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5 シベリア抑留体験
体験記

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 ○比嘉※※(明治四十二年生)

   調査年月日 一九九一年十二月十一日
   調査者 上原恵子

 波平からは比嘉※※(義勇軍で満州へ)と新垣※※と私の三人がシベリア帰りである。喜名の石嶺※※などもそうだが、石嶺は二、三年前(一九八九年頃)に亡くなった。
 私は昭和十六年八月、数え三十三歳の時補充兵として召集された。それ以前には入隊した経験はなかった。熊本の二四連隊で一か月ほど訓練を受け、その後満州へ行った。福岡から船に乗り、朝鮮の京城(ケイジョウ)(現ソウル)から汽車で満州へ行った。九月なのに満州は雪が降っていた。太平洋戦争が始まった時は東寧県の老黒山(ロウコクザン)にいた。独立中隊七〇〇三部隊の輜重兵だったので、馬を使ってガソリンや弾薬を駅から山に運んだ。十九年の十二月から二十年の正月頃、蒙古から徴発した軍馬を輸送するために天津へ行った。そこでは空襲警報などが何回もあったが、満州ではそんなこともなかった。軍馬の輸送後、老黒山に戻った。終戦まで戦闘に直接参加したことはなかった。一緒に召集された知花※※、上原※※、知花※※などは歳も近く、満州までみんな一緒だったが、昭和二十年頃になってから彼らは南方に派遣されフィリピンで戦死した。私は満州の東安省に派遣され、別々になった。
 終戦になり一か所に集められ、朝鮮人と日本人とに分けられた。収容所に二、三日収容された後、シベリアに連れていかれた。ハバロフスクという町を通って、コムソリスクという所に行った。何日かかったかわからない。
 そこに三年くらいいて、伐採などの労働をさせられた。コムソリスクは寒い所で、九月頃から雪が降り、四月頃まで雪が多かった。零下三〇度の時も仕事をさせられた。そんな寒さの中、私達は厚い皮の手袋をして働いた。一個中隊くらいの単位で、伐採班・輸送班・炭坑班などに分かれて仕事をした。仕事のノルマを達成できると、手のひらくらいの大きさの黒パン一枚を貰えるが、できないとパンの量を減らされた。薪などの場合は六尺ずつに切って、それを並べて高さ三尺、横二間分がノルマだった。それだけできなかったら、減食となった。
 食事といえば、前述の手のひらくらいの大きさの黒パン一枚と、ほとんど中身の入っていない塩あじのスープだけだった。たまには生の小さなニシンがつくこともあったが、とにかく食べ物は粗末であった。
 年に一回、五月一日のメーデーの時だけは、おかゆより少し固いご飯を食べた。シベリアにいた三年のうち、ご飯を食べたのはそのメーデーの二回だけだった。
 木を伐採しに行く所までは、深い雪の中を三〇分程歩かされた。二人一組で伐採するが、木が倒れて来るのに気づかずに逃げ遅れ、木につぶされて死んだ人もいた。死体はどうなったか分からない。沖縄の人は凍傷にもならず、凍死する人も少なかった。不思議なことに沖縄の人は寒さに強かった。冬は木も凍っているので、斧で叩くだけでどんどん折れたが、夏は切らなければならなかった。
 その頃「赤旗のうた」という共産党の歌があって、毎朝歌わされた。それを覚えないと日本に帰さないと言われたが、覚えなかった。早い人は二十二年頃帰っていると思うが、私は遅い方だった(一緒に帰った玉城※※の資料によると二十三年六月)。
 引揚げの際は、コムソリスクからナホトカ港に行き、そこから船で舞鶴に着いた。その後長崎に行き、玉城※※らと出会い一緒に帰って来た。
 シベリアにいる間、沖縄の状況を全然知らなかったが、長崎に着いてから、沖縄は全滅したと聞いた。長崎からインヌミヤードゥイに行き、そこからトラックに乗った。運転手は波平の知花※※だった。高志保でトラックを降りた。
数え三十三歳で召集され、五年間は兵隊、その後三年はシベリアにいたので、足掛け九年目、沖縄に帰って来た時は、数え四十二歳になっていた。戦争中妻と五人の子供達は、西のチビチリガマに避難していたというが全員無事だった。久しぶりに会った子供達は大きくなっていた。

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