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4 「満州」での戦争体験
体験記

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 ○満州での思い出

 知花※※(儀間※※の妹・昭和十二年生)

 私が満州に行ったのは、五歳から八歳の時で、まだ幼かった。満州で一番思い出すことは、開拓村から安達(アンダー)に向かう途中の川でのことで、流されそうになりながら、首まで水に浸かって渡ったことである。もう死んでしまうのでは、という恐怖感を覚えている。
 また、安達の馬小屋の生活で忘れられないことは、二十代の女の人達が何人かで集まって、髪を切り、丸坊主にしていたことだった。「どうしてこんなことをするのだろう」と、思ったのが忘れられない。ずっと後になって、あれはソ連兵から身を守る為にやっていたんだということがわかった。
 ハルビンの収容所では、私は比較的元気だったので、収容所となっていた小学校を歩いて、様子を見てまわった。廊下で、大きな鍋におじやをぐつぐつ煮ている光景、教室ごとに分かれて各地から来た開拓団の人達がまとまっていた様子を覚えている。また、渡辺さんという女の子のことを覚えている。父親は、学校の先生だった。その子が栄養失調になって、寝たきりになってしまった。その子が寝たままで自分の手のひらを、表、裏と返しながらずっと見つめていた。何をしているのだろう、と思って見ていたが、ぽっくりと亡くなった。私と年も同じくらいで、収容所ではずっと一緒だったので、それが忘れられない。
 収容所で母を亡くし、私は子供のいない裕福な「満人」の夫婦にあずけられた。そこにはお手伝いさんもいた。ここでは、とてもかわいがってもらった。姉が働いていた家のおじさんと、私の養父が兄弟だったので、養父母は、私に寂しい思いをさせないようにと、週に一度は姉のところに連れて行ってくれた。そしてその帰りは、レストランで高級な料理を食べさせてくれたり、デパートできれいな服を買ってくれたりした。養父は日本語がペラペラだったので会話に不自由することはなかった。私の小学校の入学手続きも進めてくれていた。幸せといえば、最高に幸せだったかもしれない。
 家では養母が、よく泣いていた。私はその当時「何で泣くのかな」と思っていた。すると養父が「おまえが、いつまでたってもマーマー(お母さん)と呼んでくれないから、お母さんは悲しんでいるんだよ。おまえがマーマーと呼んでなついてくれたら、お母さんはどんなに喜ぶことか」と言われた。でも当時八歳だった私は、養父母は自分のお父さんでもお母さんでもない、という気持ちで、心からお母さんとは思えず、声に出して「お母さん」と呼ぶことができなかった。やっぱり「自分は人にあずけられている、いつまでここにいるのかなあ」という気持ちだった。
 私は、姉が言った「どうにかして、ここから連れ出すから、いつかは一緒に日本へ帰ろう」という言葉を信じていた。「私はいつか帰るんだ」という気持ちをいつも心にしまっていた。それを口にした訳ではないけれど、私が外で、はしゃいで遊んでいても、養父に「あんたは、いつか日本に帰れる時がきたら、きっと、逃げて帰るだろうなあ」と言われた。「逃げる」という言葉は「満人」の言葉では「ポーラ」と言った。そんな時、私は黙って頭を下げて、「はい」とも「いいえ」とも、何とも言うことができなかった。でも養父から「あんたが、お母さんと呼んでくれたら…」と言われたことと、「いつかポーラするでしょう」と言われたことは、頭から離れない。
 日本に引き揚げるということで、姉に連れられて収容所にきた。そこへ、養父たちが駆けつけた時のことは、覚えているけれど、複雑な心境であった。
 もし、あのまま満州に残って残留孤児として育っていたら、と考えてみるが、私は当時もう八歳になっていたし、読谷の住所も家族の名前も覚えていたので、第一陣で戻ってくることができたと思う。二、三歳であずけられた人だったら、肉親を捜すのは難しいと思う。
 戦争については、国と国との間にどういう事情があろうと、戦争をする条件がそろっていようとも、二度とやって欲しくない。たとえ、爆撃や空襲が全くない場所にいたとしても、私たち家族のように避難生活を強いられて命を落とすという状況に置かれることもある。だから、向こうで戦闘をしているのだから、ここは大丈夫だとか、よその国が戦争をしているので自分の国はやっていないから幸せだ、という保証は無いと思っている。世界中、どこの国であろうと戦争はしてはいけない。

 『満洲開拓史』(満洲開拓史刊行会、六六七頁)によると、「昇平開拓団は、八月十七日現地引揚げを決し、(中略)二十一日(中略)在団員七六七名出発、安達に向かったが、泥濘に難行した。途中臨安義開に一泊、二十四日臨安出発、(中略)安達駅到着、安達駅滞在四か月(8・26―12・16迄)、その間ソ連の強制労働に従事し、伝染病等で死亡者一六六名に上った。十二月十七日ハルピン着、花園小学校収容所に収容され、全員五四二名にて越冬した、越冬期間中の死亡者一七一名、八月二十三日ハルピン出発、二五二名、残留八八名。九月十八日コロ島発、十月十日博多に上陸した。(以上、団長代理長谷川※※氏提供)」となっている。

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