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4 「満州」での戦争体験
体験記

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 ○「大陸の花嫁」に憧れて

 玉城※※(大正十一年生)

 満州の展示会

 小さい頃から、家も貧しくて兄弟も多かったので、長女の私は畑の手伝いや弟妹の面倒をみることで手一杯でした。それで読谷山尋常小学校の六年が終わって、高等科へは進ませてもらえなかったんです。家を助けなさいということでね。親の言うことは聞かんと大変でしょう。
 その頃、読谷では満州の展示会なんかがありました。役場の方や若い人たちが満州を視察してきて、帰ってきてから講演会や展示会のようなものがよくあったんですよ。たしか小学校四年生の時だったと思います。満州から土や大豆などを瓶に入れて学校に持ってきて、それをこっちのものと比べたりしていました。こっちの土は赤土でコロコロしてますが、あっちは黒い土でホロホロで見るからに肥えた土なんです。大豆も満州のものは大きく立派に育っていましたよ。それを見て、「ああすごいなあ」って思っていたんですよ。とにかく、満州のことが盛んに聞こえてくるような状況でした。
 いろんな条件が重なって、私は実際満州へ行ったわけですが、展示会で見たのは本当でしたよ。収穫する作物はとても立派で、満州へ行ったことに何も後悔はありませんでした。ただもう、戦争に巻き込まれて、家族バラバラになって、何もかもメチャメチャになってしまったことが悔やまれるのです。

 大阪の紡績工場へ

 十五歳になった私は、大阪の紡績工場に働きに出ました。大阪でも、ニュース、映画、新聞、雑誌で「大陸の花嫁」って募集があったんです。満州での生活の様子が描かれている「大陸の花嫁」って映画も見ました。読谷で満州の話を聞いていたときは、どこかまだ半信半疑のところがありましたが、大阪にきてから、映画でトラクターや馬を使っての農作業の様子なんかを見てね、私はそれに憧れたんですよ。
 家は貧乏、ろくに学校も行ってないし、どうせ農家の嫁。ネクタイとか革靴履いているようなところには、嫁には行けないでしょ。もう先は見えていたんです。だからそれよりは、「大陸の広い土地へ行って」って、希望はほんとに大きかったわけ。夢。その夢が大阪でますますふくらんでいきました。読谷ではどうだったか知りませんが、その当時、花嫁として満州へ行きたいと思って実際行った人は、たくさんいました。どんどん渡っていったんですから。
 私は十五歳から大阪の工場に働きにきていて、二十歳まで五年間大阪にいましたからね。両親は、私の同世代の人はもう結婚して、子供もできていたので「どうする、あんたこっちに帰ってこないね」と言ってきていました。でも、沖縄に帰って結婚しようとは思っていませんでした。私は満州へ行くことを希望していましたから。また南洋やフィリピンへは行きたくなかったんですよ。やっぱり満州だったんです。朝鮮半島からすぐ行けるから近いということもありましたから。でもそれは親が絶対ダメだということが分りきっていたから、口には出しませんでした。

 花嫁として満州へ

 私は「大陸の花嫁」には憧れていましたが、「花嫁募集」に応募したわけではありませんでした。もし応募して満州へ行ったなら、結婚相手は誰に当るか分らない、配給のようなものでしたから。向こうには義勇隊の青年達がいっぱいいますからね。私は、結婚相手を選ぶことができないというのは、いやだったんです。また、親もよその字の人との結婚は許してくれませんでしたから。
 ちょうどその頃、義勇隊開拓団員になっていた座喜味の人が満州から嫁をもらいに帰郷していたんです。それで、私の家に私をもらいに来ていたそうです。その時、両親は「本人の希望次第だ」と言ったようです。今考えると、親はうすうす、私が満州へ行きたいと思っていることを分かっていたのかもしれません。
 それですぐに大阪に手紙が来て、私はびっくりしました。同じ字の人とはいえ、会ったこともなかったものですから。もちろん座喜味から誰々が何名満州へ行っている、ということは知ってはいましたがね。その人から手紙を受け取った私は、「内容には満足しているけど、親はどういうかな」という内容の返事を書きました。するとすぐに「親は本人の希望次第と言っている」という手紙が来ました。それで、私は「よし!行こう!」って決めたわけ。それだけですよ。ただ自分と同じ字の人だから一安心ということで、人がいいとか悪いとか、そんなこと全然分らないままに大陸に花嫁として渡る決心をしました。開拓して働けば、広い土地をもらえるって思ってましたから。それで同じ字ということで親も許してくれました。親の言うことは聞かないとね。
 昭和十七年四月に婚約して、十一月に私は憧れの地、満州へ渡ることになりました。私は宝石義勇隊開拓団第一次の花嫁部隊(八人)、の先遣隊でした。花嫁のうち五名が沖縄の人で、比嘉※※、上原※※、饒平名※※、儀間※※と私でした。あとは福島県から大方※※、河野※※、長野県から松沢※※のあわせて八名でした。本当に満州に第二の祖国を建設するという気持ちで、一生向こうに住むという決意でした。
 昭和十七年十一月、私達八名の花嫁達は、こちらでは何の訓練を受けないまま、すぐに下関に集合でした。そこで義勇隊員の花婿達と合流しました。船と汽車を乗り継いで満州へ行ったら、もう展示会で見たとおりの広い広い畑続きで、土地は肥えていて、キュウリ、ジャガイモ、スイカ、マクワ(瓜)などがコロコロと実っていました。きれいな夕陽が印象的でした。
 花嫁として向こうへ行ったその日から、私用の一丁の鉄砲と五〇発の銃弾が手渡されました。事前にそんなことは、だんなになった人からも全く聞いていませんでした。向こうへ行ったらいきなり銃を渡されたので驚きました。それは開拓村にやってくる「匪賊」と戦うためのものでした。また着替えも無いので、男物の肌着なんかを着て眠ったんですよ。

 花嫁訓練と看護実習

 満州へ着いた翌日、私は東安省密山県北五道崗訓練所へ、花嫁訓練を受けに行くことになりました。そこで一か月間の訓練を終了して、団に帰ってきてから、すぐに合同結婚式を挙げました。そして落ちつく間もなく、今度は宝清県の陸軍病院に看護実習を受けに行きました。たしかそれは一〇日ほどの期間であったと思います。団には病院も無いし、看護婦もいない、ただ若い衛生兵が一人いるだけでしたから、自分たちで何でも手当てできるようにということだったのでしょう。短期間だったので、ただ包帯の巻き方とか薬のつけ方とかそんな程度でした。陸軍病院には負傷兵がいっぱいで、この人達の看護は本当に大変でした。ガーゼなんか取るのも嫌がるしね、痛いといって。体温計を挟むのも嫌って、何もさせてくれないので困りました。相手は気が立っているし、私たちは看護婦さんみたいに上手ではなかったのでね。

 「匪賊」との闘い

 こうして、満州義勇隊開拓団での生活が始まったのですが、私が満州へ行って間もなく、「匪賊」が襲って来たんです。私は向こうに行くまでは、「匪賊」ということも自分が鉄砲を持つということも全然知りませんでした。ただ憧れていただけですからね。
 開拓団での生活は日中は野良仕事をして、夜になると寝ますよね。それがぐっすり寝れるわけではなかったんです。眠る時は、寝床のそばに自分の服、靴下、靴を並べて、家のドアの横に鉄砲と弾を置く。だんなのものはあっち、私のものはこっちって。いつでも飛び起きて行ける準備をした上で眠るんです。これは、「匪賊」に備える為でした。
 開拓団の集落の周りは土壁で囲まれ、壁の外側には塹壕が掘られていました。そして二人一組で歩いて不寝番。男も女も関係なく、二時間ずつの交代制で。そして入り口には有刺鉄線が張られていました。
 この不寝番、何をみるかというとね、「匪賊」が来ないかどうか、青い火をみているのです。あっちこっちの山から、「匪賊」が開拓団の集落へ襲って来るときは火が上がるからね、それを見張っているわけ。そしてその火が近づいて来たら「フィリリー」って警笛を鳴らすんです。団員は眠っていても笛が鳴ったらとび起きて、銃を持って、あらかじめ決められている自分の塹壕の位置に着くんです。義勇隊ですから、みんな訓練されているわけです。慣れない私もそれを真似て、銃を構えていました。ランプが点いているとこれを目標にされるから、全部真っ暗にしてね。闇の中でそれぞれの決められた場所で銃を構えている。
 あっちが撃ってきたら、こっちも撃つ。あっちが撃ってこなければ、こっちも撃たない、というやり方でした。私が行った頃にはもうありませんでしたが、先遣隊だけだったころには、「匪賊」を捕まえてその生首を集落付近にぶら下げていたようです。向こうで写真を見ました。実物は見ませんでしたがそういう写真はたくさんありました。

 満州での生活

 私達が暮らしていた場所から、晴れた日にはソ連領が見えました。遠くに大きな川が流れているのが見えたのですが、その対岸がソ連領だと聞きました。
 開拓団にはお店もないし、なんでも自給自足の生活ということで、現金はほとんど持っていませんでした。近くの「満人」の集落から小銭でお菓子を買ったりはしましたが、そんな程度でお金は持ちませんでした。タバコも配給で来るし、お酒は全然ありませんでした。普段はほとんど自給自足同様の生活でした。私は小さい時から親を手伝ってきて、鍛えられていたので、畑仕事もなんでも辛いということはありませんでした。中には屯墾(とんこん)病といって、ひどいホームシックにかかる人もいましたが、私は大丈夫でした。
 義勇隊開拓団は、とにかくみんなが二十歳そこそこの若者ばかりでした。普通の開拓団なら、最初から家族持ちが行って、あとからみんなを呼び寄せるのでお年寄りもおりましたが、こっちは全く若者ばかりでした。若者達が共同生活をして、食事などもみんな一緒でした。家も土で作られた小さな家で屋根は草、中には暖をとるためのオンドルとペチカがありました。お風呂もないので、露天風呂。この露天風呂は一週間に一回くらいしか入れませんでしたが、みんなでお風呂を焚こうって言ってね、男も女も交代ごうたいで入ったんですが、もう冬は寒いですよ。お風呂から家まで歩く間にたちまち体についた水滴が凍り始めるんです。でもね、もう若いからヒャーナイ、楽しかったですよ。みんな張り切っていましたから。「第二の祖国建設」という希望を持ってがんばっていました。

 初めての出産

 そんな中で、私は初めての子供を身ごもりました。ツワリがはじまったのですが、本当に何も分からなかったんです。周りに教えてくれる人もいなかったからね。それで、陸軍病院で看護実習の時にもらった出産・育児に関する小冊子だけが頼りでした。妊娠からツワリ、お産、そして一歳の誕生日までのことが、簡単に書かれてあり、それを見て勉強しなさい、ということだったので、出産から育児の全てにわたって、その小さな本を読んで一から十までやったんです。
 私は花嫁として第一次に来た中で、一番最初のお産でした。その後は次々と産まれましたがね。とにかく赤ちゃんが生まれるということを、団のみんながとっても喜んでいました。最初だったから、男も女も集まってきて大喜びなんです。団の中でも少しはいい部屋でお産することになりましたが、赤ちゃんを取り上げたこともない三十歳そこそこの衛生兵と、あとは仲間達が男も女もみんな集まってきてね、大変だった。私は苦しいけど、どうしていいか分からないから、ともかく生まれてくる時期を待ちました。それで私は「みんなごめんね、みんなが喜んでくれるのは嬉しいし、あんた達がいて心強いと思うけど、後で落ち着いてからね」と言って、衛生兵と女の人だけ残って男達は外に出てもらいました。そして、昭和十八年八月、私は無事、長男※※を出産しました。赤ちゃんが生まれたといってもうヒャーナイ、みんなで大喜びしました。
 産後といっても何のご馳走もなかったですよ。卵一つもないですよ。ただ同じ配給の食事をするだけでね。今だったら産婦は栄養つけるためにご馳走をあげますよね。戦争前だから配給だけで何もありませんでした。
 産後は四〇日くらいは休ませてもらいましたが、そうそう休んでもいられませんでした。お産については、次の人からは経験上私が一番分かっているので、そのたびに衛生兵を手伝いました。
 赤ちゃんは外のお風呂に入れたら、寒くて大変なので、家の中でタライで浴びさせましたよ。お風呂の入れ方も看護実習でもらった小冊子を見てやったんですよ。

 「満人」と「朝鮮人」

 戦争前の「満人」は本当にかわいそうでした。日本人がいじめてね。それも自分の目で見ています。朝起きて見ると、早朝から「満人」が馬車を引いて山に入っていくんです。薪を荷台がいっぱいになるまで集めに行くのです。夕方までかかって、どっしりと積んできますよね。それを開拓団の日本人が見ていて、帰りがけに鉄砲を突きつけてこの馬車を自分たちの集落まで連れてきて、一日がかりであつめた薪を全部ここに置いていけ、というわけです。で、その薪をどうするか?自分たちが使うわけです。やっぱり、この団にもこんな人はいたんです。「満人」は両手を広げて「メイファーヅ(仕方が無いさ)」と言って諦めて、カラ馬車を引いて帰ってゆきました。こんなことは、一度や二度ではありませんでした。こんな光景を見ると「アイエーナー」と心が痛みました。こんな風に日本人は戦争前、満州の人に意地悪していたわけ。だから、この恨みが戦争終わってから、全部こっちに向けられてきたのです。もう、「満人」の顔も見られませんでした。
 また、近くに「朝鮮人」の集落もありました。いつも通り塹壕の上で不寝番は立っていたのですが、どこから入ってきたのか朝鮮の人が、岩塩を盗みに来ていたのです。この岩塩は馬に食わすために、馬小屋の倉庫に置いてあったのです。朝鮮の人は、冬にいっぱい漬物(キムチ)を漬けるので多分塩がなかったはずです。もう非常時だから、塩が買えなかったのでしょう。
 それでその人を開拓団員がひっぱってきて、「とったのか、とらなかったのか、白状しろ」って。それで白状しなかったらサンパチ式の銃の弾を指の間に縦に挟んで強く締め付けて「白状しろ」って苦しめていたよ。あの時まだ私は二十歳頃だったから、「なんでこんなに苦しめるかね」と思いました。

 夫の召集

 昭和十九年二月、開拓団員に最初の召集令状が来ました。この後、男達は順次召集を受けて行くことになったのです。そんな中、私たちの義勇隊開拓団に、昭和十九年春(四、五月頃)、沖縄から団員の親族四、五人が来られたんです。日本から宝石義勇隊開拓団へ来たのはこの人達が最後でした。この人々は団員の兄弟達などで、沖縄は危ないかもしれないということで満州に呼び寄せを受けて来たのです。沖縄開拓部落に来たときに、団員達は自分たちも兵隊に取られたら、後はどうなるかわからないから、「楽しく歓迎会をやろう!」っていってね。みんなで歓迎会をしました。そうはいってもお酒もご馳走もない、ただカラで盛り上がってね(笑)。向こうには三線やギターもあったからね。一人一人引っ張られて前に出て沖縄民謡を歌ったり踊ったりしてね。私はこの時二番目の子供がお腹にいたんです。それでも、もう引っ張られて立たされてさ。その時に私は座喜味で少しだけ習っていた「上り口説」を踊りましたよ。楽しい夜でした。
 その時お腹にいた子が、昭和二十年四月に生まれました。次男の※※です。この頃には、開拓団の中に診療所が出来ていて、医師も勤務するようになっていたので、最初のお産の時のような大変さはありませんでした。
 次第に開拓団内でも、子供が次々に生まれて、農作業にも慣れてきて、少しづつ生活もよくなってきて「さあ、これから」という頃、とうとう私の夫も召集(昭和二十年四月)されてしまいました。二番目が生まれた二〇日後でした。
 昭和二十年の五月、六月頃になると、開拓団員のほとんどが、女性と小さな子供ばかりになっていました。しかし、落ち込んでいるわけにもいかず、女達だけでも何とかやっていこう、とお互い励まし合いながら、それぞれが小さな子供や大きなお腹を抱えながら、男の分まで働きました。

 突然のソ連軍の侵攻

 新聞は毎日くるので、戦争で南洋のサイパンもやられたとか、ある程度は知ってましたが、自分たちの置かれている状況は全然分かりませんでした。
 昭和二十年八月九日でした。いつも通り午前中は野良仕事。その頃は麦も大きく育っていて、「男たちが兵隊に取られても、自分達(女性達)だけでこんなにいっぱいの麦を作ることができたねえ。早く刈り取りして、もうすぐお盆だから脱穀してみんなでお祝いしようね」って喜んでいたんです。そんな会話をしながら、麦を刈り取っているときに、めずらしく山の方に飛行機が飛んでいるんです。「なんか、おかしいな」と思いつつ、夕方四時半頃帰ってきて御飯の準備をしていました。
 そこへいきなり、馬に乗った人が来たんです。満州はずっと原っぱのようで、遠くまで見えるので、この人は何の用事かな?って思いながら見ていたら「戦争が始まった。すぐに本部に集合しなさい!」と言うでしょう。慌てて「とにかく早く本部に集合してここを出発しなさい」と言っているのです。集合時間は夜の七時で、もう真っ暗でした。それでもある程度は、女同士で馬車を引いて荷物も積み込んで準備をしました。ところが、「そこまでソ連軍が来ているから、それどころではない」、「オシメや着替えは捨てなさい」と言われ、もう体一つに、三八式の銃と自分の二人の子供だけを抱いて逃げました。食料も何も持たない。家にはその日の夕食を作ってあったけれど、食べることも持つこともできなかったんです。それどころじゃなかった。あっちもこっちも女だけの生活、そのうえ、七時までに本部集合ということで、もう大事なもの(子供)だけ。当時お金というものは何も持ってませんでした。
 そして私たちは混乱の中、追われるように開拓村を立ち去りました。

 逃避行

 私達の開拓団は人数が多かったので、一斉に行動すると敵に見つかりやすいからということで、各部落ごとに分かれて出発することになったんです。私達の開拓団には長野部落、福島部落、香川部落、沖縄部落とあったのですが、人数が少なかった沖縄と広島の人達とが一緒になりました。出発してすぐに数人の頭道義勇隊員(大阪出身)と一緒になりとても心強く感じました。私達はほとんどが小さな子供を抱えた女性で、おめでたしている人もたくさんいました。
 宮古の饒平名※※はその時臨月で、しかも三歳の子供をおぶっていたんです。
 勃利(ボツリ)には大きな訓練所があったので、そこまでなんとかたどりつけば、食堂があり食料もいっぱいあるはずだから、がんばろうって励ましあいながら歩きました。いつのまにか他の団員とも合流し、大勢で移動中にソ連兵に襲撃されたんです。もうほとんど女子供しかいなかったのですが、それがソ連兵に囲まれてね。これで最後とみんな泣いて泣いて座っていると、日本の兵隊が馬に乗って来たんです。その時は八月十日の午前中で、戦争はまだ負けてなかったんですよ。それで日本兵がソ連兵を追っ払ってくれて、助かったんです。
 そこを通りすぎて、八月十三日くらいだったでしょうか、その夜もまた一人の子供がワーって泣いてしまって、襲撃を受けたんです。子供の口には泣かないように布を詰めていましたが、やっぱり泣くんです。夜鳴きとか、お腹がすいたとか。でも泣いたら周りの人から叱られますよ。子連れの母親は肩身の狭い思いをしました。その夜は非常に大きな襲撃でした。それでもう、私は二人の子供を抱きかかえて、三人でうずくまりながら、どうか私たちに弾があたって死ねますようにって、お祈りしていたんです。

 弾にあたりますように

 このような絶望的な状況の中で、自殺した人もたくさんいました。実際に井戸に飛び込んだ人もいました。私も二歳の子供と五か月の赤ちゃん、二人の子を抱いてね、死のうと思っていたさ。弾はどんどん来るし、道はぬかるんでいて川には橋もかかってないし、もう歩けない、逃げられないわけ。だから、もう死のうと思ったのよ。
 でもそれも叶わず、沖縄がどこか分かりませんでしたが、こっちに向いたり、あっちに向かったりしながら、「どうぞ、私達に弾が当たりますように」って祈ったよ。一緒に逃げ惑っていた人も、私の前を歩く人にも、後ろを歩く人にも弾が当たって倒れていくけど、私達には当たらないわけ。「弾に当たりませんように」ではなくて「弾にあたりますように」とお願いだったのですよ。
 飲まず食わずで歩き続けていましたから、子供はもちろんお腹がすいていますでしょ、でもおっぱいなんか出ない。時には、激しい雨で濁った川の水を口に入れてやりましたよ。また死んだ兵隊から水筒を失敬して川の水を入れてね、親子三人で分けて飲んだわけ。食べる物なんて、何もないよ。何日も食べてない。ただ川の水ばかり飲んでいました。

 大きな川を渡る

 避難行中は連日の雨で、川の水かさも増して来ていました。橋はすでに破壊されてもう全部無くなっていたんです。それで大きな川の濁流の中を首まで水に浸かって、ずぶぬれになって渡るんです。周りの人達は、子供が一人に大きなお腹という人が多かったんです。だけど、私は二人だったから、一日二日は子供の無い人が抱いてくれたりしましたが、長くは持てないですよ。三日目からは「これからは、自分が先にやられるか、どうなるかわからないから、もう子供は返しましょうね」って。それで、私は「二日間、どうもありがとうね」っていってその子を受け取りました。一人はおんぶして一人は抱っこして歩きました。でも、もう山越え、川を渡るの連続で、もう歩けないわけ。そんな状態で、大きな川を子供二人抱いては渡れませんよ。その川で五か月だった次男は、とうとう亡くなったんです。団を出てから一週間程経ったころでした。
 そして、次にまた大きな川を渡る時に、福島県出身の母親が六歳くらいの子を負ぶったまま、プカプカと川下へ流されてしまいました。その家族のみんなが「あああーー」って叫んでいたけど、誰もどうすることもできない。もう、それで、さようなら。できることは、ただ手を合わすだけ。そのあくる日、前日流されて行った人の夫が、今度は「満人」に殺されたと聞きました。
 また沖縄から頭道に来ていた※※というお嬢さんは、十五歳くらいでしたが、沖縄は危ないということで、親類のいる満州まで避難して来ていたんですよ。そのお嬢さんもやられたそうです。もう、見つかったらすぐにやられるんです。そんな状況でした。戦争が終わってから日本兵から奪った武器を「満人」は使い、暴れていました。
 そんな状況の中で饒平名※※の陣痛が始まったのです。※※はハサミとお産用布団を持参して歩いてました。その※※と※※(当時三歳)を草陰に残して私達は出発しました。「ごめんね、ごめんね」といいながら、置き去りにして行ったのです。そのことは今でも彼女に会えるのなら謝りたいです。※※さんは「お産が済んだらまた歩いていくから、みんな先になっていいよ」と言うのですが、お産のときはみんなでそばについてあげるのが本当です。この時の気持ちはなんとも言えませんが、自分達もどうなるかわからない状況でした。その後、収容所で彼女を見たという話を聞きましたが、私はあれ以来彼女とは会っていません。

 勃利は火の海

 そうしてようやく、最初の目的地としていた勃利へ着きました。しかしそこはすべてが火の海でした。ここへくれば、何か食べられると思って辿りついたので、がっかりしましたが、今度は牡丹江をめざして歩き出しました。
 途中、トウモロコシやジャガイモなどが実りの時期でたくさんありましたが、火が使えませんでした。火を使うとすぐに「満人」が来るのです。日本人と「満人」の立場は逆転していましたから。昼は山の中に潜んでいて、夜、真っ暗な中を行動しました。そして畑の野菜を取って、全部生のまま、まるかじりしました。私は子供を抱いて、そんなふうにしながら、牡丹江を目指しました。
 八月十五日に戦争が終わったことも知らず、私たちは相変わらず昼は山の中、夜は歩くという生活をしていました。そうして九月に入ると、満州ではぐっと気温が下がって寒くなってきました。それで、死んだ兵隊さんの肌着を取って自分が着ました。そしてその兵隊さんのすぐそばで平気で眠りました。満州のいたるところ、死体はいっぱいでした。もう怖くはない、そんな感覚はとっくになくなっていました。今だったら怖いよ。でもその時は自分でも毎日の逃避行に疲れ果てて、まともな判断ができない状態でしたからね。

 ソ連兵に捕まる

 勃利から牡丹江に向かう途中でソ連兵に捕まったんです。どこってもう、わかりませんよ、どこがどこか分からなくなっていましたからね。捕まったのが九月の末か十月に入っていたのか、それもわからないのです。
 一か月以上も山の中で暮らしていたと思います。そんなある日、日本軍の集合ラッパが聞こえてきたんです。おかしいね、なんでこんなところで集合ラッパを吹いているかね、とみんな不思議に思いながら草の中で息をひそめていました。ところが、そのラッパがずっと鳴りつづけているので、草陰から様子を見てみるとソ連兵の鉄兜と日本兵の鉄兜の両方が見えたんです。どういうことか意味がわからずに戸惑っていましたが、これは私達を呼ぶためのラッパではないかと考え、仲間とともに山を降りていくことにしました。兵隊達のところへ行こうとしたら、後ろから「伏せー、伏せー!」って聞こえるんですよ。その時山の中にはいろんなところから逃げてきた開拓団員が大勢いたから、誰かが叫んだんだと思います。出て行くのはまだ早いということで、様子を見ようということだったのでしょう。
 それでもあまりにも長くラッパが鳴り続いたので、一人のおじいさんが両手を上げて、兵隊達のところまで行ったわけです。そしたら、「日本はもう八月十五日に戦争に負けたから、投降しなさい」って、話を聞いたようで、そのおじいさんが山に避難している私達に向かって「出てこーい」って合図したんです。その時に周りの人に「武器みたいなものは持って行くなよ、その場に置くか、川に投げろ」って言われたんです。ソ連兵に渡さないようにね。そして私たちは、両手を上げてソ連兵と日本兵のところへ行きました。そこにはもうたくさんの日本人が集められていました。

 子供の死

 ソ連兵に捕まって、また歩いて牡丹江の官舎(元日本兵の宿舎)に連れていかれました。そこが収容所になっていました。そこに一〇日間くらいはいたでしょうか。そこで、ずっと抱いて歩いてきた長男を飢えと寒さで亡くして、一人になりました。そこからはソ連からの配給がありましたが、皮つきのコーリャンなどで、一日少しだけの配給でした。
 私は一人になってしまったので、そこでは毎日川辺に座って過ごしていました。いつも朝早くから川辺に行ったんです。そして配給された皮付きコーリャンや粟、黒パンなどを持って、ソ連兵の捨てた空き缶を拾ってきてそれで煮て食べました。また昼になったら残しておいたコーリャンを缶で水煮してね。塩も何もないよ。そして日が暮れるまで、ただぼんやり川を眺めて過ごしていました。
 またみんな虱にたかられていたので、服を全部脱がされて熱湯消毒されました。一週間したらまたわき出してくるんです。それの繰り返しでした。

 ハルビンへ

 牡丹江からハルビンまでは貨車に乗りました。屋根もない、無蓋の貨車でただ板の上に乗っての移動で、夜は寒く、食べ物もありませんでした。暗くなってから、停車すると空き家から鍋などを探して、みんなで急いでトウモロコシを煮て食べたりもしました。
 二人の子供を亡くした私は、ずっと一緒だった又吉※※の子供を預かって抱いていました。その※※が汽車の中で亡くなりました。ハルビンの駅には至るところに墓穴が掘られていましたが、※※もそこに埋められました。そしてその数日後、私が預かっていた彼女の子供も息を引き取りました。
 ハルビンまで私達と行動を共にしてくれた大阪出身の義勇隊員たちは第七次、八次で満州へ来たばっかりでした。彼らはまだ若すぎて召集されてなかったのです。その人達がずっと先導してくれたおかげで、沖縄と広島の集団は、髪も切らずに済みました(編者註・当時、日本の女性達はソ連兵から身を守るために、男のように断髪する者も多かった)。敗戦になって、みんなの気持ちも落ち着かず、彼らが守ってくれなければ、とうていハルビンまではたどり着けませんでした。だから沖縄の元義勇隊開拓団のメンバーが集まると、その時助けてくれた人達に会いたいね、という話になるけど、どこに住んでいるのか分らず、できないのです。
 ハルビンの収容所では、大変な寒さと栄養失調でたくさんの人が亡くなっていきました。

 収容所を脱出

 私はハルビン収容所に留まらず、そこを脱出することにしました。それは、夫との約束があったからです。夫が私を嫁に貰う時、私の両親から「どんなことがあるかわからないが、もし何かがあった時でも、娘だけは必ず実家の玄関までは連れて来てくれよ」と強く言われていたそうです。だから、夫が召集された時に、「親との約束は守れないけれど、お前はどんなことをしてでも必ず無事家に帰ってくれよ」と言って出て行ったのです。その言葉がずっと心にあり、私はとにかく南へ南へという思いで石炭列車の石炭貨車に潜り込んで、駅に着いたら飛び降りるという方法で、新京、奉天と南下していきました。そのとき同じ団員だった福島出身の鈴木という人と群馬出身の兵隊が一緒でした。
 ソ連兵といえば略奪のし放題で、何もかも持っていくと言われていたけれど、それは下っ端の兵隊で、上級の人たちは全然そんな風ではありませんでした。新京などの都会では、ソ連兵の士官たちが道端で途方に暮れている日本人にお金を投げ与えたりしていました。
 鞍山の製鉄所には、座喜味出身で同じ開拓団員だった当山※※が工員として働いていることを知っていたので、私は満州で頼る人といえばその人くらいしかいなかった。それで鞍山を目指して石炭貨車に潜り込んで列車の旅を続けました。ようやく当山※※の住所まで辿り着いたものの、彼はすでに朝鮮に召集されたとのことでした。召集されたときに、彼は手紙や所持金を私たちのいた宝石開拓団に送ったと聞きましたが、私たちのもとには届きませんでした。

 鞍山にて

 鞍山では、行動を共にしていた兵隊の同郷だった工場長の家で、風呂にも入らせてもらい、蒸かしたイモを食べさせてくれました。生き返る思いでしたが、そこにお世話になるわけにもいきません。行動を共にしていた兵隊の家にもお世話になるわけにいかず、みなそれぞれが生きていくだけで精一杯でした。いつしかずっと一緒だった鈴木ともはぐれて、身寄りのない私は鞍山の町で一人ぽっちになりました。しばらくはモチやタバコを作って道端で売って、なんとか食いつないでいました。お金を払わずにモチを盗っていく人がいたり、昼間も危ない目に何度も遭いました。夜は人家の軒下で眠りました。
 鞍山にはハルビンや新京のような避難小屋や収容所のような施設が全くありませんでした。厳しさを増す十二月の寒さの中で、もう食べ物も住むところもない私は、手も足も凍ってしまって凍死寸前になっていたんです。

 中国に残留

 私は終戦時、二十三歳だったのですが、こっちまで帰ってこれなかったんですよ。ほとんど凍死寸前のところを、ある中国人のおばあちゃんのうちに連れて行かれました。行きたくて行ったわけではないよ。ただもうこのままではもう死んでしまうよ、ということで連れていかれたんです。それでも私は少し体力が回復したら、そこを逃げ出してとにかく日本へ、読谷まで帰りたいという気持ちでいっぱいでした。それで何度もその家を抜け出しましたが、広い町ではないので、鞍山駅で必ず捕まってしまって連れ戻されて、したたか殴られました。その家にはお姉さん達もいましたが、靴もたくさんあるのに私には与えられず、ずっと裸足でした。そして私はそこの息子と結婚することになったのです。逃げることもできず、食べ物、住む所も無い私が生きていくには、他の選択肢はありませんでした。このときは、日本に帰りたいのに、周りからそうすることが許されなかったんです。
 そうして昭和二十二年の春、中国人の夫との間に長女が生まれました。長女を産んだすぐあと、誰も見てくれる人がいないので、すぐオムツも洗わないといけないでしょう、出産してすぐ、水でオムツをあらったりしましたよ。誰も助けてくれる人はいなかったよ。
 それからは、今度は中国の役人がなぜ、日本人がいつまでも中国に残っているのだ、早く帰れ!という状況になりました。でも乳飲み子を見ていると、不憫でね、私自身は帰りたいんですよ、とても。座喜味の夕方の風景とかいつも思い出していましたからね。それでも、役所から「帰れ」といわれても、今度は私が「帰りません」と言ったのです。

 中国で生き抜く

 中国ではいろいろ苛められることもありました。マラリアに罹ったときも病院へ行けず、薬もなく、まして看病してくれる人も誰もいませんでした。マラリアにかかって震えが来ても、外からみている中国人は笑っていたんですよ。その時は赤ちゃんもいたのでね、震えながらもそれがおさまるまで、子供を抱きしめていました。一杯の水を飲みたい、一口でもいい、水が欲しいって思ってもね、周りに人がいるけど、誰も運んできてくれる人はいませんでした。
 また仕事にも出ました。そしてそこで六人の子供を産みました。生まれて五か月の子供が病気になって、義母に少しでいいからあずかって欲しいと頼みましたが、あずかってくれませんでした。まだ幼い長女に赤ん坊をまかせて私は仕事に出ましたが、きちんと世話ができるわけもなく、その子供を亡くしてしまいました。
 ほんとに色んなことがありました。でも私は体が丈夫だったので、困っている人を助けたこともありました。五階に住んでいる方がいたんですが、私はいつもその人の荷物を上まで運んであげたんです。自分を誉めてではないのですが、そのことが中国で新聞記事に取り上げられたこともありました。そうして、少しずつ中国人の中にも心の通う人ができてきました。
 中国で働きながら五人の子供を育てあげ、夫もおばあちゃんも亡くなり、昭和五十六年、私は沖縄に帰ることにしました。

 こんな平和な世の中がくるとは

 開拓団に花嫁として行ってから二か年半で戦争になったからね、少し慣れてきていいなーっと思ったら戦争になったんです。あの戦争がなかったら、って考えると、よかっただろうなーって思いますよ。戦争さえなければ、こんな思いもせずに済んだのだと思います。私は、まさかこんな平和な世の中がくるとは思わなかったので、今まで自分の体験を話してきませんでした。

 『満洲開拓史』(満洲開拓史刊行会、五三〇〜五三三頁)によると、宝清県には、開拓団が二四団あり、主として長野県、山形県からの送出開拓団であった。宝清県内の在団者は四八六三名、他に一般邦人八六〇名を数えていた。宝清県宝石義勇隊開拓団は樋口※※を団長とし、団在籍者は二二三名(うち女性一〇五名)であった。ソ連軍の襲撃や暴民と化した満州の現地人の襲撃、自決、栄養失調などによる死亡者は四四名、未引揚者六二名、帰還者一一七名とあり、越冬地は新京と記されている。

 参考文献及び資料

『満洲開拓史』満洲開拓史刊行会/一九八〇
『写真集 満蒙開拓青少年義勇軍』全国拓友協議会/一九七五
『沖縄大百科事典』沖縄タイムス社
『読谷村史』第二巻「戦前新聞集成上・下」/一九八六
「国策としての移民」石川友紀/『那覇女性史(近代編)なは・女のあしあと』所収・那覇市総務部女性室・那覇女性史編集委員会編/一九九八
『沖縄県の「満州開拓民」の研究―その入植まで―』沖縄女性史を考える会/一九九九
『第一次満蒙開拓青少年義勇隊内原訓練所第二十四中隊の記録 なれど「満州」』宝石拓友会 編集委員会代表国分繁/一九八四
『終わりなき旅「中国残留孤児の歴史と現在」』井出孫六/一九八六/岩波書店
『在外財産実態調査申告書(調査員:知花平次郎)』沖縄外地引揚協会へ申告された読谷村役場文書/一九八一
『引揚者給付金請求書処理表』
『友好訪中の旅―華陽を尋ねて―』東海農業友好訪中団/一九八一
『引揚記録・昇平大阪開拓団』昇平会一同/一九七七
『「満州」に送られた女たち―大陸の花嫁』陳野守正/梨の木舎/一九九二
『満洲の回想』渕上白陽編著/一九五八
「悲劇の王道楽土」角田房子/『グラフィックカラー昭和史8 終戦の悲劇』所収/研秀出版/一九八四
『中国残留孤児の記録 PART2 再開への道』浜口タカシ/朝日新聞社/一九八三

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