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4 「満州」での戦争体験
体験記

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 ○満蒙開拓青少年義勇軍として

 比嘉※※(大正十一年生)
 
 希望を胸に

 読谷山尋常高等小学校を卒業後、私は那覇の金物屋の店員として働いていた。隣の店では、同じ波平出身で同級生の松田※※が働いていた。この※※に、満蒙開拓義勇軍の隊員として行っていた先輩の又吉※※(波平)から何度となく手紙が来ていた。私達は、再三の手紙で満蒙開拓義勇軍の情報を知り、心が動いた。三か月内地で訓練を受け、三年間満州での訓練を経たら、一人一〇万坪の土地を与えられるというのである。私と※※は、このまま暇な店でぼんやりと店番をする毎日を続けるより、また読谷に戻って狭い農地を耕して暮らすより、小さな沖縄を飛び出して大陸で一旗揚げようと、ひそかに心に期していた。こうして大陸で自分達のすばらしい村を作りたいという希望を持って、満蒙開拓義勇軍に応募することにした。この時私達は十六歳だった。
 当時沖縄では、三か月ごとに満蒙開拓義勇軍の募集があった。この一次募集で又吉※※が行ったのだが、私達は二次に応募した。これには試験があり「なぜ満州へ行きたいのか」などと聞かれる口頭試問や常識程度の試験、身体検査などがあり、誰もが行けるとは限らなかった。この審査にパスして、私達は義勇軍として行けることになった。しかし、出発の前夜私は足の怪我で歩くことができなくなり、第三次の隊員達と共に出発することになった。小さい頃からいつも一緒だった※※は「イャートゥマジューン(あんたと一緒)であれば心強いけれど、しかし決まったことだから先に行くよ」と言って、出発して行った。

 内原訓練所へ

 昭和十四年八月、第三次に沖縄から出発した義勇軍は一一人だった。この時村内からは長浜の長浜※※、牧原の比嘉※※や知名※※が一緒だった。沖縄から茨城県の内原訓練所へ行き、三か月間の訓練を受けた。ここでの訓練の目的は、大陸での新たな村づくりに必要な知識と技術を身につけて、人間として立派な精神を持つことであった。兵舎は日輪兵舎と呼ばれるもので、円筒形の建物に円錐形の屋根であった。生活は厳しかったが、若くはあるし、それに希望に満ちあふれていたので、苦しいと思ったことはなかった。また沖縄では芋と野菜の味噌汁ばかり食べていたので、昆布やそうめんがあれば上等というような食料事情の中、訓練所に来たら「ナナチグン」、これは沖縄の方言で七種の食事という意味で、お茶も含めて、味噌汁、ご飯、漬物、魚、豆腐など七種のものがそろった食事を意味するのだが、当時の私には大変なご馳走であった。沖縄の親からすれば、なぜそんな遠く離れた厳しい生活を自分から選ぶのかと思ったようだったので、「毎日すごいご馳走を食べていますよ」と自慢して便りを送っていた。
 朝、当番が「起床!」とどなると一斉に跳ね起き、布団をたたみ靴をはき、脚絆(ゲートル)を巻き、洗面、点呼、宮城遙拝と続き、朝食前に整列して一里(四キロ)ほどを走った。深呼吸を三回したらまた来た道を走って戻るのだが、残り一〇〇メートルというところまでくると「早がけ」といってダッシュをさせられた。朝食後の日課は軍事教練、開墾作業、剣道、柔道、銃剣術、語学と忙しかった。一日八時間の課業の割り振りは、三時間は学科を勉強して、一時間は満州の言葉の勉強、これは満州で一〇万坪の土地をもって、現地の人を使って大きな仕事をするためであった。二時間は農業の勉強で、引き続き二時間は軍事教練だった。これは開拓を目的に満州へ行くのだが、一旦緩急あれば、駐屯地や開拓団の村の守備に当たるためだよということで、軍式の訓練を受けていた。
 楽しみといえば、三時に間食のマントウ(饅頭)を食べることだった。印象に残っているのは、訓練所で習った「日本体操(やまとばたらき)」という体操だった。確かに厳しい毎日ではあったが、周りの仲間もみんなでやっていることなので、全然苦にならなかった。
 訓練所では、六小隊が集まって三〇〇人の一個中隊が編成されていた。義勇軍は全国各地から集められていたので、みんながそれぞれの土地の方言で話していて面白かった。まだあどけなさの残る十六歳から十九歳くらいの青少年が、脚絆(ゲートル)を足に巻き、軍服を着て、一人前の兵隊気分で得意になっていた。この三〇〇人の青少年からなる中隊が、三か月ごとに訓練を終え、順次満州へ渡って行った。
 内原訓練所で三か月の訓練を終え、いざ満州へ出発という時、※※君がしもやけになった。満州は内原よりもっと寒いところだから、まずは、しもやけを治してから出発しなさいということになった。私と泣く泣く別れた※※は「あんたは先に行っておきなさい、私はこれを治してから後で行くから」と言って沖縄に帰っていった。沖縄でしもやけを治している間、青年師範学校を受験し合格した※※はそのまま教職の道へ進むことになり、満州へは来なかった。戦後になって読谷で出会った時、「イーバーイャーヤ、しもやけナティ(あの時君はタイミング良く、しもやけになってよかったね)」と言って笑ったものである。

 沖縄に戻る

 満州へ行く前に、もう会えなくなるかもしれないということで、親に面会する為に一時帰宅した。県出身の仲間と共に帰郷したが、このとき、名護の屋部出身の比嘉※※という元気者も一緒だった。彼が「みんなで名護へ行こう」といってバスに乗ったのだが、「仲泊で降りて名護まで走っていこう!内原では毎朝、毎晩走っていたのだからその方が、調子が出る!」と言い出した。みんないやとは言えずバスを降りて名護へ向かって走った。名護に着いたら、家には案内しないで今度は「嘉津宇岳に登ろう!」と言い出した。名護まで走ってきて疲れているのにさらに山に登った。
 今度は牧原の比嘉※※が、沖縄へ来たら、寒い内原で鍛えた体がどうも調子が良くないと言い出して「体調を良くするために、海に入ろう!」と言い出した。彼は入りたかったかも知れないが、私は入りたくなかった。みんなの手前しかたなく十一月の冷たい沖縄の海に入った。こんなむちゃなことをしたことも、今となってはとても懐かしく思う。

 昌図青年義勇隊訓練所での生活

比嘉※※氏・昌図訓練所にて(当時18歳)
 満州では、奉天省の昌図青少年義勇隊特別訓練所へ入所した。初めて満州を見た時、その広さに驚き「一〇万坪の地主」という話は嘘ではなかった、と思った。ここで、義勇軍という名称が義勇隊と呼ばれるようになった。そのことはなぜだかわからない。ここで開拓移民としての村づくりのための教育として農産、加工、通信、鉄工まで専門の指導を受けた。寒い冬は午前中は学科、午後は軍事教練と農作業をして過ごした。満州の土地は肥えていて、三年間は肥料を入れなくても立派な野菜が収穫できた。
 満州の冬の寒さは言葉では表しきれない。寒いのではなく、自分の手が凍るのだから痛いのだ。しかし不思議なことに沖縄から来た者は凍傷にならなかった。かえって寒い地方から来た人が凍傷になっていた。それは、「ここでは空腹時は外出するな、外から中に入るときは手足をよく揉んでから入りなさい、そうしないと手足が腐る」など色々と教わっていたことを、寒さを知らない私たちが生真面目に実行していたからではないかと思っている。県出身者はどんなに疲れていても、言われた通りに必ずやっていたものだ。
訓練所での養豚風景(比嘉※※氏提供)
 向こうではオンドルという床暖房をする為に、煙突があるレンガ作りの家で過ごしていた。野菜などは、地下に穴を掘って貯蔵していたが、地下四メートルのところでは、夏でも氷が溶けず天然の冷蔵庫になっていた。満州では四月まで雪があるし、九月になるともう霜が降り始めるという気候であった。雪が溶けている半年間に農産物を栽培しさらに収穫して、貯蔵庫に入れて冬に備えた。冬は農作業もできず、貯蔵した野菜を食べたり家畜をつぶして食べたりしていた。
 こうして昌図で三年間、起床ラッパで起き、消灯ラッパで就寝という生活を送った。タバコ、酒などはもちろん禁物という厳しい生活の中、激励袋をもらったり、故郷からの便りを支えに皆頑張っていた。当時の楽しい思い出といえば、雪の中での野ウサギ狩りや魚釣りだった。

 開拓団へ、そして徴兵検査

 義勇隊は三年間の現地訓練を終えると巣立ち、義勇隊開拓団へ移行することになっていた。三年間の訓練を終えた私は、北満州宝清県大和鎮というところで新しい村づくりに励むこととなった。この地に骨を埋めることを心に誓い、土地を耕した。作物を植え、育ててすばらしい村をつくるという思いで入植したが、最初の年は予想以上に開墾が厳しく苦労が続いた。しかし、みんなが今までの訓練や学んだことを活かして村をつくるという気概に燃えていたので、苦労も乗り越えることができた。ここでは、花嫁を迎えて村をつくるということで、内地から集団で花嫁が満州に渡ってきていた。彼女たちは「大陸の花嫁」と呼ばれた。糸満出身の友人は、戦後他府県出身の花嫁を連れて沖縄に戻ってきた。彼と沖縄で会った時「お前めずらしいね、僕らは手ぶらで帰ってきたのに」と冷やかした。
 開拓地で大地と格闘していた私は、すでに二十歳になっていた。当時は二十歳になると徴兵検査を受けることになっていた。甲種合格で昭和十八年一月、満州東安省半戴河満州第五〇部隊へ初年兵として入隊した。上官は、波平出身で先輩の知花※※と同期の人だった。その知花※※先輩が教官に「比嘉※※は私の弟分だから、よろしく頼む」と話していたこともあって、上官は私を育てようと、人一倍私に厳しくて大変だった。軍隊生活を送りつつ、自分は新しい村づくりの為に満州へ来たので、二か年間軍隊生活を務めたら、また開拓地に帰ろうと考えていた。その時は日本が負けて、「満州国」が無くなるということは予想もしていなかったのだ。
 昭和十九年八月、四平省公主嶺機動満州第二五二二二部隊へ転属となった。

 「沖縄玉砕」と「浜千鳥」

 新しく入隊した人は二十一歳くらいで、それから初めて兵隊の訓練を受けるのだが、私の場合は十六歳から内原訓練所で鍛えられてきていたので、すぐに使いものになるということだったのか、上官から幹部候補生として、旅順の第四一五部隊下士官要員学校へ入校しなさいと言われた。しかし私個人としては「満蒙開拓ということで、満州の土地を耕すために来たのであって、軍隊で飯を食べるということにはあまり関心はありません」と言ったのだが、「大東亜戦争の真っ只中という非常事態なのだから、幹部候補生として行きなさい。これは人事課からの命令だ」と言われた。幹部候補生になったらずっと軍人なので、一旦は断ったが、仕方なく行くことになった。昭和十九年九月、旅順の下士官要員学校に入校した。そこで二か月間の課程を終えて元の部隊に戻り、大隊長付きになった。
 そこにいる時、上官に呼ばれて行くと、ラジオから沖縄玉砕のニュースと共に琉球民謡の「浜千鳥」が流れてきた。この歌を知っているのはもちろん私だけであった。「浜千鳥」を聴きながら何ともいえない気持ちになった。沖縄のことを思った。親も友もみんないなくなったと思い、自分もいつ死んでもいいという心境になっていた。
 昭和二十年六月からは、満州東安省シベリア国境ゲリラ部隊の兵隊として戦闘に参加していた。しかし戦闘とはいっても、私は大隊長のそばにいるのが仕事で、大隊長はソ連との国境近くからは離れたところにいて、指令を出すので、前線には行かずに済んだ。しかし、大砲や銃声は盛んに聞こえていたし、負傷兵が戻ってくるのも見たが、直接戦闘の経験はない。

 終戦と武装解除

 昭和二十年八月十五日に戦争は終わっていたのだが、私達は八月三十日までそのことを知らずにいた。その前日には近くに駐屯しているロシア軍に、肉迫攻撃をしなさいという命令を受けていたので、みんなはそのつもりであった。食料を残しても仕方無いということで、腹いっぱい食べて、弾薬、手榴弾等の準備を整えて、山の下にいるロシア軍に突撃するつもりであった。その夜は、もう今夜限りの命だという心境であった。そこへ伝令がやってきた。日本は八月十五日にすでに負けて終戦になっており、このまま金倉というところの収容所へ出頭し、武器弾薬を敵に引き渡せということであった。あと数時間で肉迫攻撃に出るところであった。
 こうして日本の敗戦を知らされた我々三〇〇名の部隊は、上を下への大騒ぎとなった。一般兵では「もう戦闘しなくていい、命は助かった」という思いも大きかった。しかし指揮を執っていた幹部達は「日本、再び立つことあたわず!」といった。あちこちから銃声が聞こえてきた。そして、そばに付いていた二等兵の「○○中隊長、自決しました!」という声が聞こえてきた。そんな状況の中で、「いくら日本が負けたといっても、錆びた剣を渡すのは敵に対して恥になる」と言って、「一生懸命、武器を磨け」という命令が出された。それで私達は、戦争が終わって明日には敵に渡すというのに、武器磨きをさせられた。
 九月一日、満州間島省金倉において武装解除を受けた。約三〇〇名が隊列を組んで、降参旗を揚げて歩いたが、恥ずかしいものであった。ロシア兵が遠くからスピーカーで私たちに、「武器を投げ捨てろ」と命令した。ピカピカに磨いてきた武器を地面に投げ捨てた。
 金倉にて二〇日間収容された。そこには、簡単なテントが張られているだけであったが、五万人の日本人が集められていると聞いた。琿春まで隊列を整えて歩いて向かうことになった。このままではシベリア行きだと、私は何名かと計画して待ち合わせ場所を決め、そこから抜け出すことにした。

 クマヌクェーヌクサー(熊の喰い残し)

 満州には七年間もいたので、だいたいの地理は頭に入っていた。仲間と落ち合うことはできなかったが、折を見て収容所を抜け出した。各地に点在する弾薬、手榴弾の埋められた場所も覚えていた。それで私は「沖縄も玉砕してしまった。家族もいないのに、もう生きていても仕方無い」という気持ちでそれらの場所へ行き、手榴弾を掘り起こして自決しようと思っていた。しかし、どこもかしこも誰かによって弾薬が掘り起こされた後で、それらを手にすることはできなかった。そんな中で、熊に襲われた。熊に服の胸の部分を引き破られたのだが、私は棒で熊に殴りかかったら、熊が逃げていった。その日は熊から身を守る為に義勇隊時代に習ったように火を焚いて一夜を明かした。当時満州の街道には主のいない痩せた軍馬がよく歩いていたが、まさか熊に遭うとは思わなかった。戦後沖縄に戻ってからこのときのことを、沖縄では沖縄戦を生き延びた人のことを「艦砲ヌクェーヌクサー(艦砲の喰い残し)」と言うが、私は「熊ヌクェーヌクサー」だと笑われた。
 その翌日、私は山中にある元部隊の壕に行った。そこへ避難した山から自分達の部落へ戻る「朝鮮人」家族が通りかかった。その「朝鮮人」は、まともなものを食べてなかった私に「兵隊さん、どうぞ」と言って自分達の食べ物を分けてくれた。この家族はその夜の寝場所を探していたようで、私のいた壕で共に一夜を過ごした。翌朝、彼らは「まず、自分達は元部落へいって様子を見てきて、それからまたあなたを連れにきます。それまでここで待っていて下さい」と言って、出て行った。
 その翌日、今度は拳銃を持った二人の日本人が壕に入って来た。彼らは元新聞記者であった。その二人が日本の敗戦後、ロシア軍の配下になって日本の敗残兵探しの仕事をしていたのであった。彼らに「勝てば官軍、負ければ賊軍、というように、日本はもう負けてしまったので私たちはこうして働いている。だから、自分達と一緒に来てくれないか」と諭された。当時の感覚では彼らを国賊だと思った。しかし私は何も持っておらず、何の抵抗もできず、彼らに従うよりなかった。私はウラジオストックに連れて行かれ、そこでしばらく炊事場で働くことを命じられた。そこで、アメーバー赤痢に罹り、野戦病院へ入院することになった。この病院で回復した者はシベリア奥地へ連れて行かれたが、「この中で一里以上歩けるものは、別の病院へ移す」と言われたので、私は手をあげ、満州の病院に送られることになった。満鉄の鉄道は剥がされていた部分が多く、線路跡に沿って歩いたりしながら、病院を移った。こうして一年近くかかって、満州の病院を転々としながら、昭和二十一年十月、コロ島より米軍船に乗船して博多に着いて復員手続きをした。その後広島宇品の収容所を経て、十一月に沖縄に帰ってくることができた。そうして石川収容所で七年ぶりに両親と再会した。生きて帰ることができるとも、再び家族と会えるとも、思いもしなかった。

 満蒙開拓青少年義勇軍

 満州開拓団というのは、大人になってから移民、移住するという形であったが、私達義勇軍はまだまだ子どもで、義勇軍、後に満州では義勇隊と呼んだが、これは開拓団よりも、非常事態での即戦力として使える人員の養成というおもむきが強かったように思う。もちろんその時は何も分からなかったが、義勇軍に比べれば、開拓団は常に家族や自分たちの生活のことを考えていた。満州での義勇隊は、平時は国のために少しでも大豆を多く収穫することに心血を注ぎ、兵士の食料確保のために働いて、いざ戦闘になれば自分も兵隊として戦うという国策に沿った、全く国のためのものであったのであろう。
 しかし、私にとっての満蒙開拓青少年義勇軍とは、十六歳から二十歳までの間、大陸で新しい村をつくるという希望を胸に、生死をかけてやってきた、いわば青春の全てであった。今となっては、私達が夢みていた満州での暮らしは、敗戦と共に幻のように消えてしまい、思い出だけが鮮明に残っている。私と※※に、夢を膨らませる手紙を書いてくれた又吉※※は戦死した。牧原の知名※※も満州で没した。※※は生きて帰っては来たが、病気で亡くなった。共に満州で過ごした名護の比嘉君も生きて帰ってきたので、互いに行き来して満州でのことを語りあえると思っていた矢先に病死してしまった。また同郷波平の比嘉※※も新垣※※も亡くなった。満州帰りで話のできる人はほとんど亡くなってしまった。
 戦後も様々な経験をしたが、数えで八十歳近くなった今(二〇〇〇年七月)も、若き日の満州での体験が良くも悪くも深く心に刻まれている。

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