中国人に子供をあげたり、売ったりする人もたくさんいた。そうしなければ、あんな環境の下では、小さな子供は死ぬしかなかった。
 このような厳しい収容所生活の中で、ついに私の家族にも犠牲者が出た。まず最初に、満州で生まれた一番下の妹が、栄養失調で亡くなった。係の人が妹の死体をさっさと運んでいった。その時に泣いた覚えもない。辛いとか悲しいというような感情は、すでに麻痺していたように思う。
 母は、いつも少ない配給の食料を、私と妹に分け与えて食べさせてくれていた。私は母が収容所で何かを食べている姿を見た覚えがない。母に何かを炊いて食べさせてあげたこともない。しだいに母は、栄養失調に陥り衰弱していった。そんな母が生き延びれるはずもなく、寝たきりになってしまった。医者に見せるお金もなかったのではっきりしないが、伝染病にも罹っていたのかもしれない。どこからかやっと手に入れてきた一本の人参を、ただ水煮したものを口にして、母は「おいしい、ありがとうね」と言って、息を引き取った。なにもしてあげられなかった母の最後は、本当に惨めだった。「母」というだけでも辛くて、思い出したくない。その死に方が惨めすぎた。私は十五歳、妹が八歳の時だった。

 生きるために

 母の死を悲しむ間もなく、私は、妹ひとりを収容所に残し、知人の紹介で中国人の家に女中として住み込みで働くことにした。八歳の妹も、栄養失調で元気がなくなって、配給の食事だけではとても足りず、かといってお金も全然持ってなかったからだ。今でいうパートのようなもので、私は「いつかは帰れるのだから、それまで食いつなぐために」という気持ちで始めた。もし、小さい妹よりも先に、母が亡くなっていたら、小さい妹を見るために仕事もできず、結局はみんな死んでいたかもしれない。私は、三人程のお手伝いさんを雇っている裕福な家で、掃除をする仕事についた。
 仕事が休みの日には、妹に会うために収容所に行った。いつも妹の顔を見るまでは「妹が死んで捨てられてはいないか」という不安があった。収容所では、昨日まで生きていた人が今日はもう死ぬ、というのが日常茶飯事であったので、妹が遊びに行っているだけで、「もう死んだ」と思うこともあった。しだいに妹は、ぐったりして寝たきりになっていった。私は、このまま妹を収容所においておくと、確実に死んでしまうと判断した。そこで、私たち姉妹を親身に心配して下さる人の助言もあり、日本語の解る中国人夫妻(勤め先の人の兄弟にあたる)の家に、妹をあずけることにした。妹と離れるのが寂しいとか、そんな感傷的な気持ちはなかった。ただ、妹が食べて生きておればいい、という考えしかなかった。収容所で幼子を抱えた他の親達も、生きるためにそうしていた。当時は、助かるためには、そうするしかなかったし、そうしなければ死ぬしかなかった。五人家族のうち、四人が生き延びる為に、一人を犠牲にして中国人に売るということもあった。また私くらいの年代、十四、五歳であれば、もう結婚できるので、生きるために中国人と一緒になった人もいた。
 妹が「満人」服を着て、その家での生活にも慣れてきた頃、ようやく日本への引き揚げが始まり、私も仕事を辞めて収容所へ戻った。妹と私の二つのリュックに食べ物を詰めて、荷作りをした。私は妹と一緒に帰るつもりだった。妹のいた家では、もう妹を養女としてもらったつもりでいたが、私としては、あげた訳ではなくあずかってもらっていたという気持ちだった。
 出発の二、三日前になると、どうして妹を連れて帰るか、そればかり考えていた。出発ギリギリになって、私は、なんとか妹を連れ出して、一緒に日本へ帰ろうという思いで、近所の子供に妹を呼び出してもらい、強引に妹を収容所へ連れ帰った。そのことに気がついた夫婦が、私の勤め先の主人と一緒に、血相を変えて収容所へ追いかけてきた。そこで一悶着あり、妹を返す、返さないで喧嘩のような大騒ぎになった。私は「妹は渡さない」とがんばった。妹の養父は「この子にはたくさんお金をかけてきた」とか「面倒を見てきたのに恩がない」とか言っていた。この様子を見かねた、周りの開拓団員のみなさんが、なけなしのお金を出し合って、今までのお礼がわりに「満人」夫妻に渡しなさいといってくれた。しかし、そのお金を渡すと、その養父は「いらない」とお金を放り投げ、怒って帰って行った。
 あの時は、大人相手に最後まで負けなかった。私としては、「どうしても一人では帰れない」という気持ちだった。引き揚げ前に、子供を引き取りに行って、絶対に会わせてもらえなかった人、子供がどこにいるのかさえわからなくなった人、「満人」との交渉に負けて身を引き裂かれる思いで泣く泣く子供を手放したお母さん、そんな人達をたくさん見ていたからだ。新聞やテレビで「残留孤児」のニュースを見るたびに、胸が痛む。

 帰国

 待ちにまった日本への引揚げが始まった。しかし、そこでもまた妹と離れなければならなくなった。それは、「あなたは若くて元気だから、病院船に乗って付き添い看護をしてくれ」と団員の人に頼まれ、私は病人ばかり乗っている船に乗ることになったからである。妹は団員の人達が面倒を見ておくからということで、ハルビンから乗る列車も、妹と私は別々になってしまった。ハルビンから何日も汽車に乗り、コロ島という港へ着いた。私はそこから、病院船に乗った。船の中は負傷した兵隊が一杯乗っていた。船の中でコレラが流行り、日本が見えているのに、海上で三週間程待機させられた。コレラに罹っている人が別の船に運ばれ、その船はどこかへ行ってしまった。幸い私は大丈夫だったので、ようやく博多に上陸することができた。そこから、大阪の開拓団員の人から教えられた、妹の居場所を捜して大阪へ向かった。妹は、東淀川区にあった母子寮にあずけられていた。そこで、別れてから三か月ぶりに妹と再会した。
 大阪に着いてすぐに、私は妹と二人で食べていくために仕事を捜した。すると「沖縄の人は雇えない」と言われた。また「沖縄の人は引揚げている」という話を聞いた。それを聞いた私は、「沖縄に帰りたい」と思った。両親は亡くしたけれど、沖縄には祖父母も叔父、叔母もみんないるだろうから、十二歳まで育ったところだから、妹と一緒に沖縄に帰りたい、と思った。しかし、周りには頼れる人もおらず、引揚げ手続きをする場所を捜し、あちこちまわって自分一人で手続きをした。そしてなんとか沖縄行きの引揚船に乗ることができたが、その船は、沖縄行きの最後の引揚船だった。
 沖縄では祖母が温かく迎えてくれた。祖母が、亡くなった両親に対して「自分たちは死んで楽になって、子供二人で帰すなんて」と言った。その言葉に、たまらず、祖母と号泣したのを思い出す。
 苦労、恐怖、生き地獄、そんな言葉でも十分には言い表すことのできない体験をしてきたな、と当時のことを思う。いっそのこと、あんな苦労をするよりも、弾に当たって死んだ方がよかったかもしれないと思うこともあった。十二歳の時、読谷を出た時、叔父さんと夜通し歩いて那覇に行ったあの時から、妹と二人で祖母の元に戻るまでの三年間は、とにかく大変だった。どれだけ言葉を尽くしても語り尽くせない。誰かを恨んでいるということはない。誰がやったかわからないが、恨んでいるのは戦争。もちろん、私よりも凄まじい体験をされた人々も、数多くおられることも承知しているが、もう二度とこのような体験はしたくない。

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